第25話 葵2 出産
「写本できた?」
「末摘花まで。」
「五月雨の物忌みの間に、かなり進んだ。」
「右大弁殿がまさかこんな女房みたいな字を書くとはね。」
「こうして物語を聞いたり語ったり書き写したり、この楽しみがなくならないことを祈る。」
「『枕草子』はそう言う楽しみとは違うけど、あれはあれで。」
「枕は頭に敷くもので、会話のきっかけにというコンセプトだっけ。」
「会話のネタ集というか、ビジネス会話集というか。」
「実用にはなるけど、娯楽とは少し違うかな。」
「まあ、そろそろネタ的には古くなったけどね。」
「あっ、そろそろ始まる。」
藤式部
「いやー、暑いっすねって去年も言った気がする。
これは夕顔の続編ね。
始まり始まり。」
薄情な人だとあきらめようとは思っていても、さよならと源氏のことをさっさとふって伊勢に下ってしまっても先行き不安だし、世間の人に知られたならいい笑いものになると思うのです。
だからといってこのまま京にいても、こんな惨めな目にあったことで、みんなから見下されるのも面白くないし、釣する
「俺のようなつまらない男など見るもの嫌だと思うなら捨てられてもしょうがないけど、今さら何を言うんだと思うかもしれないが、それでも最後まで君を思い続けるのが本当の愛ではないか。」
と言い含められ、迷っていた心もおさまるかと出かけて行ったら、あの
源氏の
そうは言っても放って置くわけにも行かず、最初の妻として特別な思いのある人の出産にまつわる病気となれば、気が狂わんばかりに思い嘆いて、密教の
物の怪や
霊力のある
物の怪と言っても特に深い恨みを買った覚えもありません。
過去の乳母や何かか、もしくは左大臣家に古くから取り憑いてきた怨霊が、弱みにつけ込んで出てきたなどと、次から次へとあやふやな説明ばかりします。
その
見舞いに来る崋山院からの使いの者もひっきりなしで、祈祷のことまであれこれ手配してもらうのはありがたいものの、ますます予断を許さない状態になっていきました。
世間のみんなが源氏の
今まではそれほどでもなかった対抗心が、どうでもいいようなところで起きてしまった車争いによって掻き立てられてしまったことなど、左大臣家の人たちにはまったく思いもよらぬことでした。
普段行かないような旅をしてゆくような所だったので、それこそ人目が憚られます。
長いことご無沙汰していたのは意図したものではなく、罪を許してほしいからだとあれこれ言い訳する中で、
「自分としてはさしたる思い入れはないんだけど、親族の方が大げさに騒ぎ立てて右往左往しるのがを見ていると心苦しくて、この騒ぎが一段落してからと思って‥‥。
その辺のところで目くじら立てないでいてくれれば嬉しいのだけど‥‥。」
などとうまく言いくるめようとします。
ぐだぐだしたまま夜明けになって、帰って行く
「いつも愛してる人にさらに放っておけないような事情が生じたのなら、そのことで心がいっぱいでしょうに、こうやって待っていても胸がいっぱいになるばかりだわ。」
と中途半端に悩みが蒸し返されてしまったような気分でいたところ、
《このところ少し容体も安定していたのが急にまたひどく苦しみだしたため、どうにも逃げられなかったので‥‥。》
とあるのを、またいつもの言い訳かと思い、返事を書きます。
《恋の道は涙の道と知りながら
降りた田んぼのみずから苦しむ
山の湧き水の浅すぎて、袖が濡れるだけで汲むことができないとは、昔の歌の通りです。》
その筆跡に、やはり宮中では一番だなと打ち眺めながら、
「女ってやはり分けわかんないな。
性格も顔かたちもみんなそれぞれ捨てがたいというのに、この人一すじにと思えるような人もなくて‥‥。」
とすっかり悩んでしまいます。
すっかり真っ暗になってから返事を送りました。
《袖だけが濡れるというのはどういうこと?
