第5章/緑の熱風 第5話/清涼な水の秘密

   一


 たとえ、ラビンを殺すつもりでも、ここで答えるはずがない。

 ラビンの城内潜入が、水の備蓄量をはかるための戦略かもしれないのだ。ここでアサドが何か言葉を発したらそれを伏兵が聞き、城外のイクラース将軍に伝えるかもしれないのだから……。

 だが、アサドの口からは意外な言葉が発せられた。

「水はいくらでもある。お見せしよう」

 アサドがすっと手を挙げると、ラビン達を包囲した兵が道を開ける。


 太守の宮殿へと続く大通り、その中ほどにある広場が一望できた。

 そこに巨大な池が出現していた。

 満々と水をたたえたその池は、月明かりに照らされてユラユラと輝いている。

 まさかあれは……? ラビンには自分が今目の前にしている現実が納得できなかった。

「いったい何処からこれほど大量の水を…?」

「ああ、これか…」

「まさか、新たな井戸を掘り当てたか?」


「これは井戸水ではない。飲んでみれば判る」

 池の淵に駆け寄ったラビンは右手で水をすくうと一口含んだ。

「……塩辛くない! 井戸水ではない、真水だ」

 ウルクルの場内では、塩分の多い井戸水を無理して呑んでいる…というラビンの思惑は無惨に打ち砕かれた。

「それでは、私と一緒に来てもらおうか」

 いつの間にかラビンの右側に立ったアサドが、静かに言った。


 城の北側にある小高い丘の上、地面に杭を打ち込みそこに何十もの網が張り巡らされている。

 縄を打たれたラビンが連れていかれて眼にしたものがそれだった。

「これがいった何だというのだ?」

 眉をひそめてラビンはアサドを凝視した。身体の自由は利かずとも、隙あらばアサドの喉頚に食い付きそうな殺気を漂わしている。

「じきにわかる」

 自分に向けられた疑念と殺意を無視するかのように、アサドはじっと東の空を見つめている。



   二


 いつのまにか夜が明け始めていた。

 闇がしだいにその濃さを減じ、やがて朝日が昇ろうとするこの時、いったい何が起こるというのか。

 微かに…風が吹き始めた。そして……

「おお、これは!」

 ラビンは思わず驚嘆の声を上げた。

 闇と朝日のあわいに発生した霧は数分で一気にその濃さを増し、自分の腕さえも見えない程になった。


 見よ!

 張り巡らされた網のひとつひとつに小さな水滴が生まれ、それは少しずつ大きな粒へと成長し初めているではないか。

 流れる霧が網を通る時、わずかばかりの水の粒子が網に絡みつく。

 水滴は水滴を産み、その大きさの限界を超えたものは滴となって落ち始めた。


 ………ポタ……ポタ…ポタ…ポタポタ…………

 落ちた水滴は下に置かれた雨樋の上を伝い流れ、最後には大瓶の中へと流れ込む。

 ……サラ……サラ…サラサラ…サラ…………

 瓶に流れ込む水の音も最初は幽かだったが、今では樋の上を勢い良く流れ大きな音を立てている。

 ……ジョボ…ジョボ…ゴポッ…ジョボジョボ…

「こ…これが、これがウルクルの水を得た秘密か!」

 ラビン准将の問いに、アサドは静かに頷いた。


「密に張られた絹糸の網が霧の水分を捉える。充分水がたまったら城内の大浴場に持っていって備蓄する。城内の人間が必要な量はなんとかまかなえる。一日でこの瓶にして二十個分だ」

 ラビン准将は、がっくりと膝を突いた。

「おそらく近々夜襲があろうと、広場に池を作り火攻めに備えていたのだ」

「俺達が…今までやってきたことは、何だったのか…?」

 ラビンの声が力無くふるえている。

 アサドの言葉が淡々としているだけに、ラビンはよけいに、この男の力量を感じずにはいられれなかった。


 アル・シャルクの戦術をことごとく打ち破ってきたこの若い傭兵隊長の凄さを……。



   三


 強力を誇ったアル・シャルク軍も、もう限界に近かった。

 戦いは迅速を持って最上とする。

 特に、自国を遠く離れた敵地での戦闘においては──。

 膨大な遠征軍を維持するのはそれだけで一大事業である。

 兵士の食料補給や軍役馬の飼育だけでも、容易ではない。

 戦争は時によっては国家経済を破滅させかねないほどの負担を強いる。ゆえに、戦いは迅速を持って最上とするのだ。


 その国が持つ兵力だけを、戦力というのではない。

 生産力や技術力のみならず、時にはその国の文化さえも含めた総合的な国家としての体力が、戦力である。その意味ではアル・シャルクとウルクルとの戦力差は歴然としていた。

 故に、イクラース将軍も最初は定石どおり正面から正攻法で攻め、早々に決着を着けようとした。だが、この男、アサドの駆使する奇策にはまり、大切な戦力をあたら無駄に浪費してしまったのだ。

