十話 違和感


 天音さんと出会い、三週間が経った。


 彼女との生活は意外なほど和やかに過ぎている。

 何事もなく。穏やかに。

 平和な日々を送っている。


 その、はずだ。


 ガチャリ。


「ただいま帰りました」


「おかえりなさいなのじゃ、孝仁っ。今日もよく頑張ったのぅ」


 明るい笑顔で、天音さんは己を出迎える。

 小さな狐の刺繍がされたエプロンが似合っていた。

 温かな光。

 心が安らぐのを感じる。


「……む。この香りは、魚ですか」

「おお、そうなのじゃ! 今日は鯖が安くてな、つい買ってしもうたわ」

「そうですか」


 そう言って、彼女はからからと笑う。

 此方としては頭が下がる思いだ。


 天音さんには、御飯を作ってもらっている。

 何もしないのは不平等だからと。

 彼女は初日から己に朝食を作ってくれた。

 有難い、と思う。

 同時に申し訳ない、とも。


「……あの、天音さ」

「ほらほら、何をしておる。料理が冷めてしまうぞ? ほれ。早う、こっちに来い」

「……はい」


 無理はなさらず。

 己に手料理など、分不相応です。

 このようなことはしなくても。


 その言葉をいつも吐き出せないでいる。

 喉元までせり上がったそれを、止められている。

 他ならぬ彼女の手によって。

 遮られている。

 まるで、聞くことを拒んでいるような。


 ……頭が少し、痛む。

  

「いただき、ます」

「うむ。いっぱい食べるのじゃぞ」


 広い部屋にあるちゃぶ台の前に座って。

 両手を合わせ感謝する。

 眼前には古典的な料理が並んでいた。

 鯖の塩焼き。味噌汁。白米。沢庵。

 日本の伝統を感じさせる和食。

 

 箸で鯖の身を解す。

 焼きたてなのか、白い湯気が立った。

 随分とよいタイミングで帰ってきたらしい。

 痛む頭を無視しつつ、一つ摘まんで口に入れる。


「……大変、美味しいです」

「ほ、本当かっ?」

「はい。よく塩が馴染んでいますね。焼き加減も絶妙です」

「にゅへ、えへへへ。やったぁ」


 愛らしく彼女は喜ぶ。

 両手を頬にやり、くねくねと体を捩っている。

 本当に、愛らしかった。

 彼女の喜ぶ姿を見れて、己は幸せだった。


 だが、分からない。

 

 分からないんだ。

 何故、貴女は喜んでくれる。

 己なんぞの言葉で。

 どうしてそんな、幸せそうに。

 やめてくれ。己は罪人だ。

 決して、幸福を覚えてはいけない。


「孝仁」

「……っ。はい、何でしょうか」

 

 名を呼ばれる。

 朗らかな顔で、優しく。

 藍色の瞳で覗かれる。


「仕事はどうじゃ。上手くいっとるのか?」


 しご、と?


 ああ、そうか。仕事、か。何故。

 そうだな。ええと。急に。

 最近は。そんなことを。

 

「は、い。最近は、帰りも早く。問題、ありません」

「そうかそうか。それは、よかったのじゃ」


 安心したように彼女が笑う。

 お気に召す返答だったようだ。胸を心の内で撫で、安堵する。

 

 ……はて。

 己は一体、何を考えていたのだったか。

 とても重要な。

 酷く、根幹に関わることだった、気が。


 ずいっ。


 器が目の前に差し出される。


「ほれ、味噌汁も飲んでみぃ。お前さんは、合わせ味噌が好きらしいからの。作ってみたのじゃ」

「へ? は、はい……ありがとう、ございます」


 器を受け取り、感謝する。

 確かに、己の好みではあるが。


 いつ、言ったのだろう。


 疑問に思いつつも、汁を啜る。


「……! 美味しい、です。それに……」

「……」


 懐かしい。

 涙が出るほどに、ああ。

 この味。この香り。この器。

 嘗ての幸せが全てここにある。薄暗い部屋。優しい手の感触。

 ああ、ああ。

 ずっと、あのままでいられたなら……。


 どれほど。


「……それに、何じゃ?」

「っ、? すみ、ません、はい。大したことでは。その、お気になさらず」


 不意に、現実が意識を呼び覚ます。

 しまった。

 天音さんの目の前で、何たる無礼を。恥ずかしい。厭わしい。

 彼女を置いて、他のことを考えるなど。

 失礼の極みだ。申し訳ない。

 早く別の話題に。


「にゅふふ、じゃがお前さんよ。そんなに慌てられては、寧ろ気になってしまうぞ?」

「あ、いえ。本当に、大したことはないのです。ただ、少し。懐かしいと感じただけで」

「ほう、懐かしいか」

「……はい」

「ほう、ほう。にゅふふふふふ、なるほど、のぅ」


 すっ、と目を細められる。

 笑っているような。観察するような。そんな目つき。

 疑念を覚える。

 懐かしいという言葉の、何に彼女は納得している。何に笑みを浮かべている。

 そこまで興味を引くことだったろうか。

 分からない。

 分から。


「母を、思い出したか」

「ぁ」


 駄目だ。

 意識なき警告が脳裏を掠める。


 考えるな。

 奈落に潜む理性が囁く。


 それは。

 思い出しては。



『ごめんなさい……孝仁』



 扉が閉まっていく。

 太陽は月に追い出され沈んでいる。

 明かりはない。

 だが己は起きていた。

 見つめていた。


 消えていく。


 あの人が。暗闇に。


 己の、大切な家族が。


 私を置いて。どこかに。


 ……。


 どうして。



 ぺちん!



