第25話 庭に木を植える

 普段ならば車で三十分かかる距離を二十分で走り抜けた。夜は道が空いていて走りやすい。

 どうかそこにいますように、と願いながらも、終電の時間が過ぎているから、居酒屋に残っているわけがない、とも冷えた頭が言う。

 それでも藁にも縋る思いだった。居酒屋の前の道路は一方通行で、斉賀の進む側からは進入することができなかったから、コインパーキングに再度停車し、車を降りた。

 冬本番の夜だった。温まった体の熱が、また奪われていく。居酒屋へ向かう道は、街灯がなく暗い。懐かしい道だった。お気に入りの店だったが、持留と出会ってからは一度も行かなかった。彼の嫌がることはしたくなかったのだ。

 その居酒屋の一角だけ、浮き上がるように明るかった。

 灯りの下に目を凝らす。


 それは、舞台上でスポットライトに照らされるようだった。

 壁に寄りかかって背中を丸めて、俯いている。

 持留はそこにいた。だらりと力なく下がる左手に、火のついた煙草が見えた。

 いる、と信じながらもいないと諦めていたから、喜怒哀楽が全て混じったような複雑な気持ちになった。一瞬立ち止まってすぐに駆け寄った。

「裕! 」

 彼は顔を上げ、驚いた表情を見せた。

「裕」

 斉賀も灯りの下に入り、再度名前を呼んだ。

「永一郎、なんで」

「探してた」

 抱きしめたかった。どこにも行かないように、自分の元から去らないように。なぜ恋人や家族は抱きしめ合うのか、斉賀は成人してもその理由が分からなかった。しかし、今理解する。それは愛しい人を捕まえて、逃さないためだ。そうに違いない。体を推し進める衝動を抑え込むために、両の拳を握り込んだ。

「探してた……? 」

「なんで返信しないんだ」

「あ、連絡くれてたのかな。ごめん、スマホの充電切れててここニ、三日くらい見れてない」

「……充電しろよ」

 けろっとした様子を見ていると、心配が怒りに変わる。野々垣も春野も皆、時間を割いた。

「え……ごめんね、返信できなくて。なんか約束してたっけ……それで怒ってる? 」

「野々垣さんに金曜から授業来てないって聞いて心配だった」

 持留の顔がみるみる曇り、眉をひそめて唸る。

「……そうか、本当にごめん。その」

「なんだよ」

「僕のこと、誰も気にしてないだろうなと思ってたから。連絡気にならなかったんだ」

 孤独を感じさせる声の調子。まるで自分が一人ぼっちだとでも言いたげで、いよいよ腹がたった。

「野々垣さんも春野も。皆心配してた。俺は、もう裕に会えないんじゃないかと思った」

「ごめんなさい」

 二人とも泣きそうな顔をしていた。煙草の煙が漂って、煙たかった。彼が未だ煙草を吸っているのが意外だったが、それよりも話したいことがたくさんあり、話題として取り上げるに至らなかった。空咳をする斉賀に、持留は煙草を持つ左手をはっと見た。そして、地面に押し付けて火を消す。吸い殻は左手に、もう片方に握っていたジッポライターはジーンズのポケットにしまっていた。

 彼がどこかへ歩き出そうとするので、反射的にその手を掴む。

「どこ行くんだよ」

「吸い殻捨ててくるだけだよ。店の裏に灰皿あるんだ」

 渋々手を離し、見送った。こちらに戻ってくるのを見て安心してしまう。するべきことを思い出し、野々垣と山口に、持留に無事に会えたことを連絡する。二人からすぐに反応があり、共通してとりあえずよかったと温かい返事が送られてくる。

 持留にその画面を見せると、しゅんと肩を落とした。

「裕、一週間何してたんだよ」

「ん……」

 持留がしゃがむので、斉賀も共に地面に座り込んだ。

「あ。えっと、永一郎帰らなくていいの? 明日って何限から」

「一限からだけど、別にいい」

「よくないよ……。長くなるから今度話すよ」

「いいから。何があったのか気になって眠れない」

 話したくなさそうに首を竦めた。そして小さくため息をついて、片手で目元を覆う。

「永一郎には恥ずかしいとこばっか知られるな」

「そんな風に思ったことない」

「それは永一郎が優しいだけ。ああ、もう………鹿児島に帰ってたんだ、金曜から今日までずっと。慌てて帰ったからスマホの充電器こっちに忘れちゃって充電は諦めた」

 感情を押し殺したように抑揚のない話し方だった。

「鹿児島? なんで」

「僕の学費、ずっと父が支払ってくれてたんだけど。来年の……四年になってからの学費を払えない状況になったらしくて」

 コンクリートのように重い切り出しに安易に相槌を打てず、地面に落ちる影を見つめた。

「それで、離散してた一家で集まって話し合いになった」

「大変、だったな」

「うん。母の再婚相手も出てきて、なんかもうめちゃくちゃだった」

 持留の両親が離婚したのは確か八月頃のことだ。半年経たずに再婚相手がいるというのは斉賀にとって話の展開が早く、ドラマのようだった。

「引いた? 」

 持留は笑ってみせた。空気が重くならないように、気遣っている笑顔だった。

「引かない。裕がこの一週間、大変だったと思うと力になれなくて申し訳なくなる」

「いや、だって言ってないんだもん。言えないし、こんなこと」

「言えよ。一緒に鹿児島行ったよ」

「何言ってんの」

 疲れた、とぼそりと呟くのを聞く。いつもは柔らかそうに膨らんでいる淡い色の唇は、噛みしめたのか所々赤くなっていた。痛々しくて、ため息をつきそうになる。

 斉賀は意を決して聞いた。

「学費は、どうにかなるのか」

「うん。学費は自分で払うから仕送りはなんとかお願いしますってことで落ち着いた」

「……自分で賄えるのか」

「うん」

「本当に? 本当に大丈夫なのか? 手伝い必要なら言えよ」

 持留は斉賀と目を合わせた。街灯が反射して、光る瞳がこちらを射る。

「お金のことで簡単に手伝うとか言わないほうがいいよ。悪い人に騙されるよ」

 冷淡な口調に内心冷や汗をかきながら、負けずに見つめ返した。

「裕が俺を騙すとは思わない。それに……裕になら騙されてもいいよ」

 それで一緒にいられるなら、そっちを選んでしまう。持留は眩しそうに目を細めた。

「冗談だよ。……僕のことは心配しないで。おばあちゃんが僕の名義で残してくれた預金があってさ。それを学費に当てさせてもらおうと思ってる」

 だから、大丈夫なんだ。そう言う声は自分に言い聞かせるようだった。

 本当にそれで足りるのか、仕送りが毎月送られてくる保証はあるのか、無理していないか。

 聞きたいことはたくさんあり、気遣いたい気持ちもあり、どうするべきか考えて長く黙った。

 そのうち、引き合うようにお互いを見つめて、視線が絡んだ。冷えた空気を伝達して、気持ちが伝わればいい。視線で想いが分かればいい。

 けれどそう上手くはできていないから、斉賀は気持ちを言葉にするしかなかった。緊張しながら口を開いた。

「裕、俺と一緒に住まないか」

 ぱち、ぱち、と睫毛を瞬かせて、持留は首を傾げた。

「裕と連絡がつかなくなって、こんなに不安なことはないと思った。だから、俺のためにそばにいてほしい。ついでに家賃もいらなくなるから、ちょっとでも助けられるだろ。あと……あとは、庭に金木犀でもなんでも、植えてもらって構わない」

 庭付きの家を買って、金木犀を植えたい。彼の可愛らしい夢を斉賀は覚えていた。

 持留は笑いもせず、頷きもせず、自分の手のひらに視線を落として、ぼんやりしているようだった。斉賀は返事を待った。

「永一郎」

「ああ」

 どんな言葉が返ってくるのか緊張して、心が千々に乱れた。

「僕は、隠し事が多い」

「ああ、素直じゃない時もあるな」

「そうじゃなくて。いや、それもそうなのかもしれないんだけど。……君にどうしても言いたくなかったことがあるんだよ」

 手のひらを見つめ続けたまま、震える声で言った。その仕草は顔を上げられないから、どうしようもなくてしているのだと斉賀は気づいた。

「そんなの、俺にもある」

 わざとあっけらかんと言った。持留がやっとこちらを見てくれて、その瞳は潤んでいる。

「だから、気にしなくていいんだ、隠し事なんて。無理に言わなくていい。でも教えてくれるのなら、俺は嬉しい」

 口にしながら、自分自身も肩の荷が降りたように楽になった。持留の瞳が揺れて、彼はそれを乱暴に拭う。痛そうで、目元を擦り続ける彼の手の甲を、両方の手首を握って止めた。涙が粒になって頬を転がる。こんな時なのに、きれいで見惚れてしまった。

「聞いて、永一郎。僕は」

「うん」

「僕はゲイで、それで。永一郎のことがずっと好きだった」

 真っ直ぐな愛の告白は、寒い夜だからとびきり熱くて、溶けそうな程に胸を打つ。

「これが僕の隠し事。出会った時から、ずっと。鍵を一緒に探してくれた時からずっとずっと。大好きだった。……だから、一緒には住めないんだ。永一郎に嫌な思いさせるだろうし、気持ちが通じないまま暮らすのはどうしても苦しいから……だから」

 斉賀は両手を伸ばして、彼の体を引き寄せて、腕の中に抱いた。

「それ以上言わなくていい」

 冷えた体が触れ合って、お互いに熱を分け合うようにわずかに温かかった。

「わ、永一郎……? 」

 人を自分から抱きしめるのは初めてで、力加減が分からなかった。すっぽり収まる体を包み込むような気持ちで、そっと力を加える。裕だ、愛しくて可愛い裕。

「俺も、裕のことが好きだ。裕の特別な人になりたい」

「うそだ」

 持留が離れようとするから、腕の力を強めて、片方の腕で彼の頭を肩へと引き寄せる。捕まえた。もう離したくない。

「嘘じゃない。裕の一番になりたい」

「それは……それは、もうとっくの昔に一番だけど。え、本当、なの。気を遣ってるんじゃないのか」

「信じてくれよ。抱きしめても、言葉にしても駄目なら俺はどうしたらいいんだ」

「だって、そんな、まさか。え、それなら、これからどうするの」

 斉賀の胸板に持留が手を突っ張って、こちらを見上げた。睫毛に涙が光っている。

「付き合う? 」

 俗っぽい言葉で問いかけるとなんだかやけに恥ずかしかった。彼は何度も瞬きをして考え込んでいた。ややしばらくして呟いた。

「付き合いたい。一緒にいたい」

 体の力が抜ける。再び腕の中に、彼を抱き寄せた。幸せだったが穏やかではない。土石流のような激情を伴う、息が上がるような幸せの中に二人は寄り添って立っていた。

 どれくらいの間そうしていたのか、随分経ってからおそるおそるお互いの体を離した。腕時計を見ると、深夜一時を回っている。

 冷えた体で、二人は斉賀の車へ向かった。持留は鹿児島から帰ってそのままバイトに行ったようで大荷物だった。

「僕、終電逃しちゃって」

 車に乗り込むなり、持留が言った。

「ふふ、それで仕方ないからレンタルのチャリ使って帰ろうって思ったんだけど、スマホ使えないとそれも無理で。途方に暮れてたら永一郎が来てくれた」

 にこっと笑う持留が今までよりも更に可愛く見えて、ほっぺたなどに触ってみたくなるが、脈絡がないにも程があるため堪えた。

「家まで送ってくよ」

「ごめん、ありがとう。本当に助かる。あ、住所言うね」

「いや、さっきまで裕のマンションいたから大丈夫」

「えっ」

 なんだかストーカーみたいだと思いながら、車を走らせつつ、そうなった経緯を説明した。持留の元気はなくなっていった。寒い中待たせてごめん、と何度も謝るのを見て、運転の合間に頭を撫でた。

 別れ難くて、わざとゆっくりしたスピードで進んだ。たくさん話をした。

「永一郎は、女の子が好きだと思ってたからびっくりした」

「そうだな。俺も気づいたの最近だから」

「何をきっかけに気づいたの? 」

 邪気のない声で聞いてくる。あなたの太ももで勃起したからなんて今は言えなくて、

「裕を見てると今までになったことのない気持ちになったから」

 と、嘘は言わずに誤魔化した。

「家、一緒に住むのはどうする? 」

「ん、嬉しいし、ぜひと思うんだけど。多分だけど家の名義って斉賀のご両親だよね」

「ああ、今は母の名義だな」

「そうなると、勝手に住むのはよくないから。ご両親に挨拶に行かなきゃいけないと思うんだ。だから……もう少し考える時間がほしい」

 返事が保留になったこと自体は残念だったが、斉賀にはそもそも、親に報告するということが全く頭になかった。真剣に考えた上で思いやってくれているのが伝わり、胸の内が温かくなる。

 持留が照れているみたいに、髪の毛の先をいじりながら言葉を続けた。

「僕たちは付き合いたてほやほやなわけで……、だから一緒に住むのは後の楽しみに置いておいて、色々他のこと楽しもう? 」

 一も二もなく斉賀は頷いた。大好きな人に想いが通じて、ようやくできた初めての恋人だ。

「俺、人と付き合うの初めてだ。裕は? 」

「僕も付き合うのは初めて」

 付き合うのは、という言葉に含みがある。

「石田さんは? 」

 びっくりしたみたいに持留はこちらを見る。

「え、なんで知ってるんだ」

「鹿児島旅行の時、ラブホ一緒に行った人って言ってただろ」

「言ったっけ……? 酔ってたかな」

「言った。で、裕が学校に来てないからってことで、山口が裕の知人の男性に連絡取ろうかって提案してくれて、それが石田さんだった」

「え、あの二人連絡先交換してたんだ。ていうか、さっき僕が言う前から、僕が男の人のこと好きなの知ってたんだ」

 はーっと、感心したようにも見える反応を見せた。

「いや、確信はなかったけど。石田さんとはどういう関係だったんだ」

「ん……永一郎はこういうの絶対嫌だと思うんだけど。石田さんとは、その。身体だけの関係で」

 斉賀は息を詰めた。言う通り、どうしても嫌悪感がある。もっと早く持留に出会えたらよかったのに、そうしたらそんなことをする前に彼を止められたのに、とすら思う。ただ、その行為自体に嫌悪があっても、持留を嫌いにはならない。

「でも、あのね。なんか言い訳みたいになるんだけど、永一郎と出会ってからは一回もそういうことしてないし。浮気もしないから、安心してほしい」

「それは大丈夫だよ。疑ってない」

 身体だけの関係という、淫靡な響きに斉賀は彼に触れたくなる。その人に刻まれたであろう記憶に上書きをして、消し去りたいのだ。でもまだ付き合って一日目、焦らずゆっくり進めばいいと自分を諌めた。

 遅い速度で走ったのに、あっという間に目的地のマンションに到着してしまった。持留が降りる前に、運転席と助手席のアームレスト越しに再び体を抱き寄せた。浮いた肩甲骨や、首の後ろの骨を撫でた。

「裕、もう何も言わずに遠くにいかないでほしい」

「うん。心配かけて本当にごめんね。家帰り着いたら、連絡くれたら嬉しい」

「分かった」

 離れがたいままお別れして、持留が見送る中、車を家に向けて走らせた。バックミラーの中、小さくなっていく彼を見つめて、寂しい気持ちになると同時に、彼を見つけた安堵が今更溢れて体の力が抜けた。

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