第2話 私が諦めていたこと
御門音楽学院高等学校。日本中から音楽の才能ある学生が集う都内の国立高等学校だ。御門を卒業すれば有名大学やオーケストラへの推薦は確実、その後のキャリアも保証されると評判であり、事実多くの著名な音楽家がこの高校を卒業している。
私が指揮科に転科して一週間経った初夏────私は早くも壁に阻まれていた。イライラしているからか、廊下を叩く足音が鋭かった。その煩さでまたイライラするという悪循環に陥っていた。
「どうしてあんな汚い音しか出せないの……?」
頭の中で先ほどのオーケストラの演奏が渦巻いていた。最初の全体合わせは散々な結果だった。
「出だしが合わない、管も弦も噛み合わない、何より練習をまるでしてきてない!」
髪を振り乱しながら廊下の角を曲がった。情けなくて、悔しくて、私は額を手で覆った。
「どうして私の言うことを聞かないの? 私は正しいはずなのに……」
私が言っていることはシンプルなはずだ。「楽譜に書いてあることをそのままやれ」。それが私にとっての音楽だ。楽譜は神で、作曲家は神を生み出した創造神だ。
拍通り指揮してるのにテンポが崩れる。フォルテやピアノへの素早い切り替えもできない。音楽的な表題もフレーズも何も意識できていない。なぜオーケストラの面々がそんなこともできないのか理解できない。彼らが自分と同じ御門の生徒だというのが信じられない。
「私は悪くない……どうして……っ!」
怒りがついに頂点に達し、壁を殴ろうとしたその時────私はハッとして手を止めた。痛くなるほど握っていた拳を開いた。革手袋のキシキシという音がした。
これは音楽家の手だ。何よりも大切にしなければいけないんだ。頭によぎったそんな考えを私は自嘲した。
「……今更大事にしたって、もう無駄なのよ……」
短く嘆息して再び歩き出した。私の安息の地へ。あそこでしか私の心は癒せないのだ。
あっという間に目的地のレッスン室に着く。ここは旧校舎だ。改築されてから新校舎のレッスン室ばかり使われるようになって、旧校舎にはあまり生徒は近づかない。だから私は学校に許可を貰って、個人練習という体の一人になれる場所、としてレッスン室を使っていた。
なのに────
「何……?」
誰もいないはずのそこからピアノの音色が聞こえた。扉が少しだけ空いて、音が漏れ出ていた。
幽霊? 一瞬背筋が凍ったけれど、聞き馴染みのあるフレーズですぐ心が解れた。
「『ラプソディ・イン・ブルー』……」
アメリカ的なジャズチックの旋律だ。跳ねるような、踊るような、しかしどこかで毅然としている雄大さを兼ね備えていた。
リズムも強弱も楽譜とは違う。なのに、私はいつのまにか、息をするのも忘れるほど聞き惚れていた。
「一体誰が……」
扉のガラスから中を見る。そこには上機嫌にピアノをかき鳴らす一人の女子生徒がいた。綺麗にブリーチされた白っぽい金髪に、窓から差し込んだ陽光がキラキラと輝いていた。身体を大きく動かし、満面の笑みを浮かべ、長くて細い指を縦横無尽に動かしていた。
まるで身体全体で音を奏でているようだった。その後ろ姿は、華奢なはずなのに────とても雄大だった。
「……なんて……」
ラストスパートに入る。スキップするような、それでいてしっかりと大地を踏みしめているような不思議な感覚だった。彼女は立ち上がり、力いっぱい指を鍵盤に叩きつけた。汗をまき散らしながら、心から楽しそうに弾いていた。
「ブラボー!」
弾き終わると自分でそう叫びながら拍手し始めた。そして彼女がこちらを向いた。ひぃっ、と思わず肩が跳ねた。
「どーだった? あたしの演奏」
彼女はにこやかに尋ねてくる。一瞬だけ臆してしまったけれど、そうだ、ここは元から自分の使っているレッスン室で許可も貰っているのだ。怖がる必要なんてない。私は勇気を振り絞って部屋に足を踏み入れた。
「ち、ちょっと、どういうつもりですか。ここは私が使用している部屋ですよ。許可は取っているんですか?」
部屋にいる彼女は、一言で言えば『不良』だった。パーマのかかったボブカットを綺麗な金色に染め、耳にはいくつもピアスを空けていて、指輪やネックレスも目立つ。制服も大きく着崩し、ブレザーの前をワイシャツもボタンをいくつも外して素肌が見え、スカートも短い。
私は見た目から嫌悪感を抱いた。音楽を真摯にやっている人はこんな格好しないはずだ。
「許可? いや、取ってないけど」
彼女は椅子に座って私を舐めるように見てきた。私は何か生理的に嫌なものを感じて、自分の身体を隠すように手で抱いた。
「な、なんですか」
「キミかわいいね。この後ヒマ? デートしよーよ」
「は?」
私は本気で心から軽蔑したまなざしを彼女に向けた。のに、彼女はその目線を受けて大笑いした。
「あははは! 冗談だって、そんな怒んないでよ。美人が台無しだよ?」
「うるさい。さっさと出て行って。邪魔よ」
「ならどうしてすぐ言わなかったのよ、それ」
彼女の言っていることを理解した私は腹の底から羞恥心が湧き上がって来たのを感じた。思わず彼女を睨んだ。
「き、気付いてたのね……!」
「当ったり前でしょ。えらい可愛い子が覗いてんな、もしかして惚れられたか? って思ったもん。どーだった? あたしの演奏」
ニヤニヤしながら聞いてくる彼女に、私はそっぽを向いてやった。
