笑うバクテリア

佐々木あさひ

第1話 カプセルを飲めば「なりたい自分」になれる世界。

獣、という言葉を思い起こさせる画像だった。鋭い犬歯に刺すような視線、伸びっぱなしの髪の毛。デスクのディスプレイに映し出された画像の女は、真四角で真っ白なオフィスとは対照的に、曲線的で薄汚れている。


今日の午後から、私はこの画像の女の取材に行かなくてはならなかった。普段、理知的な科学者を相手に取材しているから、この手の、何を考えているのかよく分からないような人に対する話の進め方が、いまいち判然としない。私はうっすらとした不安を覚えた。取材中、何気なく発した一言が彼女の逆鱗に触れるかもしれない。そう思うと、みぞおちの下あたりが締め付けられるように痛んだ。

そんな不安をかき消すように、A. muciniphila のカプセルを一粒飲み込んだ。優秀な科学者達が開発したこのカプセルは、飲むとすぐに効果が出るため、私の不安は十分と経たずに消え失せた。何事も無かったかのように、引き続きディスプレイに映る取材相手の情報と対面する。

 

森川壱子 三十二歳 自然派団体「ナチュラル・ボイス」代表

 ——全人類へ、科学からの解放を——

現在、人類は科学文明に支配されています。産業の機械化、原子力エネルギー、宇宙エレベーター、そして、遺伝子改変バクテリアカプセル。確かにこれらは、エネルギー問題や少子高齢化など、様々な社会問題を解決に導いています。

しかし我々は、この「科学一強」の時代に立ち上がり、断固として科学文明に異を唱えます。

それは、この科学文明によって、人類の「真の声」がかき消されているからです。例えば、あなたは「自分が何のために生きているのか」という問いに答えられますか? 或いは、「人類が地球上で存続する意義」について説明できますか? これらの答えに窮する方には、「真の声」が聞こえていないのです。我々と共に、掛け替えのない「真の声」を守っていきましょう。


こんな文章に何故か感銘を受ける人間が二○五一年の現代にもいるらしく、「ナチュラル・ボイス」は、小規模ながらも着々と信者を増やしている。

別タブに開いた違うサイトの情報を見る。同時に、集中力を上げようと思い、B. longum の錠剤を一粒飲んだ。


やばい日本人図鑑 No.13 森川壱子のやばい経歴

十二歳:小学校の図工の時間、版画で好きな男の子の裸体を想像して彫り、それをプレゼントして告白。即座に振られると、怒り狂って男の子の左肩に彫刻刀を突き刺す。

十九歳:上野の交差点で、男性とのすれ違い様、いきなり飛びかかり強引にキスをする。その際、制止に入った女性に対しても無理矢理キスをした。

二十三歳:新宿で親父狩りの現場に遭遇。全力疾走で死角から親父狩りに肉薄し、勢いのまま顔面を殴打。親父狩りは上の前歯を二本折って失神した。その後、被害者の中年男性にお礼を言われ、紙幣を渡されるが、なぜかその中年男性に対しても顔面を二発殴打。中年男性は前歯を一本折って失神した。

三十一歳:自然派団体「ナチュラル・ボイス」を設立。「人類を科学文明から解放する」というテーマで、活動を始める。


「お前今日殴られんじゃない」

 突然、耳元に低く重みのある声が聴こえ、つい驚いて飛び上がりそうになった。振り返ると、スーツをはち切らんばかりの筋肉を纏った大男、同期入社の前田が私を見下ろしている。彼の視線に射竦められた気がして、私は全身の筋肉が自然と強張るのを感じた。

「……びっくりした」

「びびんなよ」

「どうだろ、殴られるかな」

「やり返せば勝てるべ」

「なんか怖いよね。何言ってんのかよく分かんないし」

「何言ってるか分かんなかったら、ボコボコに論破してやれよ。もう、完膚なきまでに」

 そう言うと前田は、口元だけを使って笑った。その表情からは、どうもその言葉が冗談なのか本気なのか判断がつかない。私は、そんな前田の冷徹な目を見て、「いや、取材だから。口喧嘩できないから」と笑いながら返答した。


 四年前——入社式で見た前田は、こんな人間ではなかった。女児のように華奢な肩、丸渕のメガネ、新雪を思わせる白色の肌、清潔に切り整えられた髪の毛。そんな弱々しい身なりをしていた前田を、今でも鮮明に思い出すことができる。

