七話 儂の稚拙 貴方の不器用


 夢を見る。

 遥か昔、消えかかって薄れた残滓を回帰する。


 自分は山を駆けていた。

 脇目も振らず、全速力で四肢を動かす。

 木が、岩が、土が過ぎていく。

 疲労で今にも倒れそうだ。だが止まるわけにはいかない。

 止まったら最後、自分は殺される。

 あの二足歩行の動物に。


『囲め囲め! おい、そっちに行ったぞ!』

『くそっ、何てすばしっこい狐だ! 矢が当たらねぇ!』

『なぁ見たかよあの毛並。ひひひっ。こりゃぁ、一年は生活に困らんな』

『誰でもいいから早く捕まえろ! 逃げられるぞ!』


『ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……!』


 怖い。怖い。怖い。

 一心不乱に自分を殺そうとするあの生き物が怖い。

 すれすれで飛んでくる棒も怖い。

 吐き出された怒号も。正気を失った愉悦も。

 何もかもが。


 怖い。


 走り続ける。

 腕を、足を、必死に動かして逃げ続ける。

 気付けば景色は変わっていた。

 土の色が薄まり、岩は減り、木は増える。声が遠ざかる。

 だがまだだ。

 まだ何かいる。止まるな、走れ。

 二本の足で走り続ける。


『逃げるな! この恥さらしがっ、潔く死ね!』

『人間を恐れるなど、何たることかっ』

『あの毛並……いや、まさかな』

『妖狐の面汚しめ! その首、百度刎ねようと勘弁ならぬ!』


『はっ、はっ、はっ、はっ……!』


 何で。何で。何で。

 何であんなに怒ってるの?

 人間が怖いって、そんなに変なこと?

 殺されなきゃいけないこと?

 大体、恥さらしとか面汚しとか言われても困るよ。今日初めて自分以外の同族に会ったのに。

 酷いよ。

 ちょっとだけ、嬉しかったのに。


 びゅん、と氷柱が飛んでくる。

 ごう、と火炎が傍を過ぎる。

 ぴしゃん、と雷がすぐ横に落ちる。


『ひっ、ぃ……! はぁ、はぁっ!』


 怖い。痛い。助けてほしい。

 涙が滲む。

 呼吸が切れる。限界が近い。

 悪意はすぐそこまで迫っている。

 悲鳴にも似た叫び声を上げた。


 誰か。誰か。

 どうして、何で。

 助けて。ごめんなさい。

 許して。迷惑なんてかけてない。

 何が悪かったの? 平穏に暮らしたい。

 怖いよ。こっち来ないで。

 助けてよ。

 ねえ。

 誰か。


 誰か。


 天音を。


『ぁ……』


 手を掴まれた。

 追いつかれてしまった。

 けれど恐怖はない。代わりに湧いたのは疑問。


 この手は、誰の?


 少なくとも、彼等のものでないことは分かる。

 だって、こんなにも温かい。

 こんなにも柔らかい。


 そっと、両手で包むように。

 繊細な壊れ物を扱うよりも、なお優しく。

 天音の手を掴んでいるこの人は誰だろう。

 ……見てみたいな。

 想いのままに、振り向いた。


『……』

『は、ぁっ、はぁっ、はぁ』


 後ろには息を切らした男がいた。


 俯きながら汗を流し、髪は乱れ、荒い呼吸が疲弊を露わにしている。

 その男は自分が見られているのに気が付いたのか、遅れて顔を上げた。

 そして、笑う。

 ぎこちない笑みに見えた。

 作り笑いという存在を昨日知ったばかりのような。或いは知らなかったような。

 無理やり頬を釣り上げた、何とも不格好な笑顔。


 しかし不快ではなかった。

 不思議とこの男の笑みは、天音を安心させた。

 大丈夫。何の心配ない。

 そう言ってくれてる気がして。


『貴方は……』

『はぁ、はぁ。……?』


 優しい人なのだろう。

 自己を顧みず、誰かを助けられる人なのだろう。

 他人の幸せを願える人なのだろう。


 だからこそ解せない。

 どうして貴方は、そんな顔をする。

 そんな悲痛な。

 苦しそうな。

 消えたそうな。

 人を幸せにする者が、何故。


 彼の笑顔の裏には、ぎちぎちと何かが蠢いている。

 黒く深い、奈落のような何かが。

 天音には見えた。

 

