捨てられたもの

ふわりと漂ってくるたばこの香り。

ちらりをそちらに目をやると、グラスを片手にぼんやりと宙を見つめる男性がいた。


「たばこ、吸うんですか?」


ふいに尋ねたわたしの声は、たしかに彼の耳に届いたはずなのに反応がない。


──それもそうか。見ず知らずのひとに突然話しかけられたところで、その問いに応えなければいけない理由なんてひとつもないんだし。


そう思って男性から目を逸らし、わたしはじぶんのグラスを手にとって中身をひとくち、ぐびりと飲む。

グラスの中の氷がからんっと鳴る音があたりに響く。


「吸いますよ。すみません、においました?」


左耳の鼓膜をゆらす声にはっとしてわたしはそちらに顔を向ける。

想像していたより低いその声は、とても何気なかった。


「いえ、突然すみません。たぶん、服からかおりがしたので、つい」

「かまいません。すこしぼんやりとしていて、反応が遅れました」


目を細め、口角をきゅっと上げるその表情は、間違えようもなく微笑んでいた。

男性はその表情のまま、わたしに質問をかえす。


「あなたは、ここへは初めて来られたんですか?」

「はい。"思い出"を頼りに」

「えっ、"思い出"に……ってことは」

「飲まされました」


淡々と答えるわたしと裏腹に、男性は驚きを隠せない表情をして、穴があくのではないかというくらいにわたしのことを見つめる。


「話には聞いたことがあったけれど、ほんとうにそんなひとがいるとは」

「好きだったんです、いえ、わたしはいまでも好きなんですけど。でももういっしょにいられないって言われて。さらには"きみと過ごした日々は僕には必要ないから"って。そんなの、勝手にどこかに捨ててくれればいいのに。その辺に転がっている"思い出"とはいっしょにしたくないからって、わたしが席を立った隙に、飲み物に入れられていました。どこまでも勝手だと思いません?」


憐れむような表情に変わった男性は、ふと視線を逸らす。


「でもきみも、捨てようと思えば捨てられるのに、まだそれをしていないの?」


それ聞いて、わたしは力なく笑う。


「それがかんたんにできるように生きられていたのならきっと、わたしはわたしではないんだと思います」


男性はちらりとこちらを見やり、わたしとおなじように力なく笑った。


「かんたんに捨てられるほうが、どうかしている」

「ほんとうに。その通りだと思います」


それ以降わたしたちは言葉を交わすことはなく、ゆっくりと過ぎる時間にただただ身をゆだねていた。

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