 入社から四ヶ月ほど経った日に、前田からある相談を受けた。「同期の浅野さんがひどいパワハラを受けている、助けたい」。前田は目に涙を浮かべながら、「怖くて何もできない自分が情けない」と震える声で何度も繰り返し言った。

私は当時いくつもの業務を抱えており、正直同僚の問題にまで気を配る余裕が無かった。そのため私は、前田に、当時新作として発表されたバクテリアカプセルを勧めてみることにした。カプセルのヘビーユーザーである私は、前田にぴったりのものを簡単に紹介することができた。男性ホルモンであるテストステロンの産生を強力に促す、B. breve のゲノム編集株。筋肉が付きやすくなり、闘争心が湧き、自信が持てるようになるらしい。


前田はそれを服用し始めると、たった一ヶ月ほどで別人のようになった。そうして、上司を浅野さんと共に訴訟したり、パワハラの一部始終をネットで拡散したり、社内で恫喝まがいのことをしたりして、本当に完膚なきまでに——もはや上司の方に同情してしまいそうになる程——叩きのめした。その上司はうつ病になったとかで、会社から自然と消え去った。

前田は、私の肩を力強く叩くと、「折角だし、これを機に分からせてやれよ」と言ってデスクに戻っていった。


 やはり、取材の主なテーマはバクテリアカプセルになるだろう。取材相手の森川は、特にこのカプセルに関して批判の声を強く発信している。資料の中の、バクテリアカプセルについてまとめた部分に注目した。

 バクテリアカプセル——腸内にゲノム編集したバクテリアを大量に送り込み、短鎖脂肪酸やアミノ酸代謝物など、人体に有用な物質をとてつもない速さで生成させる。「ゲノム編集」というところが鍵で、都合の良い遺伝子を大量に発現するよう細工されているから、昔からあるヨーグルトなどとは比較にならないほどの効果を示す。副作用も殆ど無く、様々なニーズに応えられるため、カプセルの市場は数年前から継続的に成長している。

「頭がよくなるバクテリア」「心を静めるバクテリア」「野菜が好きになるバクテリア」など、様々な種類が開発されており、「バクテリアの服用頻度が高い人ほど、人生における幸福度が高い」「年収とバクテリア摂取量には高い正の相関がある」「バクテリア服用が寿命を長くしている」などといった研究結果も報告されている。

 前田の例の様に、カプセルが出来てから、人々は簡単に「なりたい自分」になれるようになった。無論、個人の特性は腸内環境のみが規定しているものではないため、限界はある。しかし、一昔前よりも必要な努力の量が圧倒的に減ったのは確かだ。現に、「ダイエット」や「サボり」「不摂生」などといった言葉はもはや死語になろうとしている。私の会社の宴会でも、五十代の上役はよく「昔はモテるために食欲と必死で戦ったもんだ」と若い社員に言って聞かせている。「どんな美男美女でも太ると見た目が悪くなる」ということらしいが、我々世代にはその感覚がいまいち掴めない。


 一方で、カプセルには社会に対するグレーな側面もある。一年前、多くのメディアに出演していたAさんは、駅のホームで飛び込み自殺をしようとしたところ、通りすがりの男性に取り押さえられ、一命を取り留めたらしい。

Aさんはインタビューで語っていた——いや別に、ひどい借金があったとか、そんなじゃないんですよ。ただ何となく、生きる意味が分からなくなって、ね。ただまあ、そんな簡単なもんじゃない。いざ通り過ぎる電車を見ると、手も足もガクガクガクっと震えて震えてしょうがなくて、そこら辺に歩いてる人とか、雲が真っ白いのとか、鳥が鳴いてるのとかが愛おしくて堪らなくなって、ぐわっと涙が出たんですね。これはとてもできたもんじゃない、諦めよう、とこう思ったらふと思いつきまして。恐怖を抑えるL. reuteri と理知的になるF. prausnitzii を飲んでちょっと座ってみたんですよ。するとね、すーっと何も感じなくなって、自然と足が線路の方に進んだんですね。いやすいません、今となっては多くの人にご迷惑おかけしたなと——。


時計を見ると、いつの間にか正午を回っていた。昼食を抜くことに決めて、取材に行く準備を進める。

一通り準備が終わり、空腹感を抑えるためにE. faecalis を、落ち着いて取材を進められるようにL. acidophilus を飲み込んだ。腸内で淡々と働いてくれるバクテリアが、とても頼もしい。

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