『どうして、そんなに』

『……』


 どうして。どうして。

 先程と同じ単語。異なるは向ける想い。

 天音には理解出来なかった。

 故に問う。


 貴方みたいな優しい人が。

 どうして。

 そこまで自分自身を。


『――?』

『……』


 声に出せたかは分からない。

 ただ彼は微笑んだ。

 やがて、口をゆっくりと開き――














「朝ですよ、天音さん。起きてください」

「んん……んー」


 寝返りを打つ。

 柔らかな枕の感触がした。擽るお日様の香り。

 思考は緩慢。

 ぽつりぽつりと、言葉が浮かぶ。


 夢を見ていた気がする。

 思い出せない。

 怖い夢?

 そうでもなかったような。

 自分を呼ぶ声がした。

 誰の声だろう。

 天音って、呼んでくれた。嬉しい。

 ありがとう。


 孝仁。


 意識が覚醒していく。

 目を開けた。

 いつもの布団と、いつもの枕。

 違うのは場所と、彼の存在。

 思い出した。

 天音は約束をしたのだった。


 体を起こし、挨拶をする。


「んんぅ……おはよーなのじゃ、孝仁。ふわぁ」

「おはようございます。まだ眠たいのであれば、どうか無理をなさらず」

「んーん。お見送りすると、言ったからのぅ。寝るわけにはいかんよ……ふわぁ~」

「……っ」


 孝仁との約束。

 それは彼のお世話をすることだ。

 食事から洗濯、掃除。送迎も勿論含まれている。

 衣食住の助けを完璧にこなすだけでなく、心も支える。

 それが天音の役割だ。

 どれ、早速朝食でも作ってやろう。

 そう思って、いたのだが。


「ここに今日の朝食と昼食があります。非常に簡素ではありますが、今日はこれでどうか御堪忍を」


 ぽすん、と目の前に袋を置かれて。

 これが今日の食事だと言われて。まるで天音が、必要ないと言われた気がして。

 怖くて、不安になって、泣きそうになって。

 だからつい、怒鳴ってしまった。

 彼が頭を下げて謝る。胸がずきりと痛む。

 そんなつもりでは。いやでも、孝仁だって。

 感情がぐちゃぐちゃになったままで理由を尋ねる。


「昨夜、家事全般が出来ぬと仰っていたので、そうだとばかり」

「……」


 ……あー。

 言ったかな。言ったかもしれない。

 家事、やったことないって。

 昨夜の記憶は曖昧だ。でも何となーく、言ったような、気が。


「本当に、愚かでした。すみません」

「あ、いや、その、別に。全然、うむ。全く、大丈夫じゃ」


 あああああああ。

 やってしまった。やってしまった。やってしまった。

 謝った方がいいかな。でも忘れてた事ばれちゃう。

 どうしよう。


「許されぬことをいたしました」

「いやもう全然! ぜーんぜんじゃ! ぎゃ、逆に儂も悪かったかなぁ、なんて……」

「ありえません。天音さんが悪いなど、全ては勘違いした自分に責任が」


 そんなわけない。違うよ孝仁。

 全部天音が悪いのに。

 馬鹿な天音のせいなのに。

 そう言いたかった。言えなかった。

 怖くて。失望されたくなくて。

 やっぱり天音は臆病な狐のままだった。

 

