第6話 帚木3 方違え(上)
藤式部の呟き
「ここから先は一昨年既に発表済みの物語につながる。
品定めの所で受領の娘の伏線があって、ここに挿入してみた。」
藤式部
「では、雨夜の品定めのあと、一体どうなったか、始めるよ。」
かろうじて今日は天気の方も回復しました。
妻の家に通い、辺りを見回すと、家も人も何もかも整然としていて品があり、乱れたようなところが一つもなく、それこそ昨夜のメンバーの言っていたような、なかなかいないような、探し出してでも手に入れたい頼りになる真面目な女なのかと思うものの、あまりにも端麗すぎるその様子がよそよそしく、気恥ずかしくなるほどに取り澄ましているのが退屈で、中納言の君、
「あー、うざっ。」
と言って脇息にもたれかかる源氏の君は、とてもくつろいだ様子でした。
薄暗くなってきた頃、
「今夜は天一神が内裏の方からするとこの屋敷のほうにいて、
と知らせてくる人がいました。
源氏の君は、
「もちろん。いつもなら避けて通る方角だ。
だからといって二条院も同じ方角で、どこに方違えすればいいんだよ、疲れてへとへとだというのに。」
と言って寝床に横になりました。
その男は、
「そりゃマジまずいっすよ。」
とあれこれ説明するうちに、
「親しくお仕えしている紀伊の
と言い出すのでした。
「そりゃまあ、いいかもな。
でも疲れてるから、牛車に乗って入れる所にしてくれ。」
と源氏の君は言います。
こっそりと通うような女の所などはいくらでもありそうなものですが、久しぶりに正妻のところに通いに来たというのに、
さっそく紀伊の
「父上の伊予の
と、影でぼやいているのを耳にして、
「そういう人のぬくもりがいいんじゃないか。
女のいない外泊なんてぞっとするね。
その女房の几帳の後ろにいたいもんだ。」
と言えば、
「良い一夜になるといいですね。」
と使いの者を走らせました。
こっそりと、できるだけ目立たないところを通って急いで出発したので、
とりあえず寝殿の東側の正面の部屋を開放して、臨時の客間をしつらえさせました。
水が流れる風情など、この時期に合わせて趣向を凝らして作られてました。
田舎の隠れ家のように柴垣で囲い、庭の植え込みも細心の注意を払って植えられてました。
風も涼しくて、何かは知らないが虫の声もいろいろと聞こえてきて、無数の螢が飛び交って吸い込まれそうになるくらいです。
お供のみんなは、
主人
成り上がりで思いあがっている感じだと噂にも聞いていた、そういう女ということもあって、興味津々で耳をそばだてていると、この寝殿の西側の正面の部屋に人の気配がします。
さすがに大笑いなどはせずに、小声で笑う声はいかにも気取った感じでした。
格子を上げてよく見ようとしたが、
「失礼ですよ。」
と言って降ろしてしまったものの、格子の向こうの閉ざされた襖の中から火を灯した明かりが漏れているのを見て、一気に近づいてそこから覗いてやろうと思ったけど、その隙も与えられずしばらく聞き耳を立てていると、襖の向こうの母屋に女達が集っているようでした。
そのひそひそ話を聞いていると、どうも自分のことを噂しているようでした。
「ほんと、マジ真面目そうに、元服早々に大臣の娘を貰って身を固めちゃったからさー、退屈しちゃってるのよねー。
んなもんだから、奥様の目を盗んではしょっちゅうどこか隠れ歩いてるんだってさー。」
などと言っていたので、源氏の君も思いあたることがあるのか、ぎくっとして、胸の潰れるような思いで、誰かそのことをぽろっと口にでもしたらどうしようかと気になってしょうがありませんでした。
