弱虫悪役令嬢の結婚前夜

水鳥楓椛

第1話



「ひっく、ひっくっ、」



 ベッドの上で広がるストレートなミルクティーブラウンの髪を揺らしながら、子爵令嬢カナリア・フローラはしゃくりあげて泣きじゃくる。


 若葉のような色彩のキラキラと輝くぱっちりと大きな瞳が蕩けてしまいそうなほどに涙を流す彼女は、明日、結婚する。


 結婚相手は攻略対象である知的なイケメンの伯爵令息のルイン・バーク。


 白銀に煌めく少し長めの癖っ毛に叡智を詰め込んだかのようなサファイアの瞳を持つ彼は、王国屈指の名家の生まれであり、頭脳明晰で次期宰相の筆頭候補とまで呼ばれている。


 そんな彼と婚約している平々凡々で特筆するところが1つもない、地味女カナリアには、1つだけみんなには言えない普通じゃないところがあった。


 カナリアには、前世の記憶というものがあったのだ。


 気弱な女子大生として生き、そして、彼氏に裏切られて傷心中に銀行強盗に巻き込まれて銃で心臓を撃ち抜かれて即死した、渡辺莉愛としての記憶だ。


 カナリアは4歳の時、ルインとの顔合わせで莉愛としての記憶を思い出した。

 同時に、ここが前世でプレイしていた乙女ゲームの世界酷似した世界であることを理解した。


 カナリアは莉愛同様に弱虫で泣き虫で、どうしようもないほどに気弱な少女だ。


 だからこそ、彼を見た瞬間、彼との未来を知ってしまった瞬間、カナリアは絶望して泣きじゃくった。


 ルインは将来、1度だけ勉強で挫折を味わうことになる。

 そんな時、心優しいヒロインに慰められ、彼はヒロインのマリアンヌと恋に落ちるんだ。


 マリアンヌはとても美しい少女だ。


 人の視線を掴んで離さないストロベリーブロンドに、魅惑的なアメジストの瞳。

 そして何より、圧倒的な可愛らしさとプロポーション。


 将来のカナリアには、どれも持ち合わせることができないもので、将来を先に知ってしまったが故に、カナリアは一目見ただけで大好きで大好きで仕方がなくなってしまったルインと結婚できないとわかって、もう泣くしかなかったのだ。


 初めて会ったばかりの少女に顔を見られた瞬間に号泣されて、ルインは多分傷ついたと思う。


 しかし、彼はカナリアに寄り添って「どうして泣いているの?」と優しく声をかけてくれた。


 カナリアは、それを受けてもっともっと泣いてしまった。


 泣いて泣いて泣いた末に、カナリアは彼に将来起こり得る乙女ゲームでのことを全てルインに話した。


 自分ひとりでは抱えきれなくて、話してしまった。


 頭がおかしい女だって思われても仕方がないのに、ルインは真面目に話を聞いた後に信憑性を検証、そして、ゲームの中で起こる災悪を防ぐために行動を起こしてくれた。


 これで未来が安泰だってすぐにわかって、とっても心が落ち着いた。


 けれど、根本的な意味合いでは何にも変わっていなくて、カナリアは日々怯えて過ごした。



 ヒロインが学園にやってくる日を怯え、


 ヒロインにルインが取られる未来に怯え、


 そして、ヒロインをいじめてしまうかもしれない己の醜い心に怯えた。



 ずっとずっと怖くて怖くて仕方がなかった。

 いつ訪れるのかも分からないことに恐怖し続けた。

 

 ずっとずっと泣き続けていた。

 「怖い怖い」と言いながら。


 そんなカナリアに、ルインはずっと付き添ってくれた。


 今日だってそうだ。

 