「っ!? お待ちを、直ぐに薬を買ってきます!」

「そうではないぃ……! ちょ、待て!」


 まあ、言う羽目にはなったのだが。



 それから少しして、孝仁と一緒に朝食を取ることにした。

 朝から大声を出して疲れたのもある。だが腹が減ったわけではない。

 そも、この体に食物は不要だ。お揚げとかは、別だけれど。


 ……お揚げ、と言えば。

 昨夜食べたうどん。あれは美味しかった。 

 贔屓目なしに、今までで一番美味しいと感じた。

 知らなかったのだ。誰かと食べるご飯が、あんなに幸せだなんて。

 無知だったのだ。みっともなく麺を啜る自分を。

 そっと、優しく見守られて。

 それが何だか、むず痒いような、気恥ずかしいような。

 とても、嬉しいような。


 天音はもう一度あの気持ちを確かめたい。

 分からないことは怖いことだから。これは自分にとって、必要な行為だから。

 だからもう一度、孝仁とご飯を。


「……」

「……なあ、孝仁よ」

「……ん。はい、何でしょう」


 ちゃんと飲み込んでから答えてくれる。優しいな。

 そうではない。

 ちゃぶ台にあるもの指して問うた。


「これは何じゃ?」

「ローストビーフ丼ですね」


 なるほど簡潔な回答である。

 ろーすとびーふ丼、か。

 指を孝仁の方へ向け、再度問う。


「……なら、それは?」

「……? 惣菜パンです」


 惣菜ぱん。

 流石の天音でも気付く。

 これは絶対高いやつで、あれはめっちゃ安いやつ、と。

 聞けば、やっぱりその通りだった。

 百と三千。差は二千九百。

 視線を落とす。これが三千円の食べ物。

 どうも納得がいかない。

 確かに美味しいのだろう。匂いは悪くないし、量もある。

 容器に貼ってあるシールには一番人気と書かれてあった。周りの評価も上々らしい。


 それでも、天音は孝仁と同じものが食べたかった。

 たとえ安くとも。一緒に食べて、共有して、笑い合いたかった。

 彼が自分を敬ってくれているのは分かる。それは素直に嬉しい。

 けれど何だか、隔たりをというか、何というか。

 突き放された感じがして。

 少し、怖くなった。

 

「申し訳ありません。駅に遅れます故、お話の続きは後ほど」

「にゅ? あっ、待っ」


 更には先に食べ終わられてしまって。まだ一口も食べていないのに。

 もう散々である。

 せめて見送りだけはと、慌てて立ち上がり。

 逸る胸の鼓動を押さえつけ、言った。


「いってらっしゃい、なのじゃ」

「……はい。行ってきます」


 バタン。


 の見送りは、何とか上手く行えた。

 閉まった扉を数秒見つめ、部屋に戻る。

 ちゃぶ台の上には、すれ違いの原因となった憎き直方体が傲慢にも座っている。

 おのれ、これで不味かったら承知せぬぞ。

 座布団に座り、肉を睨む。

 暫くして箸で摘み、訝しげに口へ入れた。


「む……! にゅ、ぅぅ……」

 

 ……悔しいが、ろーすとびーふ丼は美味かった。














 昼頃。太陽が昇り切った時間にて。

 天音は暇を持て余していた。


「あーあ、早く帰って来んかのぅ」


 これで何度目の台詞だろうか。

 言っても仕方がないことばかり口にしている。

 それぐらいやることがなかった。

 もう全て、してしまった。


「あー、暇じゃー。孝仁ー」


 彼の名を呼ぶ。返事は来ない。寂しい。

 酷く退屈だ。

 大体、この部屋も悪い。何も置いてなさすぎやしないか。

 これでは探索の甲斐もない。

 必要最低限の家具。数枚の服。狭い間取り。壊れかけの家電。罅の入った壁。

 あるのはたったのこれだ、け……。


 あれ?

 最初、彼を待っていたときは緊張のし過ぎで気付かなかったが。


 この部屋、もしかして結構限界?


