第31話 死者と魔女と 2

 リドリーはもう一度白い世界へと舞い降りた。

 いや、まだ下へと落ちていく。


 終わらない落下の感覚。

 周りをとりまく黒い影が、リドリーを底へ底へと連れ去ろうとする。


 いつ果てにたどり着くのかもわからない。

 浮遊感は、リドリーに昔のことを思い出させる。母が自ら分身となった時のこと。

 自分では魔法を使えない母にとって、敵を倒し、リドリーを救う唯一の方法がそれだった。


 でも、この黒い影たちは違う。

 死にたくて死んだわけじゃない。守りたい者のために死者の国から、現世に呼び出されたわけではない。

 いや、死者の国にさえたどりついていないのだ。

 その前に、レンテに……いや、カールによって現世に止められただけ。


(助けて、助けて)


(死にたくない)


 そんな声が聞こえる気がする。


「違う、聞こえるんだ」


 リドリーは自分の肩に、足に触れる彼らを感じようとする。

 暗く冷たい泉に、心臓が触れるような感覚が訪れる。同時に、彼らの記憶が走馬燈のようにリドリーの頭の中を回り出す。


 崩れ落ちた自分の家。炎に包まれる街の姿。

 追いかけてくるオーランドの兵士。

 そして剣に身体を貫かれる痛みを感じた瞬間には、立ちふさがる自国の兵士に矢を射られ、崩れてくる煉瓦の下敷きになったりもした。


 痛くて苦しくて、リドリーはうずくまる。

 だけど一度同調してしまった彼らの記憶は、何度でも繰り返される。

 なんとか止めようとリドリーは意識の中でもがいた。けれど、彼らは死の瞬間ばかりを思い出す。


 苦しさの中で目を開ければ、黒い影には白い糸がまとわりついていた。


「これ、もしかして……」


 リドリーは歯を食いしばって、その白い糸に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、吸い込まれるように意識が遠のいた。

 白い糸の中を泳ぐように飛び、リドリーはやがて炎の中へ飛び出した。炎が肌を舐めていくが、熱くはない。そして街の中ではなかった。


「どこかの、屋敷?」


 燃えていない部分は、月明かりに照らされて白い壁と柱が見える。

 カールの屋敷とは違う。今いる場所も、緑の多い庭園だ。けれど目の前にいるのは、オーランドの兵士らしき黒服の男達だった。


 彼らは剣を手に飛びかかってくる。

 しかし【視点の主】は、彼らを剣の一閃ではじき飛ばした。

 今までと違う展開に、リドリーは目を見開くような思いだった。それに、なんて豪腕だろう。ハルディスだってこんな力任せな真似はできまい。

 はじき飛ばされた兵士達は、口々にわめいた。


「くそっ、手負いの男一人に」


「早く諦めろフィンツァー! お前の家もこの通りの様だ。邪魔者はくたばれ!」


 二度三度と撃ちかかってくる相手を、視点の主はよく防いだ。

 けれど荒い息づかいが聞こえる。剣を持つ手もなんだかゆるんできている。それでも視点の主は、相手を倒した。


「馬鹿め……」


 彼は苦しい息の中、つぶやく。

 そして館へきびすを返そうとした時、視界に見慣れた姿が映った。

 月影の中で赤黒く見える外套を羽織った、白金の長い髪の青年。カールだ。


「……結社か」


 苦渋のにじむ声で彼がつぶやけば、カールは楽しそうに口をゆがめた。


「さすが、ハルディス様をかくまっていただけあって私どもにお詳しい」


「俺に何の用だ。あの方はここにはいない」


「知っていますよ、そんな事」


 カールはくすくすと笑い出す。


「そもそも、あなたは家族を巻き添えにするのを恐れて、ご自分の別宅へかくまっていらした。でしょう? フィンツァー将軍。だからあなたを絶望させるには、最後に全て知られていたことを教えて上げるのが一番だと思って、私がわざわざ出てきたんですよ」


