第3話

 受験生二人の息抜きのためにと、母が僕らをドライブに連れ出した学校終わりの金曜夜午後九時、世界が一変した。

 母は僕らにこの日の予定を空けさせていたので、かなりの覚悟を持っていたのだと思う。


 助手席に座った姉と、言葉を交わす運転席の母の口調が、いつもより数段明るく、後部座席から違和感を感じたことを覚えている。

 二十分ほど車を走らせて、まだ仕事終わりの達成感が残る華金都会の赤信号で停車したとき、母は息を吸う音が聞こえるぐらいにゆっくりと口を開いた。


 バックミラーに映る神妙な面持ちが、焦げるように脳裏にへばりついている。


「あのね、お父さんと離婚しようと思ってる」これが、母の静かな第一声だった。


 半分まどろんでいた眼が衝撃で飛び起きる。

 姉は一拍遅れながら、取り乱したように母を問いただし始めた。


「なんで急に離婚なんかするの。確かに最近空気よくなかったし、お父さんは仕事でストレス抱えて冷静になれてない。でも、でもさ、家族ってうまくいかないときも当たり前にあるよね。一回ぐらいうまくいかない時期があったって、私達なら絶対乗り越えられるよ」


 目の前の横断歩道では、スーツ姿の男女が楽しそうに言葉を交わしている。なぜかあったかそうだと思った。


「今から言うことを落ち着いて聞いてほしい」


 母は深呼吸した。正面の車窓から人々が小走りで横断歩道を駆けていく姿が見える。

 信号が変わる寸前、母はそっと言葉を置いた。


「お父さんはギャンブルとアルコール中毒になった。実はしばらく仕事も行ってないの」


 車が発進すると、車内の空気が凍った。そして、悲しみと怒りが入り混じって溶けていく。 姉は声の震えを抑えられずにいた。


「お父さんはスーツを着て仕事に行くふりして、ギャンブルしたり、お酒を飲みに行ってたってことなの」


「そういうことよ。あるとき会社から私に電話をいただいてね、ここ最近出勤してないんだって。それで、お父さんにいくら電話をかけても出ないし、心配しながら夜中帰ってきたところを問い詰めたら、酒臭い口で金をくれってしつこく言われた。二人は寝ていて分からなかったと思うけどね」


 後部座席から口を挟む。怒りと名のつく感情が心を突き破ろうとしていた。


「いつの話なの」


「六月末頃よ」


「もう三ヶ月ぐらい経ってるじゃん。お母さんはなんでそのとき私達に相談してくれなかったの。なにかできることあったかもしれないのにさ」


 姉が怒りに任せて言った。僕も早く楽になりたい。


「お母さんなりの二人に対する配慮だったけど、今思うと素直に話してよかったかもしれないね。本当にごめんね」


 胸が裂けた。痛烈に切りつけられた。止血してくれる相手はいない。


「ごめんじゃないよ。なんで一人で抱え込むの。お父さんもお母さんも。ちょっとさ、急すぎて受け入れられないよ」


 姉が叫ぶように言うと、車はまた赤信号で停車した。そろそろ郊外に出る。


「お父さんに精神科へ行ったり、会社の人に相談するようにかけ合った。私が会社に出向いて仕事を休職させてもらえないか、業務の負担を軽減させてもらえないかって相談させてもらったこともある。会社の人は優しかったけど、やっぱり、会社が利益を最大化する集団である以上、使えない社員は迷惑になる。無断欠勤してしばらく経つ社員なら尚更ね。だから、三ヶ月の休職中にどうにかしてくれということだった」


 凍てつく空気を尻目に母は淡々と続けた。もう既に整理をつけていたのだろう。母は、悲しみや怒りを乗り越えようとしていた。


「そんな……。じゃあ、もしかして今日がその職場復帰の期限だったってことなの」


 姉の問いに母はうんともすんとも言わなかったが、答えは明白だった。

 家族って血の繋がりしか結びつきないんだなと思うぐらい、無条件の信頼が崩壊していく。

 母は車を発進して続ける。

「私はもう無理だって分かっていながらも、三ヶ月のうちにお父さんがこれまで通りの状態に戻れるようサポートしたわ。でも、症状は毎日悪化するばかりで、暴言吐かれたり、お金を力づくで奪われたりして手の打ちようがなかった」


 姉は全力で叫んだ。


「なおさら相談してよ! 」


 バックミラーから見える母の目に涙が浮かぶ。姉の頬にも雫がこぼれた。僕は歯を食いしばって襲いかかる現実に耐えていた。


 母が涙に言葉を遮られながらなんとか口を開く。


「お父さんとは、せめて子どもたちのためにいつも通りを演じてもらうことを約束したけれど、二人とも薄々勘付いていたんじゃない? 」


 確かに、朝、食卓にいる父は目に強い影が落ちていたし、仕事に行くはずのスーツがタバコ臭かった。あれはパチンコにでも行ってた証拠なのだろうか。お酒臭かったのも、ギャンブルで負けて居酒屋に足を運んだ証拠なのかもしれない。