愛が深くないということではないですか。
浅い水に降り立つ人よこの俺は
深き恋路にどっぷり浸かり
本当ならこの返歌を、自分の口から聞かせてあげたい。》
と書いてあります。
取り憑いてる霊は今は亡き父の大臣の霊ではないかと言う者もいて、
以前から、ありとあらゆるすべてのことで悩んできたものの、ここまで心を引き裂かれてしまうなんてありませんでした。
何てこともないことなのに、あの禊の時にあの人が無視して知らん顔して通り過ぎてしまったことで、すっかり憂鬱になり心ここにあらずで、気持ちを鎮めることができなくなったせいなのか、少しうとうとしてみた夢ではあの
「あーーっ、自己嫌悪。
本当に魂が抜け出ちゃったんだ。」
と、確かに目が醒めているのに夢を見ているような気分になることがたびたびありました。
魂が抜け出たなんて、小さなことでも人間というのは大体悪く悪く受け取るものなので、ましてこれは格好の攻撃材料にされてしまいかねません。
だとすると噂になるのも避けられません。
死んでから後に恨みを残すのはよくあることですが、それですら罪深いことで、あってはならないことなのに、生きている自分がそんな忌まわしいことを言い立てられたりしたら一生の恥です。
もう一切あのつれない人のことは気にかけないようにしようと思ってはみても、気にかけてしまうものなのですね。
*
そして晩秋の九月にはすぐに嵯峨野の
そのせいかひどく取り乱すこともなく、小康状態を保ちながら、それまでの月日を過ごしました。
源氏の大将も何度もお見舞いの手紙を送るのですが、それよりも大事な人がひどい病気なので、それどころではなさそうです。
まだ予定日ではないと周りの人も油断していたところ、急に産気づいて苦しみだしたので、今まで以上にありとあらゆる祈祷の限りを尽くすのですが、例の取り憑いた物の怪の一つが居坐り続けています。
高名な修験者たちも、こんなのは見たことがないと考え込むばかりです。
とはいえ、さすがに物の怪の方も見事に調伏され、何かを大変気にしているかのように泣き伏して、
「祈祷の声を少し静かにして下さいな。
大将の君に伝えたいことがあります。」
と言います。
「そうか。
何かわけがあるんだな。」
と近くの
いまわのきわにどうしても言っておきたいことがあると思ったのか、
加持祈祷のお坊さん達が小さな声で法華経を読んでいて、それはそれは尊いことです。
御几帳の
まして
白い
手を握り、
「ひどすぎるよ。
そんなに俺を責めないでくれよ。」
と、声を詰まらせて泣き出せば、いつもはひどく面倒くさそうで見下すかのような眼差しも、すっかり放心したような目で見上げて、じっと見つめられ、涙のこぼれるのを見ると、これがどうして悲しまずにいられましょうか。
あまりひどく泣くので、親達に済まないだとか、またこんな姿を見てがっかりしているに違いないなんて思っているのではないかと思い、
「何も心配するな。
いつもの通りだ。
たとえどうなっても会いたいと思うなら必ずまた一緒になれる。
と慰めると、
「そんなんじゃないの。
この私をこんなに苦しめるのをちょっとの間やめてくれと言おうとしただけで‥‥。
こんな形で来ることになるとは思わなかったけど、物を思う人の魂が遊離するというのは本当なのね。」
となれなれしい調子で言いつつ、
♪悲しみに空にさ迷う魂を
下になったつまに繋ぎとめてよ
と唄い口ずさむ声、様子はその人と思えず、何か違ってました。
「一体どうなってるんだ。」
といろいろ思い巡らしてみても、思い当たるのはあの
「ああ、うざっ。」と思って、
「そんなことを言っても誰だかわからない。
はっきり言え。」
と言っても、ただそんな様子なので、浅ましいなんてものではありません。
他の人たちが近くに寄ってくるのも、痛々しく思えます。
声が普通に戻ったのでこの隙にということで、母宮様が産湯にするお湯を運んできて、体を支えられながら身を起こすと、程なく赤ちゃんが生まれました。
