善悪が匂いでわかる伯爵令嬢は悪役令嬢を演じてでも悪人を裁きたい

みるてぃ

才色兼備の伯爵令嬢

 この世の人間は善人と悪人の二種類に分けられる。


 しかし、それらを完璧に見分けることは不可能で、善悪の定義すら曖昧だ。


 だからこそ犯罪や裏切りといった悪事が常時どこかで勃発している。




 一度は考えたことはないだろうか。他人の善悪を一目で判断することが出来たら、と。




「ミツェルお嬢様、朝ですよー!起きてくださいまし!」


 起しに来たメイドのルーミアの高いソプラノの声を聴きながら、ミツェル・ホワイトローズは寝返りをうつ。


 シルクでできた柔らかいシーツを頭まで被せると、ルーミアがシャッとカーテンを開ける音が聞こえた。防ぎきれなかった太陽の明かりがミツェルの目に届く。


「まだ眠い…後もうちょっとだけ…」


「駄目ですよ!昨日のお嬢様から"私が何を言っていても起こしてくれ"って言われておりますから。」


「それはそうなんだけど…あれ、やっぱりなしで…」


 モソモソと芋虫の様に丸まるミツェルを構うことなく、「はい、起きますよ!」とルーミアがシーツを全て取っ払ってしまう。


 容赦のない従者にミツェルはようやく上体を起こした。ミツェルのホワイトブロンドの長い髪が無造作にベットに広がる。


「ルーミア、厳しい…もうちょっとくらい許してよ。」


「甘やかしてもいいですけど、それで困るのはお嬢様ですよ。」


 「まったくもう。」と言ってルーミアは手際よく用意した水を差しだしてくる。それをミツェルが受け取ると、採れたてのオレンジのような柑橘の甘酸っぱい香りが鼻を掠めた。


 ルーミアの匂いだ。


 すんと鼻を揺らしたミツェルは満足げにカップに入った水を口に含む。無臭の水がほのかな柑橘を纏ってミツェルの舌を刺激する。


 ただの水を果実水かのようにして愉しむ。それがミツェルの朝の日課であった。


 柑橘の匂いを漂わせたルーミアはそんなことは露知らず、テキパキとミツェルの朝支度を済ませていく。ミツェルが欠伸をしているうちに、ホワイトブロンドの髪に櫛が通されていった。


「お嬢様って朝お水を飲む時、本当に幸せそうな顔をなさいますよね。お水じゃなくてジュースだって私共は用意できますよ?」


「ふふ、これでいいの。私はこれが気に入ってるから。」


 ルーミアは知らない。ミツェルが水ではなく、ルーミアの香りを愉しんでいることなんて。


 これはルーミアが付けている香水などではなく、生まれもった匂いだから。


 他人の善悪が匂いで分かる。それがミツェル・ホワイトローズが生まれつき持った特異な能力だった。




 幼少期の頃からそれはずっとミツェルの役に立っている。


 例えば、いつもこっそりお菓子をくれるメイドはとろりとした蜂蜜の匂い。


 たまに来てはミツェルの事を可愛がってくれる叔父様は焼きたてのパンのよう。


 ミツェルが勉強で何度間違っても笑って許してくれる先生は清潔なシャンプーの匂いがする。


 匂いこそ千差万別だが、ミツェルにとって善人は皆心地の良い香りをしていた。これは誰にも話したことはない、ミツェルだけの秘め事。



 ルーミアがミツェルの髪を優しく編んでいると、示し合わせたように他のメイド達がぞろぞろとミツェルの部屋に入ってくる。部屋一面に様々な香りが充満するが、この匂いはどれだけ重なっても不快になることはない。


 ミツェルが何も言わずとも、メイド達はミツェルの顔を洗い服を着せてくれる。だって当然だ。勤勉な人間をミツェルは匂いで嗅ぎ分けられる。



 ミツェルの仕度が概ね終わったころ、長年この家に仕えている執事の爺が部屋をノックした。


「失礼いたします、ミツェルお嬢様。」


「ああ、もうそんな時間なのね。お父様はまだお帰りになっていないの?」


「はい、おそらくもう数日はお戻りになられないかと存じます。」


 ミツェルのお父様にしてホワイトローズ伯爵家当主、ハーパー・ホワイトローズは常に仕事で忙しいらしく、滅多に伯爵邸へ帰ってくることはない。ミツェルの母親はミツェルが幼い頃に既に他界しており、当主不在の領地管理や経営はミツェルが代理で行っていた。


