Prologue.3


♦♦


「あぁ、目が覚めましたか」


 瞼が開ききる前に、俺の横で何かをイジっている人に声を掛けられた。初めて聞く声だった。


「あ、あれ……」


 普通に声が出た。ゆっくりとクリアになっていく視界。少なくとも自宅ではなく、ドラマや漫画でよく見る光景ということに気がついた。


「病院……?」

「そうです。トラックにはねられて、搬送されたんですよ」

「あぁ……」


 そのわりには、体に痛みがなかった。けれど「本当に事故ったのか」なんて軽口を叩く気にはなれない。今まで感じたことがないだるさを考えると、事故に遭ったのは間違いなく事実で、俺の記憶は正しいようだ。


「助かったんですね」


 まるで死にたかったような言い草になってしまった。けれど、別にもういい。否定するのも面倒だし、別に嘘ではない。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、看護師は優しく微笑んでくれた。


「ええ。正面衝突って聞きましたけど、右肩の打撲で済みましたよ」


 それを俗に奇跡と呼ぶのだろう。あまり思い出したくはないが、結構なスピードが出ていたと思う。相当当たり所が良かったのだろうか。それにしても打撲で済むのは異常じゃないか。


「でも念のため、3日間は入院ってことになります。後で先生から説明がありますので」

「そうですか」

「親御さんには病院から連絡してます。命に別状はないことは伝えているので、安心してね。スマホカバーに緊急連絡先を用意しているなんて、良い心がけですね」

「まあ……はい」


 いつ用意したのかすらも覚えていない。多分、めったに飲まない酒を飲んだときか、特段人生に嫌気がさした時か。

 大学にも連絡しておかないとか。くそ、面倒でしかない。講義にはしっかり出席している。学校からすれば「優学生」なだけに、ここで無断欠席扱いになるのは癪だ。


 角度を調整できるベッドだったから「起こして良いか」と看護師に尋ねた。すると彼女は了承して「先生を呼んでくるね」と病室を出て行った。ベッドが斜め45度になる。そこで首をゆっくり左右に動かしてみると、案外痛みはなかった。

 普通の病室だが、俺以外に誰も居なかった。いわゆる個室。ベッド同士を仕切るカーテンもなかったから、妙に心地が良い。


 そっか、俺生きてるんだな。

 嬉しいはずなのに、心は躍らなかった。でも自分から命を捨てる選択をしたなんて、認めたくもない自分がいて。多分両親も見舞いに来るだろう。それまでに取り繕わないとだなぁ。

 右手側は窓になっていて、カーテンが


「――なにしんみりした顔してるの。喜びなさいよ。生きてるんだから」


 響く声。さっきの看護師ではない。

 ふと顔を上げると、目線の先にあるのはホウキである。毛先が俺の顔と同じ高さにある。うん、ホウキがぶらさがっている。いや、ホウキが天井からぶら下がるなんてことはあるか? いやいやでも現にそうなっている――。


「え、は、え?」


 よく考えなくても、ホウキが喋るわけがない。左手で目を擦ってもう一度顔を上げる。

 ぶら下がっていたホウキは無くなっていて、目の前には白い壁が広がっている。

 それはそれでおかしい! だってさっきまで間違いなくがぶらさがっていたから目を擦ったのに、今度はソレがなくなっている?

 絶対にそれはない。見間違いにしてはハッキリしすぎている。ホウキじゃない何かがそこにいたはずだ。


「こっちだよ。こっち」

「え?」


 今度は左手の方から声がする。さっきまで看護師がいた場所。目が覚めたばかりだが、触覚はしっかりと生きている。背中に滲む汗を実感できたからだ。

 怖いよそりゃあ。看護師が出て行った後、誰も居ないと思っていた病室から声がするんだもん。俺じゃなくたってビビる。

 ひとつ不思議なのが、声はするけど気配を全く感じなかった。人が近くに立っている場合、声をかけられなくても見てしまうのがさがだと思うけど。

 ゆるりと視線を左にやる。いる。なにかいる。病室にふさわしくないつややかな服装に見える。自信はない。


「え、もしかしてビビってる?」


 その問いかけには答えなかった。答えちゃいけない気がした。

 でも――視線は少しずつ上がっていく。ゆっくりと、でも確実に。

 こういうときは、本当に何もかもがスローモーションに映るんだな。自分の心臓がドクドクと脈打っているのも分かるし、痛がっているのも分かる。第六感は「今すぐ逃げろ」と警鐘を鳴らしているが。


「こんばんは」


 やっぱり艶やかな声をしていた。改めて聞くと、非常に聞き心地の良い声をしている。俺を揶揄からかう感じのトーンじゃなくて、本気で俺と話したがっているように聞こえた。

 まるで視線を上げる。あぁこれはきっと美人だ。だれもがうらやむ美しい人が――。


「――う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 それはがだった。

 口もない、目もない、鼻もない。なにもない。常識を逸したソレを理解するのに少し時間がかかった俺は――みっともなく二度目の眠りについて気絶してしまった。


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