 イクラース将軍の長い軍歴において、それは初めての屈辱であった。 

 誰もが圧倒的なアル・シャルク北方方面軍の戦力で、簡単に決着が付くと思っていたこの戦いは、今やアル・シャルクの戦力をウルクルとはほぼ互角のところまで落ち込ませてしまった。


 それゆえイクラース将軍は奇策に走った。

 だが、奇策は諸刃の刃でもある。

 天才的な戦術家が指揮し、そこに天の利・地の利・時の運があれば何回かの戦闘においては勝利することも可能であろう。だが、それも所詮は一時のこと、大勢に決定的な影響を与えることはまず無い。

 奇策を頼む者は奇策に散る。それが失敗したときの自軍のダメージは、成功したときに敵に与える被害と同様に、甚大な物となる。

 つまり奇策が破れ長期戦になればなるほど、国力は疲弊し勝利を無意味なものにしてしまうのだ。

 もう、限界だった。


 アル・シャルク軍は、もう限界だった。

 いや、敵地での相次ぐ作戦失敗と食料不足、疫病の蔓延という悪条件を考えると、明らかにアル・シャルク軍の方が不利である。

 戦争とは政治の延長であり、決して戦争それ自体が目的ではない。

「交易の要衝であるウルクルを支配下に置く」という目的を達成するための手段が今度の戦いなのだ。

 ここまでアル・シャルク北方方面軍は全戦力の半分を失った。これはアル・シャルク全軍の約二割に相当する。もはやアル・シャルクにとって、ウルクルとの戦いは割の良いものではなくなっている。



   四


「古の言葉をご存じか? 敵の十倍の兵力なら囲め。五倍なら雌雄を決せよ。二倍ならば挟み撃ちにせよ。互角ならば……」

 アサドがゆっくりとラビン准将を振り返る。次の言葉を促しているのだ。

「───勝算無きときは闘うべからず」

 苦渋の表情で、ラビンは言葉をしぼり出した。

「これ以上の流血は双方にとって無意味、そうではないか?」

 アサドは静かに言う。

 彼が自分に何を言いたいのか、それはラビンにも充分解っている。

 だが……


「だが…」

「副司令官には、この戦を納める権限などない…か?」

 アサドがラビンの言葉を継いだ。さらに

「それはわかっている。問題は、アル・シャルク軍の兵士達の気持ちだ。厭戦気分が広がっているであろう」

「戦に好き嫌いもあるか! 兵は皆、好き嫌いで戦っているわけではない。特に、北方方面軍はな」

 ラビンは吐き捨てるように言った。

「アル・シャルク軍最強と唄われた北方方面軍は、和議さえも恥とするか……では、俺が直接総司令官と話し合おう」


「なにぃ?」

 ラビンは驚きもあらわにアサドの顔を凝視した。

 いや、驚いたのは彼だけではなかった。周りにいたアサドの部下達やファラシャトにさえも、それは意外な言葉だった。

「おまえが直接出向くと? ハッ、そんなバカな。事ここに至った以上、もはや話し合う余地などない!」

「それは会ってみなければ何とも言えまい? ラビン殿」


「会って何を話すと? 我らに科せられたのはただ勝利あるのみ。国の意向を無視して勝手に和議など結べば、今度は我らがアル・シャルクから反逆者として追われる身となってしまう!」

「進むも地獄、退くも地獄…か。だが退けば、わずかながらも生きる道はある」

「はっ、おまえが俺達をどうにかしてくれると言うのか? たかが傭兵部隊長のおまえが!」

「そうだ」

 アサドの即答に、ラビン准将は目をいた。

「なにィ…!」



■第5章/緑の熱風 第5話/清涼な水の秘密/終■

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