③「メ、メタってなに?」
――何せ、キミとボクの縁は今日限りなのだから。
つかの間の沈黙。
するりと、唇から指が離された。
「ふむ……これでは風情がないね」
夜子さんは思い立ったかのように振り返ると、手慣れた手つきでCDコンポを操作した。
棚の上からピアノの曲が流れ出す。
「どうだい?」
心地のいい音楽だと思った。
演奏者の指が忙しなく動いている様が目に浮かぶようで。
「……なんだか、喜んでる感じがする?」
「慧眼だね」
自分でも適当なコメントだと思ったが、意外にも好評らしい。
「これはかのベートーヴェンが、若い頃から目をかけてくれた伯爵へと献上した楽曲なのだよ。『貴方が居たから、今の私がある』という感謝の念が込められた代物なのだから、奏でられる旋律には彼自身の喜びで満ち溢れているんだ。
――このピアノソナタ第二一番・〈ワルトシュタイン〉は、そんな偉大なる
饒舌に語る夜子さん。
さっきとは打って変わって、顔つきには嬉々としたものが見て取れる。
相変わらず感情の起伏が読めないし、なにが地雷でなにがツボなのか理解できない。
……けれども、あの凍りつくような無表情――アレには心当たりがあった。
初めて出会ったときの、物言わぬお人形さんのような印象。
どこか脆さを感じさせるような美しさ。
おれにはそれが、触れたら壊れそうなガラスの芸術品に思えてしまったんだ。
「……さて、そろそろ聞いておこうか――ボクの
直球。
夜子さんは核心へと踏みこんでくる。
軽快なピアノのメロディを背景にして、どこか値踏みするような目線を、おれに向けている。
松江先生の推理披露でも味わった感覚。
――試されている。
夜子さんの機嫌を少しでも損ねれば、〈事故〉の手がかりはなくなるだろう。
改めて思う。
夜子さんは不思議な女の子だ。
なにもかもが未知で、どうすれば正解なのかさっぱりわからない。
それでも、なにが間違いなのかだけはわかっていた。
夜子さんはきっと、取り繕ったような言葉が――嘘が嫌いなんだろう。
……機嫌を取る、なんて考えは捨てるべきだ。
だからおれは、誤魔化すことなく、本当のことを言った。
「――夜子さんに聞きたいことがあるんだ」
次の瞬間、おれはその判断が正しかったことを知る。
「記憶喪失になって、その手掛かりでも探しに来たのかい?」
思わず言葉に詰まったが、なんとか気圧されずに返す。
「……その通りだけど、事前に先生から聞いてたりする?」
「いいや。キミが今日会いに来るかもしれないという事以外は、何も」
わかってないねえ、とでも言いたげに指を振る。
「病気や怪我の診断結果は、医療従事者が守るべきプライバシーの中でも最たるものだよ。一介の養護教諭である莉霞先生が、そういった生徒の個人情報を安易に漏洩すると思うかね」
じゃあなんで――そう続けようとして、止める。
……いい加減、おれも学習した。
夜子さんはそういう人だ。
狼狽えてばかりじゃ先に進まない。
いま、おれが言うべき言葉はこうだ。
「どうして分かったの?」
「話が早くて助かるよ」
心なしか、夜子さんの態度が少し柔らかくなった気がした。
「これはメタ的な考え方に基づく推論だね。莉霞先生がキミの来訪をボクに伝えた事、それ自体がヒントであり答えでもあるのだよ」
「メ、メタってなに?」
「……そこからかい?まあいい」
さっそく話の腰を折ってしまったが、気分を損ねた様子はない。
「ここにおけるメタは〈高次元の〉という意味を持つが、辞書通りに読み上げても理解の一助にはならない。では、そうだね……〈言葉の意図〉、とでも考えてくれ。
例えば食事中に誰かがいきなり『醤油』と言う。これはどういう意味になるかね?」
「『そこの醤油を取って』とか?不躾な感じがするけど……」
ちなみにおれは小さい頃、姉貴に同じことを言って「生意気だ」とボコボコにされた。
「そういう事だね。『醤油』はただの単語だが、時と場合に応じて『取って』という意図をも見出だせるわけだ。
他にもリア充が女の子に『今日は良い天気だね』とか『大丈夫かい?』等の鳴き声を掛けたとして、その意図は『付き合いたい』だとか『あわよくば』って寸法さ」
「そういうことではないと思うぞ」
偏見にまみれすぎだろ。
「このようにして言葉と意図は繋がりを持つ。そこでキミの来訪をボクに伝えた莉霞先生の意図を考えると――キミが特別な事情を抱えた人間である、という事が分かるのだよ」
「それはどうしてなんだ?」
「まず、莉霞先生は生徒の個人情報を守るが、それはキミだけではなく勿論ボクにも適応される。そして改めて言うまでも無いが、見ての通りボクは社会不適合者だ。
わざわざ旧校舎に保健室登校している事からも分かるように、基本的にボクはこの学校の誰とも関わりたくない。人間なのに人間嫌いという致命的な病理を患っているのだよ……って何だね、その引きつった表情は?」
「いや、薄々そんな感じはしてたけど……思ってたより大変そうだなーって……」
「そもそも一人称が〈ボク〉の女なんて地雷以外の何者でもないだろう?その大方が創作物に影響を受けた痛い厨二病患者か、アイデンティティのねじ曲がった勘違い系女子ぐらいだね」
「……えーっと、夜子さんはどっち?」
「むむ?キミに教える義理はないが――分からない、とだけ言っておこう」
思わず本音が漏れたが、夜子さんは一切気にしていない。
本音だからセーフなんだろうか?
「ともかくだね。莉霞先生はそんなボクの意思を尊重してくれているからこそ、ボクが旧保健室に居るという件を秘密にしているし、いわんや第三者に鍵を貸し出すなんて有り得ない事態だ」
――夜子ちゃんが別の保健室で過ごしている事は、他の生徒には秘密なのです。
松江先生のメモ書きを思い出す。
〈他の生徒〉という文言には、〈おれ〉も含まれているはずなのに。
「なのに『キミが今日会いに来るかもしれない』と言った。キミの言葉に知らない振りをすればいいのに、或いは鍵を貸さなければいいだけなのに、ボクの秘密とキミの事情を天秤に掛けて、キミへと傾けた。
――だからキミは記憶喪失なのだと分かった。それが答えさ。どうだい?」
「……ん?」
おれはポカンとしてしまった。
「……えっと、なにかがすっ飛んでないか?話の展開が答えに繋がってないというか……」
らしくない、と思ってしまった。
夜子さんの推理には驚かされてばかりだが、答えに至る道筋はすべて提示してくれていた。
おれでもわかるように話してくれたからこそ、納得ができたのに。
そう、納得ができないんだ。
当てずっぽうであるはずがない。
なにか別の――
「――何か別の意図が有るんじゃないか?と、キミは今そう思った筈だ」
ゾワリ、と得体のしれない感触が皮膚の内側を走り抜けた。
「キミは早くもボクの推理能力を信頼してくれた。だからこそ論理的でないボクの推理を聞いて、らしくないと思ったんだ。そして、〈言葉の意図〉を見出そうとした――そうだろう?」
「あ、ああ……」
「長々と話したが、キミの考える通りこれは推理ではない。ただ、こうやって体感してもらうのが手っ取り早いと思ったのでね
――今キミにやらせたものがメタ的な思考法だよ」
離れ業だと思った。
心を読まれた、なんてもんじゃない。
おれがどう考えるのかを予測した上で、思考を誘導されたんだ。
「ボクも同じさ。莉霞先生は信頼の置ける人間だ。だからこそ、らしくない発言であってもその意図がボクの信頼を裏切らないという事だけは分かるのだよ。
とすれば、出てくる答えは一つしかない。キミはボクが嫌うその他大勢とは違う――ボクと同じ傷を持つ人間という事がね」
とても優しい声色だった。
とても嬉しそうな表情だった。
おれにはそれが、どこにでもいる普通の女の子のように見えた。
「夜子さんも、記憶喪失になったことが?」
「ああ、そうだとも!」
声が少し、うわずっていた。
「かつてボクは記憶喪失を引き起こした……それがボクの社会不適合者である理由であり、人間嫌いである所以だよ。ボクは孤独でいたいのさ。
何人たりともこの旧保健室への侵犯は許さない。ましてや会って話すなど論外だ……キミのようなリアルが充実してそうな人種は特にね」
釘を刺すように付け加えてくるが、不思議と嫌味には感じなかった。
「さっきから自虐がすごいけど、言うほどひどくないと思うぞ。こうやって普通に話せてるし」
「……キミの前だからだよ」
しおらしく、ぼそりと言う。
それを恥ずかしく感じたのか、すぐにわざとらしく咳きこんだ。
……気づかないフリをしておこう。
「ともかく、ボクには分かるんだよ。自分の身に何が起きたのか分からず、ただ現実だけが無情に進んでいく――過去に置いてけぼりにされたかのような感覚。他の誰もが気にも留めずにいようとも、他ならぬボクだけはキミの苦しみを理解出来るんだ」
過去に置いてけぼり……そんな夜子さんの言葉が、とてもしっくり来た。
十七年間生きてきて、失った記憶はわずか数時間。
それなのに、頭の中は〈事故〉のことでいっぱいだった。
「そしてそんな苦しみからキミを解放してやれるのも、このボクだけだ。本来ならば門前払いにしている所だが、同じ記憶喪失のよしみとしてキミだけは例外としよう。
……ただし、馴れ合うつもりは毛頭ない。今日だけだ。明日以降はボクの事を忘れろ。二度と旧保健室に来るな」
――キミとボクの縁は今日限りなのだから。
冷たい響きがリフレインする。
「この条件を飲むのなら、キミの問いに一つだけ答えてやる。理解出来たかい?」
「ああ、分かった」
「随分と聞き分けがいいね。よほどボクに興味が無いのかね」
慌てて首を振る。
夜子さんはかけ値なしの美少女だ。
内面に関してはコメントし辛い部分もあるが……おれは確かに、夜子さんの暖かさに触れている。
右足の、冷たい湿布の感触が教えてくれる。
そんな女の子が旧保健室に独りきりで過ごしているなんて、気にならないわけがない。
それでも、
「野次馬みたいに首を突っこまれるのは、嫌だと思ってさ」
夜子さんは、おれとの間に線を引いた。
だったらその一線は、踏み越えるべきではないと思った。
「……ほう、殊勝な心掛けだね。キミのような物分りのいい人間は嫌いではないよ」
反応を見るに、どうやらおれの判断は間違いではなかったらしい。
「ちなみにいいえと答えていたり曖昧な物言いだったら、問答無用で追い出していたところだったよ」
怖っ。
「はてさて、雑談というのは存外退屈しないものだ。ボクとしてはこのまま時間を浪費しても構わないけども――放課後が終わるまで、あと少しだよ」
さっと、空気が切り替わる。
暖かいものから、冷たいそれへと。
「何度も言うが、キミに与えられた機会は一度きりだ。ただしその一度に限り、ボクは何でも応えよう。キミが欠落した記憶の謎に苦しんでいるのなら
――ボクがその謎を紐解いて見せよう」
おれの身にまつわる〈事故〉の謎――放課後の野球部で、練習試合中に引き起こした脳震盪。
夜子さんの謎を解く能力については、いまさら疑うまでもない。
だからこそ、確信を持てる。
胸を焦がすこのざわめきも、深くかき乱されたこの心も、すべて本当のことなのだと。
「じゃあお願いだ。おれに教えてほしい。どうして夜子さんは、〈事故〉当日のおれを見て――」
いまも頭の中をぐるぐる回り続ける、棘のように刺さった言葉を、
吐き出した。
「――“可哀想だね”と、言ったんだ?」
夜子さんは少し間を置いてから、答えた。
「まずは、そうだね。先にキミの言葉を訂正しておくと、あれは〈事故〉ではなく〈事件〉だ」
「……………………は?」
なんてことのないように、さも当たり前のように。
「そして結論から言うと、この〈事件〉の犯人は二人いる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!どういうことなんだそれは!?」
嘘を言っているようには見えない。
だから余計に、意味がわからなかった。
「どういう事かは教えるが、待たない。決して待たないよ。キミが謎解きを望んだんだ。だから、止める事は許されない。
――たとえその真相が、キミの望まないようなモノであろうとも、だ」
そうして夜子さんは、余すことなく〈事件〉の真相を語り尽くして、
――約束通り、おれは旧保健室から立ち去った。
+++++
五月の七時前は、空がまだ明るい。
グラウンドは運動部員の活気で満たされている。
おれはコソコソと野球部のマネージャーにだけ声をかける。
監督を呼び出してもらうためだ。
なにせあと数十分で下校時刻がやってくる。
すると放課後が終わり……今日という日も終わる。
――えっと先生、どういうことです?精密検査でも異常はなにも見つからなかったって……。
――たとえ屋代君に一切の後遺症が無かったとしても、脳震盪による数日間の昏睡と、一過性全健忘の発症がある。これらの症例を鑑みると……少なくとも、三ヶ月間の安静が必要です。
監督と話す内容は二つだ。
一つは、七月末まで部活を休むということ。
そしてもう一つは……〈とある言葉で〉夜子さんの推理を確かめること。
それにしても、不思議な心地だった。
ついさっきまで静かな場所にいたものだから、こうしてガヤガヤと慣れ親しんだグラウンドにいると、まるで別世界から抜け出してきたような気さえした。
軽やかに弾むピアノソナタの旋律と、偉そうな口調、それに反した可愛げな声。
耳に残るそのどちらもが、賑やかなかけ声で上書きされていく。
緩やかに、おぼろげになってゆく。
――アムネシア。ギリシャ語で〈物忘れ〉を意味する言葉だ。
最後に夜子さんが言っていた。
――人は誰しも忘却の川を渡る。ボクとキミは、それが他人より早かっただけの事さ。いずれ今日という日の出来事も、やがて水底の奥深くに沈むだろう。
監督を待ちながらスマホを触る。
通知を切っている間にも、退院祝いのメッセージがたくさん届いていたらしい。
――ふう、久しぶりにお喋りをした。少し疲れたが……少しだけ、楽しかったよ。
その一つ一つに返信しながら――忘れまいとするように記憶を焼き付ける。
タップミスをした。
無視して送信した。
――じゃあね。
おれは忘れたくなくて、あの旧保健室で交わした夜子さんとのやり取りを、一語一句辿ってゆく――
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