第40話 澪標1 譲位
寛弘四年(一〇〇七年)、春。
「ついに源氏物語が御門公認に。」
「他にも才能のある女房を探してるって。」
「さすがにあの少納言の復帰はなさそうだけど。」
「あの文章博士ところの婆さんはありそうね。」
「少納言と仲の良かった、あの人?」
「文章省の縁かしら。」
「その縁だと大江家が今後力を付けてくる可能性もあるわね。」
「あっちの式部とか?式部つながりで。」
「衛門ともう一人の式部。」
「あと、何でいるのかよくわからない左衛門の内侍。」
「あの有名な漢文検非違使?水と油じゃん。」
藤式部
「はい、今年は物語の前半もいよいよ大詰め。
今日も始めるよ。」
あのはっきりと覚えている夢の後、亡き崋山院が言っていたことが気になって、「どうすればあの償いきれなかった罪に沈んでるのを、救済できるだろうか」と思い悩むばかりでしたが、今こうして帰ってきたということで、急いでそれを実行しようと思い、神無月に法華経八講をしました。
昔のように多く人が
崋山院の霊に祟られたと思っていたので、それが元に戻ったと思うと、気持ちもかなりすっきりしました。
度々ひどくなって悩まされた目の方も回復しましたが、「多分もう、そんなに長くこの世にはいられないと思うと心細い」と、もはや寿命がないと思っていて、
政治のことなども分け隔てなく相談し、納得がいけば大方宮中でも異論もないので、有難いことだと喜こばれています。
退位しようという意向が近々示されるとなると、あの朧月の
「父の
元から私なんぞ源氏の君と比べるべくもないが、自分の気持ちとしては精いっぱいのことはしてきたつもりで、ただそなたのことのみ愛しく思ってきた。
そなたがあの男と結ばれようと思ったとしても、私のいちずな心には及ばないと思ってたばかりに、寿命がないのは心苦しい限りだ。」
と言って泣き出してしまいます。
「どうして皇子ができなかったのか、それが残念だのう。
前世からの縁の深いあの男となら、それを見るかもしれないと思うのも残念だ。
もっともあの男は臣下の身分だから皇子になることはできないがのう。」
など、これから先のことをおっしゃるので、とても恥ずかしく悲しくなります。
「何でまあ、若気の至りであんな騒ぎを起こして、自分の名誉だけでなくあの人まで‥‥。」
など思い出すと、辛い所ですね。
*
翌年の二月、春宮の元服の儀がありました。
十一になり、普通よりも大きく大人びて美しく、ただ源
ほんとにまぶしいくらい光り輝いていて、みんなは大喜びしてますが、
内裏でも目出度がられて、皇位が譲られることなど聞こえてきて、みんなの関心を集めてます。
同じ二月の二十余日、譲位の話が急速に進み、
「もうどうにもならないことゆえ、静かに見守るべきと心得よ。」
と慰めます。
東宮坊には
天皇の代が変わり、それによって多くのものが刷新されます。
左右の大臣に欠員がなく、収まる場所がないため、新たに内大臣として加わることになりました。
すぐに摂政をすべき立場ではありますが、あまり人の矢面に立つような職には耐えられないということで、これまで通りの大臣が摂政として働いてもらうべく譲った形になりました。
その返り咲きの
「病気で位を返上した身の上、いよいよ老化も進み、しっかしとした仕事も出来かねます。」
と固辞します。
「他所の国でも、反乱が起きて世の中の定まらない時には山奥に籠っていた隠士でさえ、世の中が収まれば白髪も恥じずに戻ってきて仕えるというのが本当の聖人というものです。
病の淵に沈んで返上なされた位も世の中が変わったのですから、復帰しても誰も非難はしないでしょう。」
御門からもその他の人たちからもそのように説得されます。
そういう先例があるならということで、抵抗しきれずに太政大臣に就任しました。
御年六十三になります。
世の中が嫌になって一度は引き籠ったものの、元に戻り華やいで来れば、不遇な地位に沈んでいた息子たちも皆再浮上します。
特に
あの
あの催馬楽『高砂』をきれいな声で謡っていた次男も元服してムネヨリの名となって冠を被り、願ったり叶ったりです。
子沢山で次々生まれて来るので賑やかなのは、
その源氏と
それでも亡きあとも、
相変わらず昔のように礼を尽くし、何かある折ごとに尋ねてきますし、若君の乳母たちやその他の仕えてる人たちも、年月を経ても辞めて行く人もなかったのは、皆何かあるごとに便宜を図るとあらかじめ決めていたからで、みんな幸せになりました。
二条院でも同じように待っていた人たちに面倒をかけたと思い、今までの苦労に報いたいと思い、中将の君や中務の君のような人たちは、妻ではないが身分相応に目をかけてあげて、そのために隙もなく、他の人の所に通ったりもしません。
二条院の東の宮は亡き崋山院の残したものでしたが、二つとないほど見事に改装しました。
*
そういえば、あの明石で気の毒なことをしてしまったあれをどうにかしなくてはと、忘れた時はなかったのですが、公私に渡って忙しくなかなか思い通りに訪問することもできず、三月一日になってやっと、「もうその頃だな」と思うと人知れず心痛み、お使いを出しました。
その使いは急いで帰ってきて、
「十六日のこと。女の子で安産でした。」
と報告します。
願ってもないことで、その喜びは半端ではありません。
こんなことなら京に迎えてお産をさせればよかったと後悔します。
星占いにも、
「子供は三人。御門、后かならず両方生れて来るでしょう。三人の内の最悪でも太政大臣という最高位に着くでしょう。」
という予言が出てまして、
「身分の低い妻から生まれた子は女の子になるでしょう。」
というのもあり、的中です。
そういえば、
源氏自身は臣下に下った身なので、自分が王位に就くことはあってはならないと思ってます。
「崋山院にはたくさんの皇子達がいたし、その中でも特別可愛がってくれてはいたが、
今の内裏がこのようになったのは、大っぴらには言えないことだが、人相占いは間違ってなかった。」
と心の中で思いました。
今これから先どうするかを思えば、
「住吉の神の導きで、あの明石の
だとすると、畏れ多いまでの身分に上るべき人が、あんな片田舎で誕生させてしまったということは、気の毒だし面目ない。
近い将来京に迎えなくては。」
と思い、東の院を急遽造るように急がせました。
あのような所には頼りになる人もなかなかいないと思い、亡き院に仕えていた
まだ若く、特に野心もない人で、長いこと人知れぬあばら家で悶々と過ごしてきて生活も心細かったので、特に悩むこともなく今回の件を願ってもないことと思い、明石へ行くのも問題はないとのことです。
身の上に同情しつつ出発の準備をします。
別の用事のついでに、こっそりとこの娘の所を尋ねました。
色よい返事はしたものの、どうすればいいのか迷っていたところ、わざわざ来てくれて何と勿体ないことかと思い、決心もついて、
「ただ仰せのままに。」
と言いました。
御日柄も悪くなかったので、急いで出発させ、
「ぶしつけで勝手なことを頼んでしまったが、将来に重要な意味を持つことなんだ。
俺もまた身に覚えのないことであの地に住まわされたことから気持ちはわかる。しばらく我慢してくれ。」
などと言ったうえで、事情をいろいろ説明しました。
先帝に仕えていた頃に見かけることもありましたが、すっかりやつれていました。
家を見ても言いようがないほど荒れ果てていて、さすがに大きな屋敷ですが木が茂るがままで、よくこれで暮らしていけるなと思いました。
性格的にはまだ若く面白い人なので、興味はあります。
とりあえず冗談に、
「家に置いておきたい気もするが、どうでしょうか。」
と言ったりすると、「ほんに、その通り、おそばでお仕えできましたならば、今の苦労も忘れられます」と心の中で思います。
「昔から親しい仲ではなかったが
別れることはつらいことです
追いかけちゃおうかな。」
と言えば吹いて、
「また急に別れ惜しむふりをして
思ってる方に逢いたいんでしょ」
すっかり手慣れた返しをされて、痛いところですね。
京の街中は牛車で行き、都を去って行きます。
ごく親しい側近だけを同行させ、極秘事項なので固く口止めをして出発します。
護衛に必要な刀やその他諸々、何一つ不足のないよう揃えてやりました。
乳母にも例のないほどこと細かく配慮を盡しました。
入道が一生懸命赤ちゃんの世話をしているところを想像すれば、何とも微笑ましく思うものの、
手紙にも、
《くれぐれも粗末に扱わぬように》
と何度も戒めました。
《今すぐに羽衣着せる女の子
いくら撫でても岩は減らない》
摂津の国までは船で下り、そこから先は陸路を馬で急ぎ、到着しました。
入道は待ち受けていて喜び、礼を尽くすこと限りがありません。