だが、それ以上のこともなかったので、聞くのをやめました。
式部卿の宮の娘アサコに朝顔の花を捧げた時の歌などを、少々話を作って語っているのが聞こえてきます。
すっかりくつろいでしまっていて、歌などを軽く節をつけて口ずさんだりしているようです。
何か評判ほどでもないなと思いました。
「
催馬楽の『我が家』という唄にもあるじゃないか。
♪我が家はとばり垂れていて
大君いらっしゃい婿にしよう
肴は何かなアワビにサザエ
ウニも良いかなウニが良い』
あなたが気を利かさなければ、失礼な主人だと思われるよ。」
そう源氏の君が言っても、
「何がお望みなのでしょうか、理解に苦しみます。」
と恐縮するだけです。
端っこの寝床に仮眠を取るような形でお休みになれば、従者たちも静かになりました。
この家の主人の子供は、何気に可愛い。
中には殿上で見かけたことのある
伊予の
たくさんいる子供の中には、いかにも品の良さそうな十二、三歳くらいのもいる。
源氏の君が、
「一体これは誰の子なんだ」
と訪ねると、
「これは今はなき衛門の
漢学なども身につけていてそんなに悪くはないのですが、殿上に出仕させようとも思うのですが、どうも社交の方がすんなりとは行かないようで‥。」
と言うので、
「可哀想なことだ。そのキギコという姉さんと
「その通りです。」
と言います。
「ずいぶん似つかわしくもない若い母親を手に入れたもんだな。
人の世というのははかないものだな。」
などと源氏の君は大人ぶったようなことを口にします。
「いきなり何をおっしゃいます。
世の中というのはこのように今も昔もはかないものでございますよ。
とりわけ女の運命というのは浮き沈みあるもので、哀れなものです」
などと申します。
「
夫というよりは父親のように思うだろうな。」
「そんなことは。
私を舅だと思っているというならいざ知らず、あたかも私が目を付けているかのような邪推をするなんて、もとより承服できません。」
と
「でも、おまえ等のようないかにもって感じで派手に振舞っている者が、あの女房と交わることを望むかな。あの
など雑談を交わした上で、
「で、どこにいるんだ?」
と問い詰めると、
「皆、寝殿の裏手の下の屋に下がっておりますので、もう誰も残ってはいないと思います。」
と答えました。
すっかり酔っぱらった従者たちは、
源氏の君はくつろいではみるものの眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあのキギコという女がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、むっくり起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして、
「ちょっと御免。どこにいるんだい。」
と、可愛らしい囁き声で言えば、
「ここで寝てるよ。
お客さんは寝たの?
近すぎると思っていたけど、そうでもなかったね。」
と言う。
今にも寝そうな声の無防備な感じがさっきの声と良く似ていたので、これが
「寝殿の東の
リアルにかっこよかった。」
と小声で言いました。
「昼だったら、ちょっと覗いてみるところだったのにね。」
と眠たそうに言って、夜着に顔を潜らす音がしました。
源氏の君は「ちっ、何とか気をひいて訪ねていきたいな」とくやしそうでした。
「俺は隅っこに寝る。窮屈だけどね。」
と弟君は言って、燈芯を掻き立てたりしました。
あの女房の君は、ただこの障子口の斜め向かいで寝ているはずだ‥。
すると声がして、
「中将の君はどこなの?
