悪路王、滅するの事

「ご無事でしたか、経範どの……!」



これは「八幡神はちまんしん」ではなく、頼義の言葉である。目を閉じた彼女が声の主の方へ顔を向け、安堵の息を漏らす。満月の間は死なぬ身らしい経範つねのりではあるが、当然着ている衣服は不死身ではない。国府における大立ち回りの末に彼の衣服はさんざに斬り刻まれ、破られ、ぼろ雑巾のような無残な姿になっていた。それでもその破れ目から見える彼の肉体には傷ひとつついていないのが見て取れた。



「『経範』でいいよ『どの』呼ばわりなんて柄じゃねえし。あ、いやそういうことじゃなくて、あの、金平から聞いてると思うけど、その、なんだ、頼義様におかれましてはオレ、じゃねえ私の至らぬばかりに多大なるご迷惑をおかけすることと相成り、面目次第もねぇ……ござりませぬ。処罰はいかようにもお受けいたしまする」



あぐら座りのまま、経範は彼女に向かって慣れない口調で深々と頭を下げる。



「経範どの、ご事情は推察いたしまするが、流石さすがに此度の件ついては申し開きを聞き入れるわけにも参りません。ですが今は火急の折、一先ずそなたの身はこの頼義が預かる事として、処断は追って法に則り厳正に行う事と致します。それまでの間、経範どのは私のそばから離れる事の無きように」


「お、そうしてくれると助かるわ。いやでも悪いのはオレじゃなくて人の話を聞かねえあのクソ木端役人の方だかんな!オレにしてみりゃ融通の効かない公権力に対して正義の鉄槌を喰らわしてやったってやつだ」



経範は粛々と頼義の言葉を聞き入れる、かと思いきやこの態度である。少しも反省の色が見えない。



「まったく、こんな短気なやつは見たことがねえぜ。おかげでこちとら一人で筑波のお山を登る羽目になっていい迷惑だぜコラ」


「お前がそれを言いますか金平」



金平の悪態に頼義が心底あきれて口をあんぐりと開けた。



「まあ月が満ちてる間はこんなもんだ勘弁してくれ。どうにもオレはこの期間だけは気持ちの昂りを抑えることができなくってよ。ああして些細なきっかけでも自制を失い『虎』に変じてしまう。だから平素は満月中ほとんど出歩く事もしないんだが……」


「それはやはり月の魔力がもたらす弊害といったものなのでしょうか」



影道仙ほんどうせんが興味深げに聞く。経範は頷いて答えた。



「さあてね。歴代の当主の中にはその月がもたらす狂気に飲まれて非業の最期を遂げた者もいるとは聞く」


「ほほーう。さながら月に魅入られて暴虐の限りを尽くした羅馬ローマの皇帝の如くですねえ。そういえば今武州中山氏と言いましたか。なるほど中山氏は『武蔵七党』の一つ『丹党たんとう』を束ねる多治比たじひ(丹治比)氏の一族ですねえ。かつては『丹治にいはり氏』を名乗っていましたが。あ、そうか常陸ひたちの『新治にいはり郡』も元は『丹治にいはり』だった可能性があるのか、なるほど、いやいやいや興味深い。ところで話は変わりますが貴殿、我々がここにいるとよくお分かりになりましたねえ」


「ああ、このまま勢いで一思いに『悪路王』をブン殴ってやろうと意気込んで戻ってきたんだけどよ、いざ来てみれば兵士どもが屁っ放り腰で遠巻きに巨人を眺めているだけだったから二、三人小突いて事情を聞いてみたんだ」



やはり全然懲りていないように見える。どうにもこの少年を満月の時に自重させることは至難の技のようだ。




「ああそうだ、そこで国軍の兵士たちにここを教えらたんだ。アイツらが緊急事態だと騒いでいると伝えに来たんだった」


「緊急事態?向こうで何か動きがありましたか?」



頼義が緊張した面持ちで聞き返した。



「ああ、らしい」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



佐伯経範さえきのつねのりの報告を聞いて急ぎ海岸線まで駆け戻ってきた頼義一行はそこで報告通りの姿を晒している「悪路王」を発見した。


その巨体はもはや微動だにする事もなく、全身から噴き出ていた溶岩も鳴りを潜め、冷たい海風に当てられてみるみる冷え固まっていく。



「倒れるぞーっ!!」



遠くから見張りの兵士たちの叫ぶ声が轟く。次の瞬間、冷えて脆い岩となった「悪路王」の手足が、その自重を支えきれなくなってとうとう音を立てて崩れ落ちていった。


巨大な水柱が幾重にも重なって立ち上り、水飛沫が霧散して周囲に濃密な霧を生んで視界を眩ました。



「どうなってんだ……?死んだ、のか?」



金平が呆然としながら崩壊していく巨人の姿を眺めて言った。



「ふん、『本体』からの供給が途切れて壊死したか。流石に端末だけでこれだけ離れていてはその活動時間にも限界があろうというものよな」



頼義がその両目を開き、「八幡神」の言葉を伝える。



「ああ?どういう意味だよそりゃあ」



あいも変わらず金平はケンカ腰な口調で「八幡神」に聞いた。



「言った通りの意味よ。此奴こやつは『悪路王』の端末、言わば『触覚』のようなものに過ぎん」



「八幡神」がいまや内海に浮かぶ小島と成り果てた「悪路王」の成れの果てを見届けながら答えた。



「はあ!?じゃあ何か、コイツは『悪路王』のほんの一部分で、本体は別のところにあるってえのか!?いやこんなバカでっけえものが『端末』ってオイ……」


「だから言うたであろうが、こやつの本体は日本を駆け巡る『龍脈』そのものだぞ。人間ごときがどうこうできるものではないわ」


「あいやー。なあんだ、はじめっから知ってたらこんなに苦労しなくても自滅するまで悠々と待ってればよかったじゃないですかー!もうハチマンさまってばいじわるですう」



影道が頬を膨らませながら「八幡神」に文句を垂れる。そうしている間にも、かつて「悪路王」だったものはみるみるその体を崩壊させていき、ついに鹿島灘の荒波に飲まれて完全にその姿を消してしまっていた。

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