惨劇と銃声

 大部屋まで行くと上司の一人が段ボールを前に腰を抜かし、尻餅をついたまま絶叫していた。その表情は発狂と言っても差し支えないほどで、まるで地獄の底でも目撃してしまったかのようだった。


 ものすごく、嫌な予感がした。


「何が……」


 荷物を受け取ったのは俺だ。その時に覚えた違和感が蘇ってくる。何か途轍もなく不吉なものを手にしてしまったような感覚。本能だけが理解している何かで、背筋が寒くなっていく。


 尻餅をついたまま、腰を抜かす上司。ホラー映画で殺される人のように、今もなお絶叫し続けていた。まるで見えないバリアでも張られたかのように、他の同僚たちが離れたところでそのさまを眺めていた。


 何が。一体、何が――


 ――箱。


 段ボール製の箱。それは開かれ、内部にいくらかの黒い点が付いていた。


 ――血? 血なのか?


 声に出さず前へ出る。固まる同僚たち、かき分けて、その血の沁み込んだ箱へと歩いていく。内部に人の毛のようなものが見えた。


 まさか――


 いや、見間違えようもない。


 ――段ボールの箱に入っていたのは、まぎれもなく人の生首だった。


 それは、全く現実感がなかった。マネキンの首だと言われたら信じてしまいそうなほどに。


 だが、目の前の上司は今もなお叫び続けている。彼が開封したのだろう。だが、問題はそんなことではない。


 こちらからは後頭部しか見えないが、その形にはどこか見覚えがあった。


 いや、見覚えがあるどころか――


「まさ、か……」


 嘘だろ――


 そう言いたかった。だが、近付けば近付くほどに嫌な確信は増していく。


 髪が乱れているとはいえ、あの毛色、髪の質は――


「織田君、今は警察が来るのを……!」


 別の上司が最後まで言い切るのを待たずに、俺は段ボールの正面へと回った。動悸――心臓が早送りでもされているかのように早鐘を打つ。


「あ……」


 生首の正面へと回った時、俺は声を失った。それは、つい朝まで傍にいた存在だった。


「り……」


 ――梨乃ちゃん。まぎれもなく、血の気のなくなった頭部は梨乃ちゃんのものだった。


 俺の中で、何かが壊れた気がした。気付けば膝をつき、その場に崩れ落ちていた。


 襲ってくるのは「見なければ良かった」という後悔。そして、「どうして彼女とともに出社してこなかったのだろう」という自責の念だった。どちらも激しいなどというレベルではなく、俺の知覚出来るメンタルの限界をとうに突破していた。それこそ、まだ絶叫し続けられる上司の方がマシなぐらいに。


 ――なぜだ?


 悲しいよりも先に、その言葉が浮かんだ。


 梨乃ちゃんに殺される理由などなかった。たしかに闇金に借金はしていたはずだが、奴らも支払いが出来ない債務者を殺すことまではしないはずだ。そう考えると、犯人は一体何を思って梨乃ちゃんを殺害したのか。理解が出来なかった。


 ただ確実なことは、もう俺は生きた梨乃ちゃんに会うことも出来ず、楽しく会話することも出来なければ愛し合うことも出来ない。それらの事実を受け止めることは、俺にとってあまりにも過酷だ。


 きっとあまりにショックな出来事が起こると、人間というのは現実に対して拒否反応を示すことで自分の心を守るのだろう。


 梨乃ちゃんが死んだことについての現実性は全くないに等しく、怒りも悲しみも飛び越して、無気力のさらに先にある無感覚へと突き落とされた。言うなれば、歯医者で麻酔をした状態で唇を噛んでも痛みを感じないような、妙な気持ち悪さを覚える感じだった。


 幸いなるかな、梨乃ちゃんの目は閉じていて、パッと見は穏やかに眠っているような表情であったことか。だが、俺の記憶からこの映像が消えることはきっと生涯ないのだろう。


 一体、誰が……。


 俺が出社してから梨乃ちゃんを殺して、勤務時間中に宅配で生首を送り付けるなんてイカれているどころのレベルの所業じゃない。それは鬼か鬼畜か、それとも悪魔か。


 それにこの首が梨乃ちゃんのものであるということは、途轍もなくイカれた殺人鬼が俺の近くにいることを同時に意味する。


「織田君、それ、それは……」


 別の上司が膝をつく俺に訊く。もう半分ぐらい答えは分かっているようだが。


 俺はどう表現していいか分からず、首を左右へと振った。「生首です」とは言えなかった。吐き気がする。だが、死体の保存状態もあるし、現場も保存しないといけない。その辺にゲロを撒き散らしたい誘惑を堪えながら、その場で膝をついていた。


「うわああああ!」


 同僚の一人がパニックになり、それを機に他の同僚たちも蜘蛛の子を散らすようにそこから走り去って行く。扉もロックされて開かない上に、電話も遮断されている。明らかに閉じ込められているのに、誰もがそこから逃げ出そうとする。死体が死体と認識されただけで、その事実は人々を恐怖と絶望の底へと叩き落とした。


 基本的にパニックになった人間は意味の分からないことをする。ある者はどうやっても開くはずのない電子ロックの扉に体当たりを繰り返し、ドアごと破壊して脱出を試みる。だが、情報漏洩を防ぐ目的で作られた厚い扉はビクともしない。


 愚かに見える振る舞いでも、このような状況で理性的な行動をしろと言う方が現実的ではない。多くの者が恥も外聞もなくあちこちへと逃げ回る。誰だって明らかに他殺体の死体がある場所にいたいとは思わない。


 パニックだ。部屋そのものは広いが、扉のない部屋以外は移動が出来なくなり、文字通り完全に閉じ込められている。


 少しだけ冷静な人々が外部へ電話やスマホでの交信を試みるものの、妨害電波でも出ているのか、全く繋がらない。


 膝をついたまま、俺は思った。俺たちは、明白な意図のもとに閉じ込められた。


 一体何が……。ようやく体に力が戻ってきた。いや、心が防御反応で悲しみやら怒りを感じさせないようにしているだけか。


 いまだに目の前の生首が梨乃ちゃんのものだということが信じられないが、ひとまずはこの状況をどうにかしないといけない。カウント8まで取られたボクサーのようにゆっくりと立ち上がる。その時――


 大部屋に途轍もない轟音が響く。多くの者があまりの恐怖で悲鳴とともに尻餅をついた。それも仕方がない。


 大部屋に鳴り響いた音は、明らかに銃声だった。


 少し前にあれだけ大きな音が響いたのに、大部屋は嘘みたいな静寂に包まれていた。誰もが息を殺して、存在感を消す。意味がないと分かり切っているのに、そうせずにはいられない空気があった。


 足音――部屋の奥から、コツコツと近付いてくる。


 ――誰だ? 誰だ? 誰だ?


 まるでここにいる人々の心理がテレパシーで伝わってくるかのようだった。誰もが姿の見えない足音に怯えている。


 いや――


 俺はこの足音の主を知っている気がする。知っているどころじゃない。ある時期まですぐ隣を歩いていた、狭い歩幅で作られるリズム。


「うるさいですね。少しは静かにしてもらえませんか」


 抑揚がなく、低い声。聞いたことはある響きだが、決して俺たちの前では披露されなかった声色――


「君は……」


 上司の一人が消え入りそうな声で呟く。


 通路から出てきたのは、ショットガンを担いだ織田真理だった。

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