人の気配がないので、何か恐い。」
と言えば、母屋を仕切っている長押の下手に人が何人か横になっていて、答えます。
「湯浴みしに下屋に下りてますが、すぐに参ります。」
みんな静かになったようなので、試しに掛け金を引き開けてみると向こう側からはかかってない。
障子口には
何か気分の悶々とするままに上に掛けてある夜着を押しやるまで、その女はさっき呼んでいた中将の君だと思ってたようでした。
「中将の君を呼んだんでしょ。人知れず私のことを思っていてくれたのですね。」
と源氏の「中将」の君が言うと、女はとにかくわけがわからず、何か恐ろしいものに襲われる気がして「やっ」と恐怖の声を上げるのですが、源氏の衣が顔をふさぎ、音も立てられません。
「急なことで遊びだとお思いでしょう。
それもわかりますが、以前からずっとあなたのことを思っていたその心のうちを、いつか知らせようとこれまで待っていたのですよ。」
と甘く囁いて、鬼神をも黙らせるような穏やかでありながらも威厳のある態度に出られると、相手の身分もあるので「変な人がいるーーー!!!」と言って大声出すのもためらわれます。
とにかく気色悪く、あってはいけないことだと思うのですが、
「みっ、見苦しい‥‥、ひっ、ひっ、人違いです‥‥。」
と言うのも息絶え絶えです。
死ぬほど心が乱される様子が身悶えするくらい弱々しいのを、可愛いなと眺めては、
「見間違うはずのない心の道しるべを、知らずにあなたは迷ってらっしゃるのですか。
変なことは一切いたしません。
私の思うことを少し聞いて下さい。」
そう言うと、ごく華奢な体を抱え上げ、お姫様抱っこで障子の外に出ると、さっき呼ばれていた中将の君と思われる女房とかち合いました。
「あっ‥‥」
と声を上げて、不審に思い調べようとして近づくと、ひどく良い香りに満ちて、顔にその匂いがもわっとかかるような感じなので、誰だかわかりました。
「ひどいっ、一体どうなってんのっ。」
とどうしていいのかわからなくなるけど、知るすべもありません。
普通の人であれば力づくでも引き離すところなのだが、それにしても多くの人に知られるとかえって混乱して、何が起きたかわからなくなりそうでもあります。
心穏やかでなく、後を追ってはみたもののどうにもできず、二人は奥の部屋に入っていきました。
障子をパタンと閉めて、
「朝未明には迎えをよこしてくれ。」
と言うけど、一つ部屋に閉じ込められた身には源氏の君が何を考えているかもわからず、死ぬほど心配になり、汗がだらだらと流れ、頭もくらくらして、とても辛そうです。
(この後二人に起こった出来事は憚り多くて記されていないが、大体ご想像の通りと思っていただければ。
ことが終りまして‥‥)
例によってどこから引っ張り出してきた言葉なのか、いかにも愛情を込めているふうなうわべだけの心遣いで、聞いてる方としてはあきれるほかなく、
「正気とは思えません。
取るに足らないような者ですが、このような見下したような態度を取られたからには、浅い気持ちで済むはずがありませんよ。
大変な身分あるお方でしたら、身分に相応しいことをしてください。」
と言って突っぱねるものの、
「その身分に相応しいことなんて、まだわからない。
これが初めてなんだ。
まさか、そんな遊び慣れた人たちのように思われるなんて心外だ。
たまたま知っていることはあっても、身勝手な遊びだけの恋なんて誰からも教わってはいないし、こんな真剣な気持ちだというのに、まったくこんなに軽く見られてしまうなんて‥‥。
気が動転するのも当然だし自分でも不思議なくらいなんだ。」
などと、必死にいろいろと言っては見るけれど、
人柄がしなやかで、いくら暴力的に我が物にしようとしても、なよなよした竹のようで、さすがの源氏の君の力でも折れる様子はありません。
本当に打ちひしがれた気分で、身勝手な感情に何を言っても駄目だと思って泣く様子など、本当に気の毒です。
源氏の君もまた、心苦しいとは思っても、自分へ靡いてくるところを見ないまでは悔しくてこのまま引き下がれないと思ったのでしょうか。
気持ちをやわらげてやることもできずに、つれない女だと思ったのか、
「何で私のことをそんなにも疎ましく思うのですか。
思いがけなくこうして出会えたのは、前世の契りがあったからこそだと思ってください。
男と女の情をまったく知らないかのようにとぼけられてしまうのは大変辛いことです。」
と未練がましく言われても、
「まだまったくどこに行けばいいのかわからなかったかつての私でしたら、こんなお心遣いを受けるのも願ってもないことだったかもしれません。
前世の縁があったのでしたら、今でなくても後世にでもと思ってどうかお心を静めて下さい。
ただこんな現世のはかない一夜のことすら私には似つかわしくないものと思うと、ただ困ってしまうだけです。
どうか今夜のことはなかったことにしてください。」
と言って思い悩む様子は、まったく当然ともいえます。
一応の約束をし、慰める言葉もさぞたくさんあったことでしょう。
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