改革という名の笑い話
喋喋
第一話「懐古恐怖症」
不治の病。そんなものは存在しません。治し方がまだ分かっていないだけで、どんな病もいずれ治るはずであり、そのための活動を惜しむべきではないのです。
軽快なナースサンダルの足音が方々で鳴る院内。今日もここ、
そこへ、慌ただしい様子で通路の向こうから看護師が一人、やってきた。
「
そう呼びかけると、一人の少女が席を立つ。彼女もまた例外なく病んでいる人間だ。彼女は近年、増え続けている「懐古恐怖症」を患っており、通院している。中学生のようだが、保護者とは一緒に来ておらず、一人でこの病院へ来ているようだ。彼女が怯えたような顔をしながら看護師の方へ駆け寄ると、看護師は診察室へと優しく誘導した。導かれたその先、扉の近くには「第二診察室」と書かれた札があった。
少女は扉をノックして開けた。中では医者が机を挟んで奥側に座っており、愛想よく少女に挨拶をした。彼に小さく会釈をした少女に続いて、案内をした看護師も入室し、扉を閉めた。医者に座るよう促された少女は、緊張の面持ちで医者の向かい側にあるソファに腰を下ろす。看護師がそばに立ち、医者がカルテのページをめくったところで診察は始まった。
「ササマさん。前回の診察から今日までの一週間、調子はどうでした?」
優しく落ち着きのある医者の声。それに少女は多少まごつきながらも口を開いた。
「えっと……急に気分が落ち込んで学校に行けない日も少しあったんですけど、夜は薬を飲んだら寝れています」
少女の言葉を聴きながら、医者はカルテに書き込んでいく。
「眠れるようになったのは良いことですね。朝、眠気が残るとかはありませんか?」
「大丈夫、です」
医者は頷く。
「では、気分の落ち込みはどれくらい続きますか?」
「それは——」
このような調子で診察は続く。ある程度カルテが文字で埋まった頃、医者は二言、三言少女に言葉をかけて、看護師に合図を送った。少女の表情はさらに強張る。そんな少女を見て医者は微笑んだまま、いつもとやることは変わらないから安心するよう言った。しかし、少女はいつもとやることが変わらないからこそこんなに不快そうにしているのであって、医者の言葉は何の安らぎの足しにならなかった。少しして戻ってきた看護師の手には、タブレット端末が抱えられており、それを医者に手渡す。その様子を上目遣いで見ていた少女は、か細く息を吐いた。
「今からいつもと同じように、三枚の写真を見てもらいます。ササマさんは表示された写真に対して、短くて良いので感じたことを僕に教えてください」
少女は諦めたように小さく頷く。医者は端末を操作して一枚目の写真を表示させ、少女に見えるように画面を向けた。そこには、古びた電車が映っている。夕焼けの空を背景にして、大きな影のように佇んでいた。少女はというと、その写真を見るなり俯いて「怖いです」と、掠れた声で呟いた。医者は「ありがとう」と返答への感謝を述べると、次の写真を表示させ、少女へ見せた。今度は、いかにもノスタルジックな田舎風景だ。田畑や山などの自然と青空。田舎に住んだことのない人間にもどこか懐かしさを与えるような写真だ。少女は顔を上げて見つめる。
「どうでしょう?」
医者に問われて少女はハッとして「さっきよりは別に」と首を傾げながら気まずそうに言った。三枚目、最後の写真。医者は一度とある画像を表示させたようだが、指先で画面をスライドし、別の画像へ切り替えた。その瞬間だけは、彼の表情から微笑みが消えていた。少女と目を合わせると、彼女の瞳は逃げるように斜め下を見た。
「これで最後です」
そして、医者がタブレット端末を翻す。そこに表示されているもの。それは、今までの診察で見せられてきたどの写真よりも少女の目を奪ってしばらく離さなかった。
机、椅子、大きく連なった窓、ロッカー、そして黒板、ランドセル。一つ一つの要素が、少女の脳内にとある感情と記憶を一度に湧かせた。数秒の沈黙。その間に少女の目は見開かれ、口元は歪んでいった。少女が「あ」と声を出す。「ああ」と続けて声を上げる。「あああ!」と叫んだその直後、少女は目の前の恐怖を投げ飛ばした。端末が床に落ちて音を立てるが、その音は少女の絶叫にかき消される。膝をついて前髪をむしるように引っ掴みながら泣く少女。聞き取れない言葉を金切り声で繰り返し喚いている。看護師は少女と医者を交互に見ながら狼狽え、医者は特に何をしようともせず、ただ落ち着いて見ているだけだった。少女は発狂し続ける。しばらくそれが続き、少女が出ない声の代わりに空気を吐き出すようになった頃。やっと看護師が少女に近づくことに成功し、別室へ連れて行った。
机の向こう側を医者は眺める。少女が蹴って位置の傾いたソファには、引っ掻き傷ができていた。扉の閉まる音が響いてから静かになった室内で、医者はじっと向こう側を見つめていた。
「これは病ですね」
医者は言う。
「世の中を患わせる大変な病です」
医者にとってこれは独り言ではない。
「もうお分かりでしょう。懐古恐怖症など存在しないのです」
見つめる一点の先。何もない空間。しかし、医者にとってはそうではなかった。
「広めてください。貴方が」
医者の視界には確かにそこに居たのだ。顔の見えない、記者の男が。
「こんな——」
座っていた椅子を押し飛ばし、机の上のものを薙ぎ払う。舞う書類、大きな音を立てて倒れる資料ラック。叫ぶ医者。
「恐怖症だと⁉︎ 違うだろう! 先端恐怖症の人間が、ペン先を見て発狂したところを見たことがあるのか⁈ ないだろう‼︎ そもそも懐古恐怖症の発端は、センチメンタルに浸るどころか溺れ切った心理学者気取りの自己陶酔者の呟きだぞ‼︎」
机に拳を叩きつけながら言葉を吐き出す。もはや、医者に今までの冷静さなど欠片もなかった。
「誰もが左右の足まで揃えて足踏みをする! もはや進歩しているのは抗うつ剤とネット用語だけだ‼︎」
息を吸う。ヒューと高い音が鳴る。
「理由なんて明らかじゃないか! 過去に問題がある! それを恐怖症と宣って慢性的な問題にしようなど甚だおかしい‼︎」
過呼吸。砂嵐の視界。倒れる医者。這いつくばって不規則で暴れるような呼吸をしながら、医者は何度もさらに言葉を吐こうとしてつまづいた。
「お前らは、何がしたい……異常者に、なりたいのか……‼︎」
いつの間にか医者だけの視界にいた記者は、姿を消していた。
内線電話の音が鳴る。
「はい、第二診察室、
「次の患者さんがお見えになりました。準備をよろしくお願いします」
「またかいこきょうふしょうか」
「……? はい」
「先生はそれ専門でいらっしゃいますからね」
開かれる扉から現れた患者。荒れた部屋の中、角山は机を挟んで奥側に座っており、愛想よく挨拶をした。
「こんにちは。貴方は恐怖症など患っておられませんよ」
患者は立ち止まる。
「恐怖の対象は懐かしさなどではなく、特定の過去です」
掠れた声だ。
「目を背けないでください。貴方も治したいでしょう?」
患者は戸惑う。
「さあ、落ち着いて。ひとつひとつ思い出しましょうね」
角山は立ち上がり、数歩歩いて落ちていたタブレット端末を拾い上げた。
「僕は貴方を助けたいんです」
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