7章 かりそめ夫婦の終焉


(あれ、私……)


 フレイヤは、暗闇の中でゆっくりと意識を取り戻した。


(ここは……?)


 目はきちんと開き、まばたきもできる。つまり、目隠しはされていない。


 ただ、何も見えないほどに真っ暗で、硬い板の上のような場所に手足を縛って転がされており──ガタガタと揺れている。どうやら荷馬車か何かに積まれて運ばれているらしいとフレイヤは察した。


 真っ暗なのは、箱か何かに閉じ込められているせいだろうか。物音を立てないようにそーっと足を動かすと、思った通りすぐに、固い板に足先がぶつかった。


(これって……誘拐、されているのよね?)


 状況を把握するにつれて、足元からじわじわと、冷たい恐怖が這い上がってくる。


 フレイヤの記憶は、コネリー侯爵邸の廊下にて、背後から駆け寄ってきた何者かに酔酩の果実を嗅がされたことを最後に途切れている。


 あの力強さ、身長からして、フレイヤよりは背が高い男性が犯人だろう。深呼吸をし、目を閉じて記憶を辿ってみる。視界に入った袖口は男性の礼服のものだったはずだ。

 つまり──侯爵家の夜会に正規の手段でやって来た貴族男性か、その使用人、はたまた手下が犯人であるのはほぼ間違いない。


 夜会の混雑に乗じて忍び込んだ何者かという可能性もあるけれど、平民がわざわざフレイヤを狙う理由は今ひとつ思い当たらないから、除外してもいいだろう。


(まさか、侯爵邸で大胆にも誘拐に及んでおいて、無差別ということはないでしょうし……が狙われたのでしょうね。一番考えられるとしたら……ソフィアお姉様やフローレンス様の件と関わりかしら)


 フレイヤ本人はベリシアン王国の要人というわけでもないし、社交界にあまり顔を出していなかったので、恨みを買う機会もほとんどなかったはずだ。

 ただ、姉は王太子の婚約者に内定しており、夫は王太子の側近騎士である。王太子まわりのあれこれに起因してこの状況に至っている可能性が最も高いだろう。


(……ソフィアお姉様にはどう頑張っても手を出せないと悟って、代わりに私を? ということは、犯人の狙いはお姉様を王太子妃にすることではなかったというの? では、一体、誰が何のために……? 何もかもわからないわ。こうしてどこかへ運ばれているということは、私は、人質として使われるの……?)


 犯人が何者で、目的が何か次第ではあるのだが、交渉が決裂した場合は命の危険があることに気づき、フレイヤは震えを止められなかった。


(嫌よ……私、死にたくない。ローガン様とまだちゃんと話せていないし、好きだとも伝えられていないわ……! それに、お姉様の晴れ姿だって見たいもの。皆を悲しませたくもないし、何より私自身が、死ぬのなんて怖くて嫌……!)


 ぎゅっとうずくまったフレイヤは、浅くなっていく息に気づいて、意識的にゆっくりと深く息をする。

 そして、キッと目元に力を入れた。


(諦めては駄目よ、フレイヤ。落ち着いてよく考えるの。……この状況は既に、犯人の思惑からズレてきているわ)


 フレイヤが目隠しも猿轡もされていないのは、まともに酔酩の果実の成分を嗅いでいれば、移動先まで目覚めないはずだからだ。


 しかしフレイヤは、普通の令嬢であれば知らないだろう酔酩の果実についての知識を持っていた。そして、ギリギリのところで匂いの正体に気づき、咄嗟に息を止めてなるべく匂いを嗅がないようにできた。

 それが功を奏し、犯人の想定よりもずっと早く意識を取り戻したと思われる。


 馬の蹄の音からして、馬車が走っているのは石畳の街道。すなわち、まだ王都の中心部で、コネリー侯爵邸から遠く離れてはいないはずだ。

 

(犯人が貴族だという推測通りなら、運ばれる先は王都内のそこまで治安が悪くない区域の可能性が高いわ。隙を見て逃げ出すことができれば……!)


 フレイヤは脚を少しもぞもぞとさせ、右の腿に紐と、硬質なものの感触があることを確認してほっと息をつく。


(よかった……ナイフには気づかれなかったのね)


 フレイヤは今回の夜会に、フローレンス毒殺未遂犯の情報を探るつもりでやって来たので、丸腰では心細く、右足の太ももにナイフを括り付けておいたのだ。

 実を言うと、愛読書である衛兵の推理ものでそういう場面を読んで、ちょっとした憧れを抱いていたため──という理由の方が大きいかもしれない。


 普通であれば役に立つはずもなく、エヴァあたりに知られたら「危ないではありませんか」と呆れ叱られそうな所業だが、予想外のこの状況では奇跡的に一筋の光明となった。


 誘拐犯も、まさか令嬢がそんなものを隠し持っているとは思わなかったのだろう。

 普通の令嬢じゃなくてよかったと、この時ばかりは自分のじゃじゃ馬加減を自画自賛するフレイヤであった。


 時折、何度か左右へ曲がりつつ走っていた馬車は、しばらくして速度を緩め、完全に停止した。

 フレイヤは意識を取り戻していると気づかれないよう、目を閉じて、ぐったりと身体から力を抜く。


「運ぶぞ」

「せーのっ」


 浮遊感、そして、ぐらぐらと揺れる感覚。どうやら、フレイヤが入れられている木箱ごと持ち上げられたらしい。


「おい、速いぞ」

「すんません」

「持ち直すから一旦止まれ」


 聞こえた声は二人分で、粗雑な口調からして貴族やその使用人ではなさそうだとすぐにわかった。


「おい、こっちだ」

「へい」


 そこで、第三の声が響く。

 今度は若い男の声で、単語のわずかな発音の違いから、貴族もしくは高度な教育を受けた人物だろうとフレイヤは察した。


 ドアが開く音、そして、屋内でまばらに響く三人の男の足音。

 ドアが開く前後では足音の数に変化があったような気がするので、おそらく、御者がドアを開けたのだろう。


「二階の奥の部屋だ」

「へい」


 その後は無言で、しばらく運ばれる。

 目的地についたのか、「そのぅ……開けてもらえねぇと……」と年嵩の声が言い、ため息とともにドアが開く音がした。


 高位貴族は、自分でドアを開ける機会がほとんどない。やはり、指示をしている若い声の男は黒幕か、黒幕に近い貴族なのだろうという思いが確信に変わっていく。


「このままで……?」

「いや。中身を長椅子に転がしておけ」

「かしこまりやした」


 フレイヤは、強張りそうになる身体を必死で押し留める。気絶状態の自然な脱力を意識し、目もきつすぎない程度に閉じていると、カタ……と小さな音がして、瞼越しに光を感じた。木箱の蓋が開けられたのだ。


 一人が足を、一人が脇のあたりを抱えて、長椅子へ雑に転がされる。


「お前たちの仕事はここまでだ。報酬の金と酒を持っていくといい」

「へへっ……!」

「ありがとうごぜぇやす!」


 雇われの下っ端らしい男たちの足音が遠ざかっていく。


(残るは、貴族らしい男だけよね。最初からこの部屋に誰かがいるとかでなければ、だけれど……)


 フレイヤがそう考えているうちに、シュルリと衣擦れの音がして、目元に布が当てられた。──目隠しだ。


 続いて猿轡もかまされて、叫ぼうとしたところで大した声が出ないようになる。


(……ここが犯人の隠れ家なのね、きっと。薬の効果が切れるくらいまでここに留まるつもりなんだわ。どれくらい気を失っていたかわからないけれど、馬車から降ろされた時も外が静かだったから、貴族街の端か……結構離れてしまっていても、裕福な商人が住むような区域かしら……。二階というのが気がかりだけれど、どうにか逃げ出して衛兵の詰め所に駆け込めたら、勝ちが見えてくるわ)


 今後の動きを考えることで、フレイヤは恐怖から必死で意識を逸らした。

 フレイヤの拘束を強化したあと、男は部屋を出ていく。


(行った……? もう、誰もいない……わよね……?)


 もし、足音も気配も察知できなかった存在がこの部屋にいた場合、フレイヤが不審な動きをした時点で詰みである。


 なかなか決心が定まらず、持てる感覚を総動員して周囲の気配を必死で探ったあと、フレイヤはようやく小さな身動みじろぎをした。


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