四話 私の恥 貴女の約束


 ピピピ、ピピピ。


 無機質な機械音が瞼をこじ開ける。

 枕元に置いた携帯を手探りで探し、触れた。

 遅れて音が消失する。

 もう朝が来たのか。

 頭が重い。目の奥が痛む。特に夜更かしをした覚えはないのだが。

 溜息を吐く。

 早く出勤の支度をせねばと、立ち上がろうとして。 


「……は、ぁ?」


「すぴー、すぴー」


 誰かがいる。寝ている。

 少女だった。布団に包まって、穏やかそうにすやすやと。

 家の布団ではない。あれほど綺麗な布団は持っていなかった。

 極めて不可解な光景。


 一体、どういう……いや。

 そうだ、思い出してきた。

 ぼやけた頭が次第に覚めてくる。


 己は昨日、この少女と出会った。

 人ならざる、人外の少女と。

 それだけではない。

 彼女の話を聞き、一緒に食事を取りもした。

 色々な言葉を交わした。

 そして。


「……ああ」


 寝室を、同じとしたのだった。


 見当違いな罪悪感が襲う。

 その話は散々したはずだ。議論の末、納得もしたはずだ。

 だからこの感情は、彼女にとって失礼だ。

 そう分かってはいるのだが。

 胸を押さえ、よろよろと立ち上がる。

 ちゃぶ台に置いたままのペットボトルを取り、蓋を回して飲み下す。

 元々半分程度だった中身が完全になくなったのを認めて。

 そこで漸く、一息をつく。


「ふぅぅ……」

 

 ……一先ず、出勤の支度をするとしよう。

 悲しいかな、非現実が家を訪ねて来ても、この三年で身についた習慣に揺らぎはない。

 水しか出ない洗面台で顔を洗い、髭を剃る。

 服をスーツに着替え、洗濯籠に寝間着を入れる。

 髪を整えつつ、朝ご飯の用意をする。と言っても、コンビニで買った総菜パンしかないが。

 後は食事を取り、鞄の中身をもう一度確認して準備完了だ。

 今度こそ戸締りには気を付けて。


 ただ、その前に。

 

「朝ですよ、。起きてください」

「んん……んー」


 彼女の名を呼ぶ。

 昨夜、寝る前に教えてもらった御名前を。

 最大限の敬意と感謝を以って呼ぶ。

 天音さん。あまねさん。

 美しい響きを持つ名だった。体を表す、よい名だと思った。

 やがて身を捩り、寝ぼけ眼のまま彼女は答えた。


「んんぅ……おはよーなのじゃ、孝仁。ふわぁ」

「おはようございます。まだ眠たいのであれば、どうか無理をなさらず」

「んーん。お見送りすると、言ったからのぅ。寝るわけにはいかんよ……ふわぁ~」

「……っ」


 起き上がり、小さく口を開け欠伸をする。

 とても愛らしい姿だが、如何せん恰好がよろしくなかった。

 彼女は今、昨夜見た着物を召し替え、寝間着姿となっている。

 それが通常なら問題はなかった。

 いや別に、異常でもないのだが。

 現在着衣しているのは旅館の浴衣のようなもので。

 しかもどうやら、寝相もよい方でもなく。

 必然、着方は崩れ。

 だから、今の彼女の姿は。

 

「……どうか、お召し物をお直しください」

「うにゅ? おお、すまんすまん。いつも一人じゃから失念しておったわ。朝から貧相なものを見せて悪かったのぅ」

「いえ、そのような……っ。あ、いえ、決してじっくり見たわけではなく。ですから、その」

「にゅははは。別にそんな慌てんでもよい。気遣ってくれたのは分かる」

「……ありがとうございます」


 本当に有難い。

 心よりそう思える。

 己の不出来を、気遣いと評してくれる彼女に。その寛大さに、思慮深さに。

 ただただ、己は感謝した。

 

「んしょ、んしょ。……よし。それで、もう行くのか?」

「朝食を済ませば、すぐに。ですがその前に、色々と説明をさせていただきたく」

「説明? 何のじゃ?」

「天音さんの食事と、日中の対応についてです。昨夜にも言いましたが、一応ということで」

「あー、うむ。あれか、うむ。……も、勿論覚えとるぞ?」


 やはり覚えていないらしい。

 かなり眠たげな様子だったので、無理もないか。

 彼女に向き直り、口を動かす。

 

