ノクターンーNocturneー

小花衣 秋雨

第1話 囚われた男

ーーコンコン

ドアのノックが鳴る。

ドアにはーNocturneーと書かれた看板がぶら下がっている。

ここはピアノを弾いてくれるカフェらしい。

中から、紅茶やコーヒーの匂いがする。

趣のある木製のドアがゆっくりと開かれ、中の光が藍色の世界に漏れる。


「あの、初めまして。」

可愛らしい女性が顔をのぞかせる。

夏の真っ只中。

きっと外は蒸し暑いのだろう。

女性の頬は少しピンク色に染まっている。


「今宵もお待ちしておりました。どうぞ、お入りください。」

丁寧な若い男性が招き入れる。

なにか大切なものを見ているようなその男性の顔は少し嬉しそうで悲しそうでもあった。


ーー「今お茶を入れますね。」

カチャカチャと古びた棚から高級そうな茶葉を取り出す。


「レモンティーで大丈夫でしょうか?」


「もちろんです。私、レモンティー好きなんです。」

女性は嬉しそうに頷く。


「…そうだと思いました。」

男性は慣れた手つきでティーカップにレモンティーをそそぐ。

大切に扱ってきたのだろう。

ティーカップに曇りがひとつもない。


薄暗く質素な部屋には大きなピアノがひとつ。

部屋の大きな窓からは月明かりが差し込み、幻想的な雰囲気をつくっている。

ピアノには何回も何回も、繰り返し使い込まれた形跡がある。


「何をお弾き致しましょう」

男性は椅子にゆっくりと腰を下ろし、鍵盤に手をのせる。


「あの…曲名は思い出せないんですけど、ショパンの…」


「……夜想曲第2番ですね」

そう言って男性は静かに弾き始めた。

1音1音大切に。

この時間を噛み締めるように。


「そうです…、この曲です。どうして分かったんですか?」


「…どうしてでしょうか」

目を瞑りながら、やんちゃないたずらっ子のような笑みを浮かべて男性は答える。


蒸し暑い静かな夜の中を音が途切れることなく、紡がれていく。

丁寧で、細かくてそれでいて芯を持った音は心の中にストンと落ち着いていく。


「素敵な音…」

女性も目を閉じ、リラックスしながら楽しんでいる。


「それは良かった」

目を瞑っていても、流れる音は止まらない。


最後の1音を名残惜しそうに引き終えると

「また、お待ちしておりますね」

と言った。


満足そうに帰っていく女性を外まで見送る。


シンとした夜に長い余韻が漂っていた。


ーーコンコン

ドアのノックが鳴る。


「あの、初めまして。」

可愛らしい女性が顔をのかぞせる。

外は蒸し暑いのだろう。

頬はピンク色に染まっている。


「……今宵もお待ちしておりました。どうぞ、レモンティーでもいかがですか」


そうして、今宵も夜に囚われた男性は孤独を埋めるかのように今日も1人の女性のためにピアノを弾き続ける。

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