『しのぶ』の名は?
クラスメイトの男子達から『よくも俺たちの音無さんを奪いやがったな』と言わんばかりの視線で見られ続ける事、数時間。
今日1日の学校での生活に終わりを告げる鐘の音が鳴り響いて、ようやくオレの肩の荷が下りたような感覚を覚えた。
「……疲れた……」
ようやく本日の学校での生活が終わる。
今日は今までになかった事の連続で余りにも疲労が積み重なっていて、気を抜けば今すぐにでもため息を吐いてしまいそうになってしまう。
そんな俺は日頃の癒しを求めるべく、反射的に『しのぶ』の声を聞こうとスマホの画面を開いて──1件のメッセージが来ているという通知が画面に表示されていた。
内容を確認してみると『生で聞きたくはないですか?』というまるで意味の分からない……いや、その意味が本当に分かるのはオレと、そして隣の席に座っている音無さんだけだろう。
「……音無さん」
「見てくださいましたね?」
「怖いんだが」
「ふふ。善処しますね?」
オレは彼女と『今後の為に話しあう』という名目でどこかに出かける事になっていたので、隣の席に座っている音無静香に声を掛けた訳だが……それだけだというのに、教室全体がオレたちの一挙一動をまじまじと観察でもするような視線が突き刺さってきて仕方がない。
「周りの目、気になっちゃいます?」
「気にしないでいられる方がおかしいと思うが」
「私は慣れっこですので。でも、これは本当に大切な話ですので場所を移しましょうね?」
彼女はそう言って立ち上がり、荷物をまとめた鞄を手にして、すたすたと教室の外に出ていった。
ただでさえ目立つような美人である彼女が、今日俺にやらかした出来事で更に目立っているので、オレと同じように教室内のクラスメイトたちの好奇の視線に晒されている訳なのだが、彼女はそんな事なぞどうでもいいと言わんばかりに優雅に歩いていた。
そんな彼女の堂々とした立ち振る舞いに思わず目を奪われてしまい、彼女を追いかける事を一瞬忘れていたがすぐに我を取り戻して、すぐさま彼女の後ろを追いかける。
「あの……! 音無さんはどこに向かうつもりなんだ……!」
「どこでしょう?」
「質問を質問で返すな……!」
「それは失礼しました。でも、敢えて質問させてくださいね。奏斗くんはどこだと思います?」
「人がいないところに向かうんだろう……!? 空き教室かどこかじゃないのか……!?」
「御明察です。そして、この放課後の時間は部活動をしている先輩方が新入生を確保するべく勧誘活動をしている時間でもあります。探せばいくらでも空いている部屋はありますが、本日は体育館倉庫に向かおうと思います」
「誰も部活動をしないのなら確かに空いてるかもだが、体育館倉庫の鍵はあるのか?」
「御安心を。既に複製済みですので。勿論、奏斗くんの部屋の鍵も複製済みですよ。今度、私の部屋の鍵を渡しておきますね?」
「……勘弁してくれ……」
ナチュラルにストーカーまがいの行為を告白してきた彼女に対して思わず立ち眩みを覚えてしまったが、俺は気を取り直して彼女の目的が何なのかを考えてみようとして──彼女にキスされてからずっと考えていたのだが、全く思いつかなかった事を思い出して、考えるを止めた。
「着きました」
そうこう考えている間に、どうやら体育館倉庫にたどり着いたらしい。
遠目から見れば、体育館倉庫という名前があるだけのただの物置小屋にしか思えなかった。
部活動の勧誘で人が少ないというのはどうやら本当の事のようで、確かに倉庫の周辺には人の気配というものを感じなかった。
だがそれでも、彼女は念の為と言わんばかりに周囲に人がいないかどうかを数分かけて見回す。
それからして、ようやく納得できたのか彼女はポケットから金属音を出しながら、鍵だらけの束をポケットから引っ張り出した。
「……その鍵の束、何?」
「これですか? 奏斗くんの実家の家の鍵、奏斗くんの部屋の鍵、奏斗くんの──」
「待て待て待て。皆まで言うな。これ以上俺に現実を突きつけないでくれ」
「……流石に実家の家の鍵は冗談ですよ?」