 そのことについて、たかだか十代の小娘に由緒あるホワイトローズを仕切れるわけがないと陰口を叩いていた輩もいたようだが、今ではもうその影すらミツェルは見たことがない。


 それもそのはず、ミツェルの領主代理はこれ以上ないほど上手く成功しており、貴族間で"ホワイトローズ家の一人娘は伯爵夫人さながらで、非常に優秀である"と噂されるほどだ。


 その噂には当然裏がある。ミツェルは母親譲りの容姿こそ優れているが、それ以外は特に秀でたところのない平凡な娘だ。それでも伯爵家が上手く回っているのは、ミツェルが善人を嗅ぎ分けてそれぞれ適材適所に配置しているから。


 不正を働くような異臭のする人間は初めから雇わず、ホワイトローズ家への忠誠心を高く持った優秀な人間のみを採用していく。


たったそれだけでミツェルは才色兼備な伯爵令嬢の名を欲しいがままにしていた。




 爺と共にホワイトローズ家の廊下を歩いていく。この屋敷にはミツェルの好むよい匂いしか存在しない。


「面倒だけれど、仕事は早めに終わらせてしまいましょう。今日の先生はどなた?」


「本日はケヴィン先生で御座います。」


「――そう。分かったわ。」


 爺の言葉にミツェルは少しだけ憂鬱な気持ちになった。伯爵家の一人娘として立派な淑女となるべく、ミツェルは複数の高名な先生から師事を受けている。ケヴィン先生はその中でも一際厳しく、ピリリとしたスパイスのような香りがするのだ。


 悪い匂いではないが、ミツェルはあまり好きではない。出来ることなら常に甘い香りを漂わせている先生が望ましい。


 しかしケヴィン先生も忠実で優秀な先生であることに間違いはない。悪人はもっと鼻が曲がりそうな酷い匂いがするのだ。


 積み重なった仕事の山と鬼の形相をした先生を想像し、ため息をつきながらミツェルは執務室へと足を運んだ。










「お帰りなさいませ、お父様。」


「おお、ミツェル。出迎えご苦労。今日もお前は美しいな。」


「ふふ、光栄ですわ。お父様もお仕事お疲れ様です。」


 長期の出張から久しぶりに帰ってきたお父様をミツェルが労うと、お父様は好々爺のような笑みを浮かべて、恰幅のいい体を隠すコートを脱いだ。


 お父様から煙草や加齢臭のような匂いがするが、それは年齢による体臭だろう。本来のお父様からはホワイトローズの気品ある華の香りがする。


「暫く会えずにすまないな。そちらは大事ないか?」


「はい、こちらは問題なく。既に報告書も出来ておりますので、すぐにお渡しいたします。」


「よいよい。ミツェルのことは信用しておる。それよりお前に色々と土産を買ってきたぞ。」


 お父様は仕事仲間の貴族たちと交流のために出張を繰り返している。由緒ある伯爵家として今後の国を憂える同士との重要な会合だとよくおっしゃっていた。


 内容はしらないが、出張の度に数えきれないほどの土産を持ってくるのは困ったものだ。


 流行りのドレスに大粒の宝石をあしらったアクセサリーの数々。伯爵家の財力ならどうということもないが、それを選んでいるがために出張期間が長くなっているらしいので、伯爵代理を務めるミツェルからすれば早く戻ってきて欲しいのが本音だった。


 とはいえお父様の善意にそんな不満は漏らせないので、ただ微笑んで「ありがとうございます。」とだけ言った。


 それに気をよくしたお父様は「それとな。」と付け加える。


「わしの昔からの友人であるデーベル男爵から一人雇ってほしい青年がいると頼みを受けてな。ミツェルよりいくらか上なