第17話 「熊男」とお茶を②
焦ったように見えたその男は、咳払いをした。どうやら立て直したいらしい。
「お茶を淹れますね。しばらくお待ちください」
そう言って、おとなしく座っている男を放置して、七色はカウンターの中でお茶の準備を始めていた。男はそのまま黙って座っている。
カウンターの奥にある壁面にずらりと並ぶ様々な色彩やデザインのカップ&ソーサー。その中にはマグカップやコーヒーカップ、茶碗なども用意されている。
七色はその一角に見慣れない急須と茶碗、茶托一式があるのを見た。
普段あまり使わない日本茶用の一式である。おそらくこれは日本のとある地方の焼き物である。
そうっと手にとって眺めているうちに、年季の入った鉄瓶の湯が沸いていた。
七色はお茶一式のセットと共にあった茶葉を取って、急須の中に少しずつ入れていく。適温のお湯になった頃に急須に鉄瓶の湯を注ぎ、蓋をした。抽出されるまでのほんの短い時間に、七色は日本茶用の茶碗に湯を注ぎ温めていたが、その手順を見つめている存在がすぐ側に居ることには最初から気が付いていた。気が付いてはいたが、半ば気が付かない振りをしつつ、その存在の動きをしっかりと見ながらいた。しかし、ハッキリとはまだ認識はしない状態のままいく。七色は自分がまだ出番ではないことを知っていたから。
ちょうどよい頃合いだと思われた頃にお茶を注ぎ入れ、七色は男の座っているテーブルへとそれを運んだ。カウンターの中のもう一人の存在が後を追うようにゆっくりと動き出す。
お茶を出すと途端に男は口を開いた。
「もっと他に何か無いのかよっ。辛気くせえや」
「…そうでしょうか?」
ひと呼吸おいてからそう言って、七色は男の座っているテーブルの向かい側にもうひとつそっとお茶を置く。
「棒茶です。少し煙いですよ。…ご存じでしたね」
「えっ、……んっ」
男は言葉が見つからないようで、その手は目の前のお茶に伸びていった。
(なんだ…、こいつ…。どこぞの喫茶店のお嬢さんにしか見えない…のに、変なことを言いやがる…)
白地に絵の描かれた茶碗に手を伸ばしながら、男は困った顔をしている。茶碗のあちらこちらを眺め、大きな手で小さな茶碗を触っていた。その後すぐに気が付いたのだろう。見覚えのある茶碗と竹編みの茶托を持ち上げて不思議そうに触っていた。
他に無いのか、と言ったわりには、そのお茶は男にとって懐かしい匂いのするものだった。香ばしい、燻された煙いお茶だ。茶碗を口に運んで男は目を閉じて、まだ少々熱めのお茶をゴクリと飲んだ。その直後に休み無く何度も少しずつを口に運んで、何かを考えているかのようにやっぱり目を閉じていた。
「もう長いこと、飲んでなかった、いつも飲んでいたお茶に、似てる…」
男は口を開いてそう言った。そして大きなため息をついて、再び目を閉じて何かを考えているようだった。
(大丈夫、もう大丈夫ですよ。どうぞ…)
七色はとある存在に向ってそう言いながら、男が座っているテーブルの横にある別のテーブルに移動し、音を立てないように椅子にそうっと座って、その男の座っているテーブルを見ていた。誰かが来るのを、はっきりと姿を現すのを待っているのだ。
ふうぅ… ふうぅ…
遠くの方にあった弱い風の音が、風の音では無かったことがわかる。その音はやがて、ほんの小さくだけれど、人の吹く息の音になって聞こえ始める。
それは少しずつ大きくなって、近くなって、やがてハッキリと聞こえて来た。
「あら、もう、ずいぶんと久しぶりに飲むお茶やねえ」
途端にそんなハッキリとした声がした。
男は、急に飛び込んできた声に驚いて目を開けた。自分の目の前に、いつの間にか向かい合わせに座っている人がいるのだ。その人は茶碗を両手に包むようにして、お茶を少し冷ますように小さく息を吹いていた。
「ば、ばぁちゃん!」
「このお茶、懐かしいわぁ。ふふっ」
いつの間にか男の目の前に座っていたのは、一人のお婆さんだったが、男の声には反応しない。お婆さんは隣のテーブルの七色の方を見ながら話しかけた。
「あなた、淹れてくださった、このお茶。美味しいわねぇ。ちょうどいいわ。あぁ、あんやとあんやと」
背中の真っ直ぐな白髪のそのお婆さんは、7分袖の白地に藤の花のような柄物のブラウス、薄いグレーのパンツというラフな姿で座っていた。七色に向ってお茶のお礼を言いながら男の前に居て、ゆっくりとお茶を楽しんでいるかのようだった。
「いえ、先ほど側で見ていてくださったので、何をどうしたら良いのかちょうどいいいタイミングがわかりました。ひとつひとつをお教えいただき、こちらこそありがとうございます。」
隣のテーブルから七色は軽く頭を下げた。
そう、お茶を淹れる準備の際に、このお婆さんは、カウンターの中で七色の側に立ちながら、軽く頷いたり顎を左右前後に動かしたりして、美味しいお茶が入るタイミングを丁寧に教えてくれていたのだ。
男は呆然としていた。
カウンターの中に居て、お婆さんが後ろで手を組んで、一人の女子の側に立っているという姿が脳裏にありありと浮かんでいた。喋らず顎でくいっくいっと相手に合図をするのがばあさんのいつものやり方だ。
「ばあちゃん、相変わらずやな」
困ったような顔をしながら、男はぶっきらぼうに喋り続けた。
「なんね、急に。それで今日はなんね? 今までずうっと姿も見せんとって」
男は少し怒っているのかもしれない、と七色は思った。
「あぁ? そうかいねぇ。」
逆にお婆さんは、とぼけたような返事をしてくすくすと笑い顔になっていた。
書房の中には香ばしいお茶の香りが広がっていた。
この二人が生きて来た毎日の風景の中にある山が浮かび上がって見えてくるようだった。それは頂上付近に白い雪を乗せて左右に広がっている大きな連山だった。
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