赤いくちびる

昔のはなし

「わしがおまえくらいの歳のころだった。

 田植えの時期でな。


 じいちゃんのばあさんとおふくろが、お昼に精が出るようにとおっきないなり寿司をいくつもこしらえてな。

 それをおまえ、持っていってくれときたんだ。

 忙しく汗水たらして働く、じいさんと親父のところへとな。


 喜んで受けたよ。

 役目を果たせばじいさんから『ようやった』とゴツゴツした手で撫でられて、そっと内緒でお小遣いまでもらえるもんだから。


 うちの田畑でんぱたに行くためには竹やぶを抜けないといけなかっただろう?

 そう。いま取っ払っている最中のあそこだ。

 あそこはなあ、昔から薄暗いし、風が吹けば笹がガサガサと波の音を立てよる。

 子どもにはまあ、昼間でも怖いところだった。


 早く抜けようと速足にもなる。

 うつむいてな、弁当はしっかり抱えて。


 するとな、向こうから白いものがくる。


 なんだと思う?


 女の人だ。


 ほっとしたよ。

 眩しいくらいに白い人だったな、今でもよく覚えているよ。

 ドレスのような、ワンピースっつったか? 田舎には似つかわしくない服を着ててな。


 向こうに金持ちが別荘建ててる区画あるだろう?

 あのころはまだそんなもんなかったが、それでも時々都会から保養だとかで来よるもんもおった。そのお嬢さんだと思ったよ。


 長い黒髪、でっかい麦わら帽子かぶってな。

 ドキドキしたよ、一丁前いっちょまえにな。

 きれいな女の人だもんな。


 挨拶どうしよう? と、思っていても、田舎の子どもなもんだから恥ずかしさが勝ってなんもいえねえ。うつむいたまま、無言ですれ違っただけだ。


 だが、振り向いた。


 気になったんだな、やっぱり。

 すれ違いざま、かすかに変な臭いもしたもんで。


 あ!


 驚いた。


 向こうも立ち止まり振り返っていた。

 真っ赤なくちびるだった。

 まるで子どもの絵のように赤い口紅をくちびるに塗りたくっていたんだ。

 くちびるだけ浮き上がっているように、一瞬見えた。


 違うんだ。

 そうじゃなかった。

 それだけだったんだ。


 大きな赤い口だけだ。

 目も、鼻もない。

 さっと風が吹いて、長い黒髪が揺れた。

 麦わら帽子が飛ばないように、手で抑えた。

 顔ははっきり見えたのに、顔を形作るものが赤いくちびる以外には何もない。


 ニイッと笑ったんだ、わしを見て。


 わしは一瞬、気を失ったらしい。

 気付いたときにはそのお化けはおらなんだ。


 わしは走った。


 ちょうど一服していた親父の胸に飛び込んだ。

 わしは一生懸命、今そこで遭ったことを話した。

 親父は全然信じてくれなかった。

 バカなことを。怖い怖いと思うからだと、むしろ怒りやがる。

 腹が立って、ムキになって、本当なんだ、本当に見たんだと、泣き声で叫んだもんだ。


 じいさんはな、でも『弁当くれ』と穏やかに。


 むくれたもんだが、なんか風呂敷が軽い。

 慌てて確認したら、じいさんと親父、それにわしの分の弁当、三つともから一個ずつお稲荷さんがなくなっていた。


『おまえ、つまみ食いしたな? その言い訳だったか、お化けは』


 親父は呆れた顔で笑いやがるから必死でそんなもんしないと訴えた。


 じいさんまでニコニコしていた。


『あそこで何かと出会っても振り向かんことだ。わしも、わしのじいさんから気を付けろといわれたよ』


 その口ぶりは懐かしいものに再会したようだったなあ。


 昔の話だ。


 あの竹やぶも、なくなるとなると寂しいもんだな」

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