第18話

「……え?」


 絃一郎は耳を疑った。


 ――手伝うと言ったか、今。幽霊探しを手伝うだって?


 想像もしていなかった言葉に、信じられない思いで顔を上げる。すると、永海は腕を組んで眉をひそめ、ピアノの前に置かれた椅子へ視線を向けていた。影だった男子生徒が伴奏を弾いていた、あの椅子だ。


「寺方くん、さっきすごく怖がってたでしょ。その時……僕には何も分からなかった。何も助けてあげられなかった。ただ、只事じゃないってことだけは分かったから、言われた通りに歌ったんだけど。それだけしか出来なかった」

「そ、そんなことは」

「あるよ。……分からなくて何も出来ないって、結構悔しいんだね」


 絃一郎が言い終えるのも待たず、永海がうらめしそうな口振りで言った。


 何も助けてあげられなかっただなんて、そんなことはない。あの時永海が歌ってくれなければ、どうなっていたことか。


 そう言おうとしていたのだが、ピアノの椅子を見つめたままの永海の横顔を見て、絃一郎は思わず閉口してしまう。眉間にしわを寄せながらも、少しだけ口角は上がっている、自嘲じちょうするような薄笑い。初めて見る顔だった。


 それから永海は、組んでいた腕を解くと、絃一郎の手を取っていたわるような優しさで握った。


「動機が何だとしても、寺方くんはちゃんと僕の歌や曲に向き合って伴奏してくれてるでしょ。おかげで僕は気持ち良く歌えてる。なのに、僕から寺方くんには何もしてあげられないなんて、そんなの嫌じゃん」


 そのまま身を乗り出すように一歩近付いてくる永海。

 眼前まで迫ってきたその顔は、名案を思いついた子供ような得意げな笑みを浮かべていて、こちらを真っ直ぐに見つめる瞳はキラキラと輝いていた。


「だから、お返し。僕も寺方くんの幽霊探し手伝うから、寺方くんはずっと僕の伴奏者でいてほしい。まだまだ弾いて欲しい曲がいっぱいあるんだ!」


 有無を言わさない永海の声は、次第に熱を帯びて、し立てるような早口になる。この数週間ですっかり見慣れてしまった、音楽への愛があふれた声楽オバケの永海だ。


 そんないつもと変わらない姿を見た途端とたん、絃一郎の胸を締め付けていた痛みが、じんわりと溶かされていくような心地がした。


 永海の歌を聞くと幽霊が見えることも、千尋と会うために伴奏を始めたことも全部知った上で、それでも永海は「伴奏者でいてほしい」と言ってくれる。愛してやまない音楽を、一緒にやろうと言ってくれる。


 それがたまらなく嬉しくて、絃一郎は口を引き結んだまま、何度もうなずいた。口を開けば、ギュッと詰まった喉から上ずった涙声を出してしまいそうだったのだ。


 それでも何か言葉にしたくて、込み上げてくる胸の温かさを抑えながら、絞り出すような声で言う。


「お、俺も……もっと、永海先輩の伴奏やりたいです……!」

「うん。よろしくね、寺方くん!」


 パッと花が咲くように顔をほころばせたばせた永海は、握った手を上下にブンブンと振った。その勢いに腕ごと振り回されながらも、絃一郎はつられるように頬をゆるめる。


「そもそもさ、僕の都合で寺方くんに無理言ってお願いしてたでしょ。僕も寺方くんの役に立てれば、持ちつ持たれつの関係になるよね。うん、やっぱり僕も協力しなきゃ。幽霊探しっていう理由があって、むしろ良かったよ」


 うんうん、と一人納得するように言ってうなずく永海。それを見て、絃一郎は目を点にした。


「…………無理を言ってるっていう自覚はあったんですね?」

「そりゃあね。僕を何だと思ってるの」

「声楽オバケ……ですかね……」

「それは……否定出来ない」

「ふふ」


 絃一郎が思ったままに言えば、永海はハッと思い当たるようにまぶたを上げてから、たちまち真剣な面持ちになってうつむく。そんな愛嬌のある仕草が何だかおかしくて、絃一郎は思わず笑い声を上げた。




「――……うん、良いね」

「ありがとうございます」


 歌と伴奏の余韻よいんが残った練習室で、目を閉じたまま永海が言う。

 うっとりとした言葉を聞いて、ホッと息を吐いた絃一郎は、鍵盤から手を離して小さく頭を下げた。


 すると、永海がピアノのそばまでやってきて、こちらを覗き込んでくる。


「寺方くんはどうだった?」

「まだ直したいところはいっぱいありますけど……良かったです。特に、最後のフェルマータとか」

「だよね」


 絃一郎の答えに、永海が満足そうに目を細める。


 あの幽霊騒動から、一週間が経っていた。


 あれ以降、練習室に男子生徒の姿は現われていない。影を見ることも、視線を感じることも無い。

 怖がっていたことを気にしてか、永海がお決まりだった角部屋の練習室を二階へと変えてくれたおかげもあって、絃一郎は集中してピアノを弾くことが出来ている。


 絃一郎は、彼はもう現われないのではないか、と思っていた。あの体を揺らしてピアノを弾く姿を、嬉しく堪らないといった弾きっぷりを見れば、心残りなどないだろうと思えてしまう。