都の方を向いて拝んでは、
赤子の危険なくらい美しいそのお姿に、何と表現していいことか。
「なるほど、わざわざお世話しようというからどんな立派な志かと思ったら、こういうことだったのね。」
と理解し、見慣れない旅路に悪い夢を見たような心地で悩んでいたのもすっきりしました。
こんなに美しく可愛らしいなら、世話もしましょう。
この赤子の母君のナミコはというと、何か月も悲しみに沈んで溺れるくらいの状態だったのが、生きる気力もなくしていたものを、源氏の意向に少しは気持ちも落ち着いたか頭を上げて、乳母に同行した使いの者をこの上なく手厚くもてなします。
すぐに帰らなくてはと急いでいるのが残念に思い、思うことを少しばかりと、
《自分一人育てる袖は短くて
すべてを覆う影をまちます》
と歌を添えました。
これには源氏の君もおかしくなるくらいに気がかりになり、早く会えたらと思います。
二条院の
「こういうことがあってね。
不愉快で嫌いになっても仕方がない。
出来てほしい所にはなかなかできなくて、そうでないところにというのは残念だ。
女の子だったのでまだ良かったものだ。
聞かなくても良かったことだけど、だからと言って放っておくこともできないので、呼び寄せて実際に見てもらうことにするよ。憎く思わないでくれ。」
と言えば、顔を赤くして、
「変よね。いっつもそういった言い方をするその気持ちが、わからないわ。
あんたが憎らしく思えるのも、今に始まったことじゃないでしょ。」
と恨み言を言うと、
「そうだな。誰がそうしたんだか。考えなくてもわかるだろっ。
君の気持というよりも、自分の叱られることを心配してびくびくしてるなんてね。
考えてみれば悲しいことだな。」
と言って、ついには涙ぐんでしまいます。
しばらく離れ離れで飽くこともなく恋しいと思っていた二人の心の内を、何度も手紙で遣り取りをしたことを思い出しても、
「あの赤子をこうまで気遣って尋ねさせたのは、戦略があってのことだ。
今それを言ってもまた違う意味にとるかもしれないが。」
と言いかけて、
「面白い人だと思ったのも場所が場所だったからな。あんな所にはなかなかいない人だし。」
など話を変えるのでした。
じいんと心に染みる夕暮れの藻塩焼く煙に言い交わした言葉、はっきりとではないけど夜にほの見えた姿、箏の優雅な音、すべて興味の惹かれたことを説明しても、
「私がこれ以上ないくらい悲しく思い悩んでいたというのに、遊びとはいえそうやって通じ合っていたのね。」
と、どうやっても溝が埋まらず「言っても無駄ね」と背中を向けて、「男と女は悲しいものね」と独り言のように呟いて、
「藻塩焼く煙はこっちになびかない
私は煙になって消えたい」
「何だってそう思い詰めるんだ。
誰のため海や山やら彷徨って
涙に暮れて浮き沈みして
一体どうしたらわかってくれるんだ。
死んでしまってはもともこもない。情けないこと言っても恨まれたくないと思うその理由は一つしかないでしょう。」
そう言って箏を引き寄せて、軽くチューニングして弾いてみるように勧めるけど、明石の箏が上手だったということも妬ましく、手を付けることはありませんでした。
とにかく優しそうで美しく、おしとやかにしているものの、さすがに芯が強いところもあってたじたじになることもあるが、かえって怒った姿も可愛らしく、それが面白くて魅力的に思えるのでした。
「『子供は三人。御門、后かならず両方生れる』ってのは冷泉帝と明石の姫君?」
「あと一人が『最悪でも太政大臣』というというのはトーコとの間のあの息子なのは間違いないわね。」
「明石の姫君は后確定なのかな。」
「多分予言どうりになるってストーリーなんでしょうね。」
「でも、この予言を知ってる人にはあの新しい御門の正体がバレてるってこと?」
「外れたってことにすればいいんじゃない。」
「源氏と中宮だけが的中したことを知ってるってことで。」
「さて、明石の姫君を后にするとなると、ここからが修羅場ね。」
「お約束で予定調和だけど、盛り上げてくれるんでしょうね。」
「他の女達も回収しないとね。」
「わからないよ。あの予言を裏切ってくれるかも。」
「どうかなあ。それはあるかなあ。」
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