「最低の演奏でした。あんな思いっきり鍵盤叩いて。ピアノがかわいそうだわ」
「そうかな。あたしに弾かれて嬉しそうだったけど」
「何を……」
「だってこのピアノ、随分弾かれてなかったから」
そこでようやく、私は彼女の足元に置かれた、ピアノを調律するための道具────チューニングハンマーに気が付いた。彼女は愛おしそうにグランドピアノを撫でた。
「埃も被ってたし、中もすごい痛んでた。そろそろちゃんと修理に出さないとダメかもね」
「……あなた、調律できるんですか」
「ちょっとだけ、ね。手は尽くしたけど、もうダメっぽい」
彼女が見せた寂しそうな顔に、正直驚いた。あの演奏をした、ピアノに愛を持つ彼女と、いかにもチャラそうな風貌の彼女……私の世界観にとって、彼女たちが同一人物とはとても思えなった。
「キミもたまには弾いてあげなよ、せめてこの子の寿命まではさ。ヴァイオリニストだとしてもピアノちょっとは弾けるんでしょ? 女帝ちゃん」
「……知ってたんですか、私のこと」
「キミを知らない人なんてこの学校にいないんじゃない? ちなみにあたしはキミとタメ。ピアノ科二年の
差し伸べられた創路さんの手を、私は容赦なくぺしっと叩いた。
「よろしくしません。それと私をそう呼ばないで。嫌いなんです」
「それもそっか。じゃあリツちゃん」
「気安く名前で呼ばないで。というか早く出て行ってください」
突然、扉を指さした手を創路さんに掴まれた。
「えっ────」
そのまま私は壁際に追い詰められる。逃げようとしても、足の間に創路さんの足を差し込まれて身動きが取れない。先ほどまでの彼女が持っていた陽気な雰囲気が一気に冷たくなり、私は身震いした。
「きゃっ」
腕で逃げ道を塞がれてしまった。創路さんが迫ってくる。香水かクリームの甘い香りがする。私は目をぎゅっとつぶり、こみ上がってくる恐怖に耐える。
「な、なにするつもりですか! 大声出しますよ!」
「こんなとこ誰も来ないよ」
「さ、最低! こんなことして許されると思ってるの!?」
「あたし、長谷部とダチなんだよね。知ってるよね。キミにクビにされたチェロ科二年の」
「え?」
誰の事だか分からなかった。記憶を探ってようやくその名前を思い出した。
「長谷部、さっき正式に学校からオケ脱退の通知が来たらしいよ。キミのやるオケっていうのは、そこで結果を出せば大きく評価が上がるんだってね? 遅刻一回で即切られるなんて納得いかねぇ、って言ってたよ」
「それがなんですか? 遅刻するのが悪い」
「でも一回だよ?」
「その一回を許すと二回目が必ず起こります。そういう小さな綻びは音に現れる。オーケストラは繊細な音の集合体です。少しでも足並みが乱れたら崩壊するんです。あなたも音楽家の端くれなら分かりますよね」
私は臆せず創路さんを睨んだ。彼女はその視線を真正面から受け止めた。
「あたし、結構さぁ、義理堅いタイプなんだよね。ダチのためなら……なんだってできちゃうんだよ」
「だ、だから?」
「長谷部の脱退を取り消さないと……このまま酷いことしちゃうかもよ」
ぎゅっ、と私の腕を握る手に力が込められた。痛かった。
けれど、私は────
「やってみたらいいじゃない。その時あなたは人として最も穢れた存在になるわよ。ピアノなんて二度と触れないくらいに」
しばらくお互いに睨み合う。絶対に負けるものか。私は決意を籠めて身体の震えを押し殺した。やるならやればいい。私は間違ってなんかいない。
しかし私のそんな決意とは裏腹に、創路さんがパッと自分から離れる。
「ごめんごめん。だよね。やっぱり長谷部が悪い。キミもちゃんと最初っから説明してたって言うし」
創路さんは大きく後退した。私は唖然とした。
「長谷部が何か言ってきても無視しな。なんならあたしも説得するから」
「な、なんなんですかあなたは。どういうつもりですか」
「キミが噂通りの奴なのか確かめたくなってさ。
「……やめてください。あなたなんかに評価されたくない。私のこと何も知らないくせに、知ったような口きかないで」
屈託の無い笑みを浮かべながら放たれた言葉を私は拒絶した。俯いて、胸の前で手をぎゅっと握る。こんな人に、私の何が分かるというの……。
「そうだね、ごめん。知ったような口きいちゃった」
創路さんは私から離れ、扉の前で立ち止まった。
「でもさ。あんま思い詰めない方がいいんじゃない?」
そう言って振り返る。私を見つめる。
「酷い顔してるから。何度も言うけど、美人が台無し」
「うるさい。私は、あなたがすごい嫌いです」
「はは。じゃーねー」
重い防音の扉がゆっくり閉まっていった。その間、創路さんの上履きの音がパタパタと遠ざかっていくのが分かった。
「私の何が分かるのよ。あんな女……」
リツはピアノの鍵盤を叩いた。ラの音────ヴァイオリンの調弦のために鳴らす音だ。
完璧に合っていた。美しい音だった。私が諦めていたことを、創路さんはいとも簡単にやってのけた。
「……私一人じゃ、何もできやしない……」
私はロッカーに立てかけてある自分のヴァイオリンを見た。到底弾く気にならなかった。あの日から三か月経って、まだ一度もケースから出していない。ヴァイオリンが恨めしそうに自分を見つめ返している気がした。
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