 明日結婚式を控えているのにも関わらず、「わたしはルインさまに捨てられるんだ」って新郎に向けて言いながら泣きじゃくる新婦を、優しく優しく抱きしめてくれている。


 こんなにも面倒臭い相手に対して、今日も今日とて複数の魔法を用いてこっそりとカナリアの部屋に侵入してきたルインは、あまりにも優しすぎる。


「泣かないで、カナリア。君が泣いているのを見ると、食べてしまいたくなってしまう」

「っ、」


 耳に入ってくる優しい優しいテノールボイスが心地よい。



 ルインはとても優しい人だ。

 優しい微笑み、優しい口調、心遣いたっぷりの優しい優しい贈り物。


 正直に言ってカナリアにはとても勿体無いよくできた人だ。



 涙を拭ってくれる手に頬擦りをしていると、彼がクスッと笑った。


「カナリアは本当に可愛いねぇ」

「???」


 勉強をしすぎて目がおかしくなってしまったのだろうか。


 カナリアは大きく首を傾げる。


「大丈夫だよ、カナリア。ヒロインは学園に来なかったでしょう?オトメゲームとやらは終わったんだよ。君はもう、何事にも気にとらわれず幸せになっていいんだよ」

「でもっ、」

「僕の言葉が信じられない?」

「………うぅん、」


 よしよしと頭を撫でられた。


「そろそろ寝ようね、カナリア。明日は待ちに待った結婚式なのだから」

「うん」

「おやすみ、カナリア」

「おやすみなさい、ルインさま」


 ベッドにもふっと潜ったカナリアはへにゃっと微笑み、そしてゆっくり瞼を落とした。


「ふっ、本当にカナリアは愛らしいなぁ」


 彼女が寝静まるのを見送った美丈夫ルインは、彼女の頭を優しく撫でながらうっそりと妖艶な微笑みを浮かべる。


 しかし、次の瞬間にはその微笑みは消え去り、彼の女神が直接作ったが如き整った尊貌には冷たく鋭い無表情が浮かんでいた。


 彼の視線の先には漆黒の衣に身を包んだ一人の男が跪いている。


「で?あの馬鹿女は?」


 カナリアには聞かせられないような凍てつく殺気の滲んだ声が、男を貫く。


 しかし、その殺気に慣れきってしまっている男は、一切の動揺もなく落ち着いた声で滔々と報告し始める。


「………ターゲットは取り乱すことを諦め、辺境の地下牢にて力のみを搾取される生活を受け入れました」

「はっ、随分と長くかかったものだ」

「………っ申し訳ございません………………」


 謝る漆黒の肩には、ルインの革靴がめりめりとのめり込んでいる。


 魔法による痛覚の鋭敏化によって想像を絶するような痛みに襲われている男は、僅かな呻き声のみで全てを飲み込み、声を上げる。


「か、彼女が抵抗する可能性は今後一切ございません。彼女を見つけ出し、誘拐し、あの場に閉じ込めてから10年、


 『わたしはヒロインなのよ!?ルインさまたちをお救いする唯一の光!!早くお出しなさい!!』


 という馬鹿げたことを叫び続けたあの女には、しっかりとした調教を行いました。

 人格破壊、記憶破壊はもちろん、あの地下牢が家だと思い込ませ、何かあった際にはあそこに自ら戻るように教え込んでいます」


「当然だ。

 にしてもまさか、カナリアが『預言者』だとはねぇ」


 今思い出しても、数奇な巡り合わせだ。

 王家に絶対的忠誠を誓うルインの元に、王妃にならなくてはならない能力を持った少女が婚約者として現れるなんて。


「あぁ、そうそう。君、何があってもカナリアが預言者だってことはお外で漏らしちゃダメだよ?

 彼女は僕の妻。

 僕だけの愛おしい姫君。

 僕の鳥籠の中で過ごすべき、世界で1番愛らしい人なのだから」


 うっそりと笑うと、目裏には彼女と出会った日のことが鮮明に思い出せる。



 自分を見た瞬間に泣きじゃくり始めた素朴な美少女の、堪らなくそそる泣き顔はもちろんのこと、


 政略結婚でありながらルインに捨てられることに怯え、

 必死になって縋り付いてくる愛玩動物のような健気さも、


 未来を知ってなお、

 利己のためではなく他人のためにその崇高な力を使おうとする高潔さも、


 何もかもが、全てが、愛おしくてたまらない。

 誰にも渡したくなくて、見せたくなくてたまらない。



 12年、12年も大事に大事に囲い込んできた愛おしい愛おしい婚約者であり、明日の花嫁であるカナリアの頭を撫でるルインは、これでもかというほどに蕩け切った甘い甘い表情で彼女を見つめ続ける。



 障害になるモノは全て処分、破壊、利用してきた。


 幾つもの屍の上にこの結婚が成り立っていると知った時、カナリアはどのような表情をするのだろうか。


 嘆くのだろうか、悲しむのだろうか。

 ルインにはある程度しか想像できない。



 けれど、これだけは分かっている。



「君は、困ったように笑って最終的には許してくれるのだろうね」



 誰よりも、両親よりも自分のことを愛してくれる彼女は何も知らず、明日には穢される無垢な表情ですやすやと眠っている。



「………狂おしいほどに愛しているよ、僕のカナリア愛玩鳥



 鳥籠の中ですくすくと育った羽根をもがれたカナリア金糸雀は、今日も愛しの婚約者の腕の中で、何も知らず、幸福に包まれているのであった———。

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