 カールの背後に、炎の狼が出現する。


「ご安心ください。あなたのかわいい娘さんも奥様も、全員火の中へ追い込んでおきました」


「くっ……」


 フィンツァー将軍と呼ばれた彼の脳裏に、人の姿が思い浮かぶのがわかる。その中に、レンテの顔を見つけてリドリーは息をのんだ。


「さぁ、家族そろって死者の国へ旅立って頂きましょう」


 その瞬間、フィンツァーの足下から火炎が立ち上る。

 断末魔の絶叫は聞こえたが、彼の痛みは不思議とリドリーには伝わらなかった。


 やがてその声と共にフィンツァーの視線が高く上り、浮遊して炎に包まれた館の中へと潜りこむ。

 赤いシフォンのカーテンのように揺らめく炎。それをいくつも超えたところに、倒れている二人の少女が見えた。


 二人とも意識はない。ただ、片方の上に焼けた梁が落下した。

 フィンツァーが心の中で雄叫びを上げる。そして彼は、まだ生き延びる可能性の高い娘の方へ手を伸ばした。


「あなたは――」


 言いかけたリドリーの視界が、白に染まる。

 数呼吸分の空白の後、そこには見慣れ始めた白い世界が広がっていた。


 何一つ形ある物のない世界で、うずくまって泣いている女の子がいる。

 いつも遙か年上の女性のように思っていたレンテが、黒い髪を頬に張り付かせて泣いている姿は、痛々しくて、ひどく幼く見えた。


 こんな姿を、リドリーは知っている。

 八年前の自分だ。


 母親を分身として、両親の仇を討った。

 けれど、母を失ったことに変わりはない。

 父は生き返ったりしない。

 たったひとりぼっちになったそのとき、リドリーは泣くことしかできなかった。


 レンテもまた、家族を失ったのだ。

 自分と違うのは、記憶を持っていても真実を書き換えられてしまった事だ。解放されない限り、彼女は自分の家族の死の真相すら、知ることができない。


「レンテ」


 ささやくように名を呼んで、リドリーはレンテの側に近づく。

 そして崖から落ちた瞬間、かばってくれたハルディスのことを思い出す。


 今なら彼の気持ちがわかる。

 見捨てられなかった。見捨てたくなかった。

 だって、辛いんだって私たちは知っているから。

 リドリーはそっとレンテの肩に触れた。しかし指先に電気が走って、はじかれる。痛みと驚きで思わず手を離した。


「これは何?」


 死者の世界にいるレンテの精神。触れたリドリーの指がうっすらと赤くなっている。

 彼女が拒否しているのだろうか?