嬉しい気持ちは限りないけど、他の人に乗りうつらせた物の怪たちが悔しがって付きまとっているような気がしてどうにも落ち着かず、胎盤がちゃんと排出されるかどうかも気がかりでなりません。
数限りない願文を読み上げたせいか、無事に出産が終り、比叡山の座主をはじめとする名だたる修験僧たちは、一仕事終えたとばかりに汗を拭いながら退出して行きました。
大勢の人を動員して加持祈祷の限りを尽くしてきた余韻のなかで、
御修法などはその後も行なわれたりしましたが、まずは目出度し目出度しで、赤ちゃんの方をこれでもかと可愛がるものですから、すっかり気持ちが緩んでました。
院をはじめとして皇族、上達部残らずやってきて三日、五日、七日などのお祝いが、かつてないほど盛大に行なわれ、夜ごと夜ごとの大騒ぎです。
男の子でありさえすればと、その儀式の仕方も金がかかっていてお目出度いものです。
「あの時はあんなに危ないと言ってたのに安産とはどういうこと?」と首をかしげました。
妙な自分が自分でなくなるような感覚は続いていて、
気持ち悪いので髪を洗ったり御衣を着替えたりしても、これといって変化もないので自分のことながら嫌になり、まして人がどう思っているかなど人に聞くわけにもいかず、一人で悶々とするだけでますます精神に変調をきたして行くばかりです。
ひどい物の怪の病を患っていたあの人のその後の経過が危険で予断を許さない状態だと誰しも思っている以上、当然のことながら他の女の所に通うわけにもいきません。
今もなお、何をする気力もないような状態なので、まだいつものような形で逢うことはできません。
生まれた子の危ういくらいに美しいその姿を、今からまったく別物であるかのように可愛がる様子は半端ではなく、まさに願ったりの感じで
若君の眼差しの美しさなど、あの
「内裏へあまり長く行かないでいるのも悪いと思うし、今日からまた通うようにしたいので、少し近くで話がしたいんだが。
ちょっと他人行儀過ぎないか。」
と不満を口にすると、
「本当、そんな見てくればかりを気にしていては。」
と女房の一人が言って、病気で臥せってる所のそばに席を作ったので、入っていろいろお話します。
時折返事をする声が聞こえるものの、とても弱々しいものです。
それでも、てっきりもう死ぬのかと思ったときのあの状態を思えば信じられないような気分で、危なかった時のことなどを話して聞かせていると、あのどう見ても息絶えたようになったと思ったら、何事かを語り始めたあの時のことを思い出し、心配になって、
「それじゃあ、聞いてほしいことはまだたくさんあるけど、まだ病気が良くなってないようだから。」
と言って、
「お湯を持ってきてくれ。」
と気遣うあたり、すっかり看病に慣れてしまったのを周りの人は気の毒に思いました。
あんなに美しかった人もすっかり衰弱して見る影もなく、その存在すらも不確かな状態で寝ている様子が、とても気の毒で苦しそうです。
髪の毛には一点の乱れもなく、はらはらと枕に掛かるあたり、何一つかけがえがないと思えば、今まで一体何を不満に思っていたのかと、今になっておかしいくらいに急に見とれているのでした。
「崋山院や何かに挨拶したら、すぐに帰ってくるから。
こうやってずっと見つめていられれば嬉しいんだけど、母宮様がずっとここにいるので遠慮した方がいいのかと、その気持ちを隠し続けていたのが心苦しくて、とにかく気持ちを強くもっていつもの所でまた会いましょう。
あまり子供扱いしてたもんだから、病気の良くならない一因はそこにあるんじゃないかな。」
などと最後に言うと、これまた奇麗な装束を着て出て行くので、いつもよりはじっくりと見送って、ふたたび床に伏せりました。
「実際の花山院もまだ存命。」
「てことは花山法皇公認ってこと?」
「まあ、朱雀院も実在したし。」
「
「知らない所で
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