「今までの経歴から察するにやりかねないから警戒してんの」
「さて、開きました。どうぞ」
オレの主義主張をのらりくらりと躱すように受け答えをする彼女は俺と会話をしている間に鍵の束から倉庫の鍵を選別し、その鍵で倉庫の扉を解錠したようである。
オレは彼女に促されるまま、誰もいない体育館倉庫に足を踏み入れる。
……流石に日頃からよく開け閉めしている施設である事が関係しているからなのか、空気に埃が混ざっているような事はなく、部活動で使うような器具は綺麗に整理整頓がなされていた。
そんな倉庫の中の様子を確認していると、オレの背後で音無静香は体育館倉庫の扉の鍵を閉錠する作業に入っていた。
どうやら、本当に彼女は他人に聞かれたくない事を話すつもりらしい。
「……で、今後の事って何だ」
「そんな事が奏斗くんが一番知りたい事なのですか?」
「分かった、白状するよ。オレが本当に知りたい事はただ1つ。音無静香がオレの推し声優であり、エロASMR作品を販売している『しのぶ』なのかどうかだ」
「どうだと思います?」
「質問を質問で返すな」
「御明察の通り、私が『しのぶ』です……と答えれば奏斗くんは一体どうするつもりですか?」
「どうする、って?」
「周囲に知られたくなければ、という前提で成り立つ脅しも可能だと言っているのですよ」
「……」
「奏斗くんがそう脅してきたのであれば、私は一生貴方に逆らえないでしょう。音無の会社の社長令嬢である私が永遠に貴方の言う事に逆らえなくなって、どんな命令でも聞かないといけなくなる。この私を貴方だけの所有物に出来て、どんな酷い事をやっても許される。恋人にもペットにも奴隷にでも何でも……そんなの魅力的ではありませんか?」
「最低の間違いだろ」
「即答ですか。貴方が素敵な人だと実際に聞けて嬉しいですね」
「流石に人間として最低な行為はしたくない。オレはしのぶの誇れるお兄ちゃんでありたいからな」
「ですが、これは貴方が知る事で発生しうる可能性です。……さて、質問に不備がありましたので再度質問させて頂きますね。奏斗くんは一番知りたい事を知る覚悟は出来ていますか?」
追い詰められているのはどちらなのかが全く分からない空気が倉庫内に充満する。
返答を間違えてしまえば、何か取り返しのつかない事が起こってしまうのではないのかと背筋に冷や汗が流れ、心臓の音がいつもよりもやけにうるさく感じてしまう。
だけど、オレはそれでも勇気と覚悟を振り絞って、今朝から抱え込んでいた疑問を彼女にぶつける。
「音無静香は『しのぶ』だな?」
……まるで本当に時が止まったかのような錯覚を覚える。
こんなのは只の答え合わせだ。
疑問に思ったから、その疑問に真摯に向き合って、真剣に悩んで、俺は絶対に正しいであろう答えが本当に正しいのだという本人の言葉を聞きたいだけ。
なんとなく答えが分かっていても、彼女が答えを言いたくないのであれば、オレは彼女の意見を尊重するつもりでいる。
彼女が口ではそんなことなんてやっていないと言ったのであれば、オレは彼女の言葉を信じるだけだ。
それは『しのぶ』のお兄ちゃん云々の問題ではなく、エロASMRを聞く者のプライドというものだ。
彼女の正体を知ったから脅すだなんて、そんなのは卑怯者のやることだ。
音無静香は音無静香であり。
『しのぶ』は『しのぶ』だ。
音無静香が『しのぶ』であったとしても、『しのぶ』が音無静香であったとしても、そこを勘違いしてはいけない。
俺はあくまで『しのぶ』の声が好きなだけなのだから。
「……えぇ、御明察の通り、私が『しのぶ』です。そして──」
そう言って、彼女は突然制服を脱いで、制服の下に着る白シャツのボタンを外しながら。
「──奏斗くんのお嫁さんです! 合格! 合格です! これで私は奏斗くんのお嫁さんです! 不束者ですがずっとずっと幸せにしてくださいね!」
などと、先ほどの雰囲気を見事にぶち壊すような、実に訳の分からない事を口にしてみせたのである。
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