第8話 ある女官の出世
慧臣の発言に驚いた翠蓮妃が、銀の匙を床に落とした。
その音に、慧臣は焦る。
「ど……毒!? この中に、毒が入っているというの!?」
「あ、い、いえ! 違います!!」
(しまった、うっかり声に出してしまった……!!)
「この中に入っていたとか、そういう話ではなくて————あの医官様が言っていたことを思い出したんです。口から血を吐いて死んでいるなら、毒の可能性もあるって……それに、後宮で使う匙や箸は銀で出来ているという話を聞いたことがあります。毒に触れると、銀は色が変わるって————そういう話があったのを思い出しまして……」
慧臣が賢いのは、写本の仕事をしていたせいもある。
禁書を取り扱っていたせいで、書店は潰れてしまったが、様々な本の写本を作っていた。
西洋の国では、王室で使われている食器は銀で作られているとか、隣国でも銀の箸を使っていると何かの書物に書かれていたのを思い出したのだ。
「それは……確かに、私も聞いたことがあります。この後宮でも、側室同士の争いですとか、政治的な陰謀ですとか……そういうことがあったのでね。でも、毒味役もいますし。このお夜食だって、一応、そうしているわよね?」
「は、はい。もちろんです」
夜食を持って来た侍女ははっきりと断言する。
政敵も、他の側室からも恨まれていない翠蓮妃が毒を盛られることはまずありえないが、仕えている主人に何かあってはならないと、口に入るものは全て侍女が毒味をしてから持ってきている。
「確かに、私も慧臣に一応食べさせているくらいだしな」
「え……俺って毒味役だったんですか!?」
(いつも先に食べろって言ってくれていたのに……!! なんて人だ!!)
「毒か……色が変わっているのは確かに毒物に反応したのかもしれない。それに、慧臣、お前が見たその女人の霊は、『みんな殺される』と言っていたのだろう?」
「そうです。この簪を指差して、そう、言っているように俺には聞こえました」
「ふむ……」
令月は顎に手を当てて少し考えながら、簪に視線を落とす。
「……この簪はもしや、毒殺の証拠か? 首を吊って自殺したことになっているが、実は毒殺であったとか————」
「まさか……そんな事態になっていたなら、発見した医官が気づくはずでしょう? いくら若い医官だったとしても、他殺か自殺かくらいはわかるのではないですか?」
翠蓮妃はありえないと否定的だったが、令月の中ではその線が濃厚なようで……————
「翠蓮妃様、その桜琳様とやらに仕えていた侍女や下女を知りませんか?」
「……そうね、そこまでは流石に覚えてはいないけれど————後宮の管理している宦官の執務室になら、何か記録くらい残っているんじゃないかしら?」
*
翠蓮妃が言っていた通り、当時の記録は残っていた。
桜琳の侍女をしていた
現在は引退して、後宮を去っているが、最終的には先王の四煌妃の一人の侍女となり、女官としてはかなり出世していた。
若くして亡くなった桜琳よりも、長く後宮で働いていた氷梨の記録の方がはるかに多く残っている。
「記録を確認して気づいたけど……この氷梨って女官かなり怪しいですね」
「怪しい……?」
意識を取り戻して、後宮の執務室に戻ってきた合点は、見つけた資料を並べながら言った。
「氷梨が侍女をしていたのは、全部で六人いますね。そのうち三人が自ら絶っていて————一人は行方不明になっています」
一人は桜琳と同じように心を病んで首吊り。
二人はそれぞれ思い病気にかかってしまい、体の痛みに耐えきれず高所から転落。
行方不明となっているもうは、後宮から出て行くところを誰も目撃していないが、いつの間にか姿を消していた。
「それじゃぁ、この氷梨って女官が実は何か毒を使って殺したってことですか? みんな殺されるって……」
しかし、氷梨はすでに後宮にはいない。
あの霊が桜琳で、自分を毒殺した犯人である氷梨がすでに後宮にはいないことを知らないなら、そう訴え続けていることにも筋は通るが……
「慧臣、お前は霊が見えるし、声を聞くことができる。会話はできるのか?」
「へ!? 会話ですか!?」
(幽霊と会話なんて、そんなこと、考えたこともなかった)
「三十年もあそこにいるということは、成仏できていないんだろう? 氷梨がもう後宮にいないことを知れば、この問題は解決するんじゃないのか?」
「いや、そんな……俺はただ見えるだけで、専門家じゃないのでわかりませんよ」
「じゃぁ、やってみろ」
「え……?」
「もう一度、愛桜堂へ行くぞ」
「い、今からですか!?」
すでに誰もが寝静まっている時間だ。
こんな時間に、またあの気味の悪いものに会いにいかなければならないのかと、慧臣は露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだその顔は。当たり前だろう。何度も言う通り、幽霊というものは夜が深くなればなるほど、私のような普段は見えない人間にも見えやすいものなのだ」
朝の方がまだいくらか怖くないと思っている慧臣のことなんて、令月はまったく考えていない。
「わ、私はいかなくてもいいですよね!? また失神してしまっては、役に立たないだけ。ね? そうですよね?」
合点は必死に行くのを拒否。
今度こそ倒れられたら、慧臣一人で運ばなければならない。
「そうだな。合点はもう少しここで桜琳に関する資料を集めておいてくれ。別の理由で成仏できずにいる可能性もなくはない」
「よ、よかった……!!」
(くそ……!! 合点様だけずるい!!)
そうして、愛桜堂に三度行くことになった。
慧臣は泣きそうだったが、懐にしまってある使えそうな収集品に手を当て、なんとか勇気を出す。
(よくわからないけど、多分、大丈夫だ…………と、思う)
頼れるのは、鼻歌を歌いながら少し先を歩いている主人ではない。
自分自身だけだ。
「————……あれ? 医官様、どうしてここに?」
その三度目の愛桜堂へ行く途中で、先ほど合点を診てくれた医官の空言とばったり出くわした。
火の消えた提灯を片手に立っていて、雲間から月明かりが差し込まなければ見逃すところでだった。
「え、ああ、その第四王女様の体調が優れないそうで呼ばれた帰りです。診察は終えたのですが、提灯の火が消えてしまいまして……————」
「ああ、それなら……用が済んだら私たちも帰る。明かりがなくては不便だろう? 共に来るか?」
「え……? どちらにいかれるのですか?」
「愛桜堂だ。何、すぐに終わるさ。それに、医官としての見解も聞きたいところであったからちょうどいい」
「は、はい……わかりました」
気弱そうな空言は、令月の誘いを断らずに愛桜堂までついて来たが、明らかに挙動が不審だった。
(提灯の明かりが切れて困っていたくらいだ……こんな時間に幽霊が出ると噂の場所へついて行くなんて、怖いに決まっているよな……)
不思議なもので、慧臣は自分より怖がっている人間を見ると、それまでの恐怖心が少しだけ和らいだような気さえしていた。
だからこそ、空言を安心させようと声をかける。
「大丈夫ですよ、医官様。必ず見えるものでもないですから……」
「え……? ええ、そうですね……」
同時に、自分自身にも言い聞かせていたのだ。
(大丈夫……大丈夫だ。多分)
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