「そんな……」


 自分が触れたはずのレンテの肩を見て、リドリーは首を傾げた。そこだけ卵の殻がひび割れたように、小さな傷が見える。

 逡巡した瞬間、ハルディスが自分にしてくれたことが脳裏に浮かんだ。

 まだ味方かどうかもわからなかったのに、リドリーを庇いながら川へ落ちたハルディス。


 こういう時に何をするべきかは彼が教えてくれていた。

 リドリーは深呼吸した。

 そして思い切りレンテに抱きつく。

 腕の中で何かが破裂するような音が響く。頬に腕に肩に痛みが走る。

 それらが去った途端、懐かしい光景がリドリーの目裏に広がった。


「私はレンテよ」


 紺色の制服に流れる黒髪。初めて見た時から、綺麗な髪だと思った。

 大人びた笑顔で手を差し出してくれたレンテ。その向こうにある窓の外は、美しい春の青空。


「初めまして、リドリーです」


 自分の顔が見えた。とても緊張していて、頬を赤くして笑顔を浮かべている。

 これはリドリーがはじめて研究室へ入った時の出来事だ。


「私は自己紹介する必要はないな?」


 ため息をつきながら言ったのは、ケネスだ。思わず首をすくめたリドリーに、レンテが笑う。


「なんだかお父さんみたいね、ケネス」


 ――そこで目の前が真っ暗になる。


 すぐに別な場面に変わった。

 学校の研究棟へ向かう渡り廊下。そこから降りられる庭の芝に座って、レンテと二人で昼ご飯を食べた時のことだ。


「本当、リドリーはよく食べるわねぇ」


 呆れたように言うレンテの食事量も、実は半端なかった。記憶通り、彼女はバゲットサイズのサンドイッチを片手に持っている。


「レンテ先輩に言われたくないですよ」


 抗議しても、レンテはきょとんとして首をかしげてみせる。

「でも、他の女の子はもっと少ないじゃない?」


「じゃあ何でレンテ先輩はそんなに一杯食べるんですか?」


 質問すると、


「うちは武人の家系だから、毎日身体を動かすのがクセになっちゃってて。それでおなかが空くのよ」


「お父様は軍の方なんですか」


「そうよ。だけど父は事故で亡くなって……」


 再び視界が暗転した。

 リドリーは次の場面へ移るまでの間に、ふと疑問に思う。この後レンテは何と言ったのだろう?

 更に場面は王都の美術館へ移る。レンテは戦争を描いた絵画の前にいた。

 指差してリドリーに説明してくれる。


「この将軍の装束、五十年経った今でも変わらないのよ? なんだか懐古的だから変更すればいいのに。でも、うちの父はこれが割と好きみたいだった」


 また場面が暗転する。

 その瞬間にレンテに近づくカールの姿が見えた。


 リドリーはふと気づく。

 もう三回。レンテが自分の父親の話をしている場面で回想が打ち切られてしまう。

 その直後に会話に加わったのは誰だったか。近づいてきたのは誰だったのか。絵画から連想した話に、注釈を加えたのは誰だったか。

 カールだ。


 ――そして移った場面では、レンテがケネスに怒られるリドリーを見ていた。


「まるで親子みたいね」


 研究室の机に頬杖をついて、レンテは笑う。


「お父さんこわーい」


 ふざけてリドリーが言えば、ケネスが眉間に深い皺を寄せた。


「何が原因で、私が親みたいなことをしなくちゃいけないと思ってるんだ!」


 追いかけるケネスから、逃げ回るリドリー。


「なんだか羨ましい。二人を見てると和むわ」


 その言葉は、レンテの記憶にあったものだろう。

 リドリーは机と机の間を走るのに忙しくて、何を言ったか聞いていなかったはずだと思う。


「でもきっと、計画を実行したら、リドリーもケネスも私を嫌うわ」


 寂しそうに続けるレンテ。今度は場面がいつまでたっても変わらない。

 だってこのとき、カールは欠席していたからだ。

 息が切れても走り回るケネスと自分。それを誰にも邪魔されずに眺めているレンテは、とても幸せそうだった。


 リドリーはようやく理解した。

 レンテは失った父親を取り戻せないことを理解して、諦めている。

 だから代わりに、哀しい事を忘れていられる場所がほしかったのだ。


 リドリーに優しくしてくれたレンテ。

 父親も姉妹も亡くした彼女は、代わりに懐かしくて幸せな気分にしてくれるものを求めていた。


 だけどカールがいる場所では、レンテは心に刻まれた使命を優先させなくてはいけない。

 嫌でも思い知らされてしまうのだ。

 ずっと浸っていたい場所を壊さなければいけない事を。


 そして彼女は実行せざるを得なかった。

 たとえリドリーを仲間にできても、そうしたらやっぱりレンテの欲しい場所は失われてしまうのだ。


 そしてリドリーが接触した【レンテの分身】。

 レンテの父は、娘が何を望んでいるのか察してリドリーにあれを見せ、レンテの心に接触させているのだ。


「レンテ……」


 リドリーは一度唇を噛みしめて、そして呼びかけた。


「レンテの目を覚ますのを手伝って! そして彼女が本当は望んでいない事をさせないために、協力して!」


 叫んだ後、強い風に煽られる感覚に襲われた。

 一筋の風が、リドリーの左肩に触れた。


〈この血を契約の礎とし、我が力を預けよう〉


 深く低い男性の声と共に、風が光る。

 まぶしさにリドリーが目を閉じた瞬間、硝子が砕けるような儚い音が耳を打った。

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