「では確認を兼ねて、もう一度」

「おう、何でもばっちこいじゃ!」

「はい。まず第一として、当たり前ですが、天音さんが何かをする必要はありません」

「……ふにゅ?」

「ここに今日の朝食と昼食があります。非常に簡素ではありますが、今日はこれでどうか御堪忍を」

「え、いや、儂」

「それと、もしインターホンが鳴った場合は決して扉を開けてはなりません。これさえ守っていただければ、あとはお好きなように……」

「いや儂が来た意味ぃ!!」


 天音さんが叫ぶ。

 艶やかな銀色の耳と尾が逆立った。

 己は自身の失態を悟った。


「儂、お前さんの世話をするために来たんじゃが!? これではただのにぃとなんじゃが!?」

「しかし」

「ええい、何じゃ! 何か申し開きでもあるのか!? 儂をにぃと扱いする、正当な理由が!」

「大変申し訳なく思います」


 深く頭を下げる。

 理由とも言えぬ、愚かな言い訳を口にした。


「昨夜、家事全般が出来ぬと仰っていたので、そうだとばかり」

「……」


 迂闊だった。

 少し考えれば、彼女が寝ぼけて言ったという可能性も大いにあった。

 それを勝手に決めつけて、独りよがりに気遣った気になって。

 また勘違いをして、彼女を傷つけて。

 恥知らずとは正に己のことだった。

 

「本当に、愚かでした。すみません」

「あ、いや、その、別に。全然、うむ。全く、大丈夫じゃ」

「許されぬことをいたしました」

「いやもう全然! ぜーんぜんじゃ! ぎゃ、逆に儂も悪かったかなぁ、なんて……」

「ありえません。天音さんが悪いなど、全ては勘違いした自分に責任が」

「ぐおおおお……! む、胸が痛いぃ……!」

「っ!? お待ちを、直ぐに薬を買ってきます!」

「そうではないぃ……! ちょ、待て!」


 薬を買いに行こうとする己と、それを止める彼女。

 一進一退の攻防。

 勝負を制したのは彼女だった。

 あと数秒、彼女が己の誤解を解くのが遅ければ、今頃町中の病院を巡っていたことだろう。

 そもそも人外である彼女に人間用の薬が効くとも限らず。

 またしても己の愚行を止めてくれた彼女には、もはや頭が上がらない。

 少しでも恩を返せたらいいのだが。

 

 さて、そんなやり取りの後。

 出勤の時間も間近となり、急いで朝食を取ろうとしたところ。


「儂も一緒に食べるのじゃ。何かもうお腹すいたしのぅ」


 と、疲れた顔で言われたので。

 現在己と天音さんは、古びたちゃぶ台を挟み、向かい合いながら朝食を取っていた。

 彼女と食事をするのはこれで二度目。

 拭い切れぬ場違い感を覚えながら、パンを口に入れた。


「……」

「……なあ、孝仁よ」

「……ん。はい、何でしょう」

「これは何じゃ?」

「ローストビーフ丼ですね」

「……なら、それは?」

「……? 惣菜パンです」

「食べているものに大きな隔たりを感じるのじゃが」


 はて、そうだろうか。


「そうでしょうか」

「……それ、いくらするんじゃ」

「大体百円ですね」

「……じゃあ、これは」

「確か、三千円ほどでした」

「やっぱおかしいじゃろ」

「……?」


 首を傾げる。

 いまいち彼女の言いたいことが分からない。

 二千円程度ではやはり不相応であったか。

 それとも味が気に食わないか。

 何にせよ、謝るべきだ。


「すみません」

「せ、責めとるわけではない。ただ儂に気を遣って、こんな高いものを買わんでも」

「高くなどありません。寧ろ、安すぎるほどです」


 昨晩、食事を終えた己はスーパーに直行した。

 最近の店は二十四時間営業なので有難い。

 そこで、彼女の御飯を吟味したのだが。これが中々見つからない。

 深夜ということもあり品薄の状態で、さらに財布には一万円ぽっきりしかなく。

 結局買えたのは、妥協に妥協を重ねたものだけだった。

 今日は貯金を下ろして行こう。

 そう心に誓った。


「いやいやいや。お前さん、何か誤解しとるぞ。儂、いつも社で煎餅齧っとるだけじゃから。適当な安いやつで全然構わんから」

「分かりました、煎餅ですね。帰りに買っておきます」

「何故そうなるんじゃ……?」


 危ないところであった。

 全く失念していた。

 彼女は己がいない間、ずっと部屋にいるのだ。必然、訪れるは退屈の二文字。

 お菓子や娯楽類も買っておかねば。

 買うものリストが更新された。


 ふと、腕時計を見る。

 針は遅刻を刺そうとしていた。


「こほん。よいか、孝仁よ。そもそも儂に食事は……」

「申し訳ありません。駅に遅れます故、お話の続きは後ほど」

「にゅ? あっ、待っ」


 パンの残りを口に放り込み、鞄を取る。

 中身は確認していない。書類に不足がないことを天に祈るばかりだ。

 急ぎ足のまま玄関に向かう。

 素早く靴を履き、扉に手をかけ。


 ガチャリ。


「た、孝仁!」


 焦ったような声が聞こえた。思わず足を止め、振り返る。扉は開いたまま。

 視線が交差する。

 彼女は数度、深呼吸をして。

 