 本当のところは、彼本人に尋ねでもしない限り分からないのだが。


 練習が一段落したところで、永海が思い出したように「そういえば、この前の幽霊の話なんだけど」と前置きをして言う。


「幽霊に頼まれて『日脚伸ひあしのぶ』って曲を歌ったでしょ? 良い曲なのに全然聞いたことないから、どうして歌われてないんだろうと思って、中曽根先生に聞いてみたんだよ」


 覚えのある名前に、絃一郎はすぐに合点がいく。


 中曽根は、初めて一人で音楽棟を訪れた時、鍵の借り方を教えてくれたおじいさん先生だ。この堀舟高校に勤めて長いと言っていたから、何か知っていると踏んでたずねたのだろう。


「『日脚伸ぶ』っていうのは、冬の終わりに近付くにつれて段々と日が長くなることを表す言葉なんだって。この曲は、そういう日々の小さな変化から春を待ちわびる思いを歌っているみたい」

「そうなんですね。確かに、すごく冬を感じる曲だったような……」


 言いながらあの時聞いた曲を思い浮かべるが、恐怖に震えていたせいか、絃一郎の記憶にあまり多くは残っていなかった。それでも、あのどこか寂しいメロディだけはハッキリと覚えている。


 どんな歌詞だったっけ、と天井を見つめる絃一郎に、永海は淡々と続ける。


「寒々しいけど、冬を越えるたくましさも感じる曲だったよね。ただ……何十年も前に、この曲を歌うことになった生徒がいたんだけど、伴奏を頼んだ友達が練習の途中で病気にかかって休学。ショックを受けた生徒は、歌うことが出来なくなったそうなんだ」

「えっ」

「そういうことがあって以来、『日脚伸ぶ』って曲は不気味がられてあまり歌われてこなかったみたい。その後のことは『あまり詮索せんさくするものじゃないよ』って教えてくれなかったけど」

「そ、そんなことが……」


 絃一郎は視線を落とし、目の前にあるピアノの鍵盤を見つめた。


 もし、今の話に出てきて伴奏を頼んだ友達が、あの日見た男子生徒だったとしたら。そう考えると、不気味でたまらなかった「『日脚伸ぶ』を歌って」という言葉も、ひどくやるせないものに思えてくる。


「きっと、伴奏だった友達は、その子の歌が好きだったんだろうね。だから、その子が歌ってくれなかったことも、自分が伴奏出来なかったことも、すごく心残りだったんだ」


 ゆったりとうなずきながら話す永海。それがまるで本人に聞いてきたかのような口振りで、絃一郎は首をかしげた。


「どうしてそう思うんですか?」

「あの子の伴奏を聞けば分かるよ」


 永海は即答した。


「まぁ、幽霊の音を聞くのは初めてだけど」

「ゆ、幽霊の……」


 けろりと言った永海の言葉を、絃一郎は思わず繰り返してしまった。


 いや、事実なのだが。確かに、幽霊の奏でるピアノの音を聞いていたのだが。改めて言葉にされると急に実感が湧いてきて、あの時の悪寒がよみがえってきてしまう。


 ゾワリと鳥肌の立った腕をさする絃一郎を尻目に、永海はあごを手で触りながら言う。


「何て言ったら良いかな。真っ直ぐで、ゆらぎが少なくて……雑念が無いような音。幽霊って、もっとおどろおどろしいものかと思ってたんだけど、案外綺麗なものだね」

「そ、そうだったんですか……」

「寺方くんはどんな音だと思った?」

「怖くてそれどころじゃありませんでしたよぉ……!」


 これ見よがしに肩を震わせて言えば、永海は「ふふ、そうだったね」と余裕そうな笑みをこぼした。永海は幽霊などちっとも怖くないらしい。


 こうも平然と話されると心臓が保たない。とはいえ、以前は永海が幽霊の存在を信じてくれるか分からず、そういった話をするだけで心臓を跳ねさせていたから、少しはマシになったとは思うが。


 柔らかな表情で、永海が言う。


「演奏するのが人でも幽霊でも、音にはその人の思いが込められてるから。どう思っているかは、音に出るものだよ」


 不思議だった。


 絃一郎には、永海の言った言葉の意味が分からなかった。


 確かに、伴奏をして消えた男子生徒の幽霊は、心残りを晴らすようだったと絃一郎も思う。

 しかしそれは、その姿を見たからだ。思いを全身に込めてピアノを弾く背中を、「念願叶った」と言わんばかりの弾きっぷりを見たから、そう感じたのだ。


 演奏している人がどう思っているか、だなんて、音を聞いただけでは分からない。


 だが、絃一郎の目に「見えないもの」が見えるように、永海の耳にも「聞こえない音」が聞こえているのかもしれないな、と思った。


 きっと、永海の豊かな感受性が、音から色んなものを感じ取っているのだろう。曲が描き出す情景から、演奏者の心に至るまで。


 そこまで考えて、ふと疑問が浮かんでくる。


 絃一郎の伴奏の音は、永海の耳にはどう聞こえているのだろう。


 有りっ丈の思いを込めて歌えるような、永海の心に寄り添える音だといいな、と絃一郎は思った。

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