「なーんじゃ! お前さんも可愛いとこがあるではないか!」


「……ぇ、ぁ?」


 いつの間に隣へ移動したのか。

 ぺちぺちと、天音さんが己の肩を叩く。

 嬉しそうだ。

 楽し気に笑っている。優しい目で見つめられる。


 本当に、それだけか?


「いやぁ、すまんすまん。ちと急かし過ぎたようじゃ。許しておくれ」

「天……音、さん?」


 髪を撫でられる。

 幼子をあやすが如く。ゆっくり、ゆっくり。

 丁寧に撫でさすられる。


 理解が出来なかった。

 彼女は何を言っている。何故、謝罪をしている。

 急かし過ぎたとはどういう意味だ。何かを期待しているのか。

 こんな塵にも劣る、己に。

 であれば、それは一体……。 


「ふふ、にゅふふふふ。しかし、選りによってなぁ。くふふ」

「……っ」


 ……否、今はそんなことを考えている場合ではない。


 この状況は不味かった。

 彼女との距離は三寸もなく、少し動けば体が触れる。

 無論、許されるはずがない。

 一刻も早く退かねばならぬ。

 彼女の美しい手を、これ以上汚してはならぬ。

 だのに。


「まさか、あんな女を思い出すとは。くくく、はは」

「……っ、ぅ」

「ああ全く、いじらしいのぅ、愛いのぅ、孝仁」

「天音、さ……っ」

「よぅし、よし。もう、大丈夫じゃ。全てを忘れて、ずぅっと、ここに居ればよいからな」


 動けない。

 彼女の甘い声色が己を縛る。小さな手が安寧を運ぶ。

 撫でられる度、耳元で囁かれる度。

 心が停滞を望んでしまう。

 この安らぎを享受したいと、願ってしまう。

 何もかもを、忘れて。



 そんなこと、許されるわけがないのにな。



 この、人殺しが。



「っ、失礼! 頭を冷やしてきます!」

「ぁ……」


 半ば逃げるように立ち上がり、シャワー室へ駆け込む。


 部屋を出る瞬間、彼女が何かを呟いた気がした。

 


「んむぅ、中々手強いのぅ……」














 シャアアアアアアアア。


「……」


 項垂れて、排水溝へ流れていく水を眺めている。

 無感情に。機械的に。

 頭を冷やすという作業を行っている。


 されど、一向に心は落ち着かず。

 それどころか、冷静になればなるほど騒めくのだ。

 心が。


 何かがおかしいと。


 このままではいけないと。


 強く、強く叫ぶのだ。


「……は」


 馬鹿馬鹿しい。

 おかしいとは何だ。よもや、この生活が? 

 どこに不可解な点がある。

 この穏やかな暮らしの、どこに。

 大体にして、これを疑うということは、彼女を疑うということだ。

 それこそありえない。

 彼女が己に何かをするなど。

 そんなこと。

 彼女は。


 天音さんは。


「……」



 シャアアアアアアアア。



「……」


 ……天音さんは。

 

 どうして食事中、ずっと己を見つめるのだろう。

 

 瞬きもせず、自身の御飯を口に入れるときすら。

 ただ、じっと見つめる。

 勘違いではないはずだ。目が合えば、にっこりと微笑んでくれるから。

 

 それだけではない。

 食事中以外でも、彼女の視線の先は此方に向いている。

 以前はそうでなかった。

 暇な時間はゲームをしたり、読書をしたりしていた、と思う。

 そうだった、はずである。

 だのに今では、彼女が娯楽品を手にすることは無くなってしまった。

 

 代わりに、己を見るのだ。

 にこにこと、本当に嬉しそうに。

 尻尾をふぁさふぁさと揺らしながら綻ぶのだ。

 花の咲くような笑顔で。


 それは、異常である。

 

「いつ、だ……?」

 

 冷水を頭から被りつつ、呟く。

 

 いつからだ。

 彼女はいつから、己を見るようになった。その理由は何だ。

 否、否。違う。

 それよりも、もっと疑うべきことは。


「何故、私は疑問に思わなかった」


 どくん。


 水の冷たさとは別に、頭の奥が震えた。

 初めてホラー映画を見たあの感覚。

 じわりじわりと、寒いものが押し寄せてくる。


 己は今、何を考えているのだ。

 果たしてそれは、考えるべきものなのか。

 疑問に思えないのは、どうでもよい証なのでは。そんなわけがない。

 

 考えろ、考えろ。

 何か取り返しのつかないことをしてはいないか。

 或いは、されてはいないか。

 疑うべきではない。

 あの御方を、疑ってなどいけない。

 だが、それでも。


「天音、さん……貴女は、一体」



 ガラガラ。



「ん、しょ。入るぞー、孝仁」


「……は?」


 思考が、停止する。


 視界から入る情報、耳に伝わる振動、微かな空気の揺れ。それら全てに理解が遅れる。 

 微かに絞り出せたのは、言葉ならぬ譫言。


「な、ぁ……っ」

「にゅへへ」


 悪戯っ子のような笑みを見せ。

 天音さんが口を開く。


「お背中お流しします、のじゃ」


 深い藍色の瞳が、己を射抜いていた。

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