『私』の採掘場

@tubasa8787

『私』を知るために筆を取る

私が望むことはあるたった1つのことを知りたい、それだけだ。


それは、『私とは何か』だ。


私は『私』についてどれくらい知っているのだろう。頭の中で言葉は浮かぶ。

『陽気』『不安定』『家族思い』『怠惰』、要素だけならいくらでも思いつき書き出せる。だがその要素を並び立てたところで、私にはならないだろう。


なぜか?『赤い』『果物』『シャリシャリとした食感』、これらの要素を並べれば多くの人はリンゴを思い浮かべるだろう。ああ、別の果物を思い浮かべていてもあ別に構わない。それは問題ではない。問題はそれの本質を見定められるかだ。

まだ木にくっついたままのリンゴなのか?地面に落ちて腐ったリンゴなのか?切り分けられて綺麗に盛り付けられたリンゴなのか?同じ要素を並べても、時や環境で全ての物は変質する。つまり要素を知るだけでは、物の本質を知ることなど不可能ということだ。


私も同じだ。要素を知るだけではいけない。私を知るには、私をどこまでも深く見つめ探る必要がある。過去の私、現在の私、未来の私を知り得てこそ、私は私を知ったと言えるだろう。


過去は恥に耐えれば見える。現在は感情に執着しなければいい。未来は私を形作る導があれば知ることができる。それならば、やることは明白だ。あとは考えるのだ。


見るだけでは、全ては流れていく。どれだけ目を凝らしても、霧の奥がぼやけて見えないように、私という本質は目に見えない。本質を知るには目にしたもの、気づいたことに対して注意を向けて、深く思索を巡らせることが必要だ。


本質を知るためだ。そのために私は筆を取った。頭の中で思い描くだけでなく、こうして文字として自分の中にある1つ1つのモノへ焦点を当てて、私は私は知る。


なぜそんなことをするのか?それは私が人生を終える時、確かに知っているものを1つ、手に握っていたいからだ。


私がこの世界で知り得ることは私以外にないと、確信する。それ以外のものは実態のない、霞のようなもので、どれだけ知ろうと思っても手を伸ばしても、指の隙間をスルスルと滑り抜けていく。私は私以外、何も知ることはできないだろう。


すぐには答えが出ない、長い旅になると思う。途中で何かアクシデントに出くわして、道を寸断されることもあるかもしれない。だが最後には必ず、私は私を知れると確信している。


なぜなら私はいつでも私の傍にいて、方時も離れることがないからだ。死を迎えるそのときまで、彼は暖かい囲炉裏のように私を暖め、寄り添い、離れることがない。運命を共にする相手のことを知ろうと思い、常に目を向けていながら生涯知り得ないなどと言うことが、どうしてあり得ようか。

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