 よく振り返れば、中毒に気づけそうな兆候はあった。

 でも、会社の喫煙所に行ったのかもしれない、部下を飲みに連れて行ってるのではないか、なんて理由をつけて納得していた。まさか、本当にまさかなと思っていた。信じていたかったのかもしれない。

 人は期待に辻褄を合わせるのが得意らしい。

 どれだけささやかなことだとしても、なにかしらに言及できれば、こんなに痛まなくて済んだのかもしれない。気づいてることがあったのに。


 絶望に落ちていく中で、僕ら姉弟は言葉を発することができなかった。姉も勉強で忙しい中とはいえ、なにか気づいていたのかもしれない。各々が自分の無力さに震えている。


「騙すようなまねしてごめん。でも、こうするしかなかった」


 なにを言っても手遅れでしかないことを承知の上で口を開く。心のなかに渦巻くものを、どうにか言葉にしないと感情のやり場がなかった。


「なんでいつも通りを演じられるのに、酒とギャンブルはやめられないんだよ。大の大人がおかしいでしょ。支離滅裂すぎるって、変だよ」


「そうね、冬真の言う通り。正直、お母さんもおかしいと思うわ」


 父は理性をストレスに捨てたんだろう。ストレスを理性で捨てるべきなのに。

 いつも通りの振る舞いは、ギリギリ消えなかった残り火のような父性が働いていたのだろうか。そうだとしたら、人間ほど滑稽な生き物はいない。


「お父さんは今どこにいるの。今朝から見てないけど」


 姉が涙を拭って尋ねた。


「昨日の日中、実家のご両親に連れて帰ってもらった。一つのケジメとしてね。ご両親元気だし、事情を説明してどうにか引き取ってもらったの」


「じゃあ、実家で元気になったら全然問題ないじゃん。離婚するまでしなくていいよね」


 姉が諦めきれないという想いのまま言った。僕はもうなんとなく母がなにを言いたいのか勘づいていた。要らない冷静さだった。姉も普段だったら気づいていただろうに。


「母さん、今日話すべきじゃないと思う」


 気づけば強い口調で言っていた。自分より、今はとにかく姉を落ち着けなければいけない。

 ミラー越しに目を合わせた母は心底申し訳無さそうに、正面を沈痛な面持ちで見ていた。ハンドルを持つ手が小刻みに震えている。


「なに、お母さん。冬真もなにか私に隠してるの」


「なんでもないよ。とにかく今日はこのまま帰ろう。自分の部屋で一旦落ち着きたいし」


 姉が後部座席に振り返って僕を見た。心底睨むような目だった。


「冬真、なにか分かってるなら正直に話して」


 今まで一度も聞いたことない姉の低くて迫力のある声にたじろぐ。絶対に自分の口からは言えない。


 母が車を路肩のトラック用休憩エリアに止めた。姉が母のほうに向き直った。


「あのね奈月、お父さんといると、薬学部は到底入れない」


 いざ言葉にされると、胸のナイフが奥まで突き刺さる。刃渡りが絶望的なほど長かった。死にたいぐらい痛い。

 姉は雷にでも打たれたかのように反射の速度で母を見ていた。

 そして、姉の口から「え」と息が多めのつぶやきが漏れた。声の成分が少なかった。


「お父さんが借金作っちゃったのよ」


 いあたたまれなくなって、窓の外を見ながら大きく息を吐いた。悲しみや怒りではない、死に近い生の味。


「離婚すれば学費の手当を受け取れるから、公立の薬学部は通わせてあげられる。結構な額助成してもらえるから。でも、籍を入れたままだと借金の返済をしないといけないし、お父さんは職も失いかけてる状態だから、生活すらままならない可能性があるの」


 姉は涙を一杯にあふれさせながら喉を絞る。


「たくさん勉強して特待生になるし、アルバイトもして学費はどうにかするよ。だから、だから……」


 母は姉を抱き締めた。母も泣いていた。


「ごめん、二人のためなの」


 僕は泣けなかった。もちろん悲しいけど、悔しかった。


 まず、両親が繕っていた生活の手のひらで、やすやすと踊っていた事実が嫌だ。

 そして、僕らを転がしたこの世界が嫌だった。

 父は、なんで家族を犠牲にしてまで働いたのか。母は、どうして僕らに事実を隠さなければいけなかったのか。道徳なのか、常識なのか、規範なのか、誰がどんな風に伊東家へ力を加えたのかは分からない。


 ただ、漠然としたまま家族を壊すことになった世界が嫌いだ。


「嫌だ、嫌だ。嫌だよ。全部嘘だって言ってよ。ねぇ、お願いだから! 」


 姉の悲痛な叫びを聞きながら、父親の屈託のない笑顔が思い起こされる。


 姉は父が大好きだった。自分の弱さを支えてくれる父親が大好きだった。姉から父親を奪ったのは父自身なのか、それともこの世界なのか。

 どちらにせよ、壊れて二度と戻らない現実だけがある。

 世界を殺したいと思った。世界を粉々に破壊したい。こんな世界破滅してしまえばいいのに。いくらそう頭の中で願っても、僕は無力な中学三年生だった。



 この夜の出来事が時折夢に出てくる。夢だったらよかったのに。

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