「ようこれで生活できるのぅ。床とかこれ、軋んどるぞ」

 

 軽く踏むたびに、ぎしぎしと音が鳴る。

 天音が重たいわけではない。床が脆弱なのだ。絶対そうだ。その、はずだ

 言い訳をするように、札を取り出し。

 願う。


 床を補強せよ。


 一瞬、床が強く発光する。次いで、札が焼失した。

 先ほどよりも力を込めて踏んでみた。音は、しない。

 天音は満足そうに頷いた。


 この札は願いの札。

 天音が作成した、反則級の符の一つである。 

 効力は単純。願ったことを現実にする。ただそれだけ。

 無論何でも叶うわけではない。

 ないが、大抵のことは叶う。お金が欲しい、病気を治したい、長生きしたい。

 普遍的な願いがこの紙一枚で成就する。

 

 忘れてはいけない。

 彼女は天狐。

 神獣の名を与えられた、正しく人外なのである。


 バキ!


「にゅわあああ!? 床が!? 強く踏みすぎたか!?」


 全人類が欲しがるであろう札を、もう一枚取り出す。

 これは消耗品だ。

 一度使えば燃えて尽きてしまう、使い切りのブラックカード。

 それを惜しむ様子もなく天音は使う。


「ふぅ……これでよし」


 安心した顔で息をつく。

 ふと、周りを見渡した。限界を感じる部屋の惨憺を見て。

 小さく呟いた。


「……ついでに、色々と直しとくかの」


 適当に鷲掴み、引き抜く。

 ちなみに、彼女の懐では異空間が存在している。これもまた彼女が作成した札の力である。

 そこでは欲しいものが手に届く。


 取り出したのは先刻と同じ願いの札。

 十数枚はあるだろうか。

 天音は願う。


 何か、適当にいい感じで頼む。


 部屋全体が光った。

 当然、札も燃え尽きる。火の粉がはらはらと落ちる。

 幻想的な光景。されど、天音の表情に変化はない。

 冷静に手を見つめる。


 一度でこんなに沢山使ったのは初めてだった。掌が少しだけ熱い。改良の余地ありか。


 やがて光が収まり、顔を上げた。


「おー、ぴかぴかじゃ」


 どこか無感動に、見たままを言う。

 やはり、考えずにはいられない。

 これが彼と。孝仁と一緒にやれたなら、もっと楽しかったろうに。

 もしかしたら褒めてくれたかもしれんのに。

 燃えた札にびっくりして、心配とか、してくれたかもなのに。

 つまらない。

 ああ、孝仁。

 孝仁。


「あぁー、孝仁ぉ。早く帰ってきておくれぇー」


 こうして初めに戻る。

 時刻は漸く一時を過ぎた頃。

 昼はまだまだ続く。



 余談だが、昼ご飯はうな重だった。

 本当に、全くもって悔しいが。

 美味かった。














 こつ、こつ。


「……!」


 飛び起きる。

 彼が帰ってきた。

 天音の獣耳がぴこぴこ揺れる。

 約五百メートル離れた距離からでも、彼の足音は聞こえていた。

 ちょっと重たそう。何かを持っているやも。買い物の帰りだろうか。

 そんな思考をしつつ、玄関に向かう。


 早いのは分かっている。

 足音の間隔から察するに、十五分はかかるはず。

 だのに、天音は玄関に立っていた。

 そわそわする。落ち着かない。

 前にも、この気持ちを感じた気がする。


 前髪を弄ってみたり、着物の帯を巻き直してみたり。

 ちょっと近すぎるかと、玄関から遠ざかって。

 これでは遠いと、また近づいて。


 そうこうしている内に彼が来てしまった。

 謎に姿勢を正す。

 じっと、扉を見つめる。

 まだか。まだか。

 早く。早く。


 ガチャ。


「……ただいま、帰りました」


 疲れた様子の彼。

 髪が少し乱れた彼。

 眩しそうに目を細める彼。

 帰ってきた。

 孝仁が帰ってきた。

 帰ってきてくれた。


 天音は満面の笑みで、彼の元へ駆ける。

 そして。


「おかえりなさいなのじゃ! 遅くまでよう頑張ったのぅ」


 おかえりなさい。


 ああ、よかった。

 今回は、ちゃんと言えた。

 

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