 ふわり、と笑った。


「いってらっしゃい、なのじゃ」


「……はい。行ってきます」


 バタン。


 今度こそ、扉が閉まる。

 己は暫し立ち止まり、やがて駅に向かって歩き出した。


 












 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。


 景色が急速に過ぎていく。

 いつもならその様を、ぼうっと見ているのだが。

 今日は視線を少し下げ。

 手元の携帯電話に注目していた。

 薄暗い画面には、文字が羅列している。


「……」


 天狐。

 千年の時を生きた狐。

 神に等しき存在。

 千里先を見通す、妖狐含め狐達の最上位。

 神獣。 

 善性で、人を害すことはない。

 尾は四本。九本の説もある。

 毛色に関する記述は特に見当たらない。


 天音という、名前も。


「……」

 

 電源を切る。 

 何だか酷く、彼女に対して失礼な気がして。

 愚かなことをした。


 天音さんは天狐である。

 他ならぬ、本人がそう言った。疑いはない。

 なら天狐の全てが、書かれている全ての事柄が、彼女の本質なのだろうか。

 たかたが手に収まる程度の長方形に、彼女の全てが詰まっているというのか。

 否。

 断じて否だ。

 天音さんの尾は一本だった。

 天音さんの毛色は美しい銀色だった。

 天音さんの優しさは、善性なんて言葉じゃ言い表せないほど、温かかった。

 天音さんは。

 天音さんは。

 

 己が知る、天音さんは。


「……っ」


 何を、考えた。


 下唇を強く噛む。

 強く、強く。

 いっそ突き破れたらよかった。

 噛み千切れたならよかった。

 そうすれば。

 胸の中に沸いた、蛆虫にも劣るこの感情を。

 汚穢よりなお醜い、この欲望を。

 少しでも誤魔化せたかもしれないのに。


『まもなく、○○。まもなく、○○です。右側の扉が……』


「……」


 









 はい。

 

 すみません。


 畏まりました。


 はい。


 申し訳ありません。


 はい。


 承りました。


 はい。


 はい。


 大変、申し訳ありませんでした。











 深夜にて。

 扉を開ける。

 鍵は掛かって、いない。


 ガチャリ。


「……ただいま、帰りました」


「おかえりなさいなのじゃ! 遅くまでよう頑張ったのぅ」


 ぱたぱたと、彼女が出迎える。

 花が咲くような愛らしい笑顔だった。


 灯りとは関係なしに目を細める。

 そうせねば、とても見られなかった。


「……んにゅ? どうしたんじゃその袋は。やけに沢山あるが……」

「後ほど説明いたします。……まずは食事にしましょうか。遅くなって申し訳ありません」

 

 あと一ヶ月。

 彼女との契約はそこで途切れる。

 昨夜交わした、この世でたった二人だけが知る契約。

 彼女は願い。

 己は応えた。

 だからせめて、あと一月だけは。

 

「あぅ……そ、その、朝言えなかったんじゃが。儂、別に食べなくても」

「今日は稲荷寿司を買ってきました」

「いただこう!」


 しおらしい顔が一転、朗らかなものに。

 尾を左右に揺らしながらちゃぶ台に向かっていく。

 座布団に行儀よく座る姿の、何と愛くるしいことか。

 頬の内側を噛む。

 遅れて、血の味がした。


「……」


「ふんふんふーん。にゅふふ、ふふ」


 彼女を見ていると、ふと忘れそうになる。


 己があの日犯した罪を。

 

 己の受けるべき罰を。


 己が人殺しという、その事実を。


 忘れてはいけない。

 元宮孝仁。

 己は、お前は。


 喜びも感じず。

 不幸も求めず。

 自傷も許さず。

 永遠の眠りすら、安寧として。


 ひたすらに苦しみながら生きるべき存在だ。


 ……それでも。


「んもう、何をぼけっとしておる! 早う来んか、孝仁」


「……はい、今すぐに」


 それでも、どうか、あと一月だけ。

 あと一ヶ月だけ。


 彼女の願いが叶うその瞬間まで。

 己が役目を終える、その日まで。


 どうか。


 彼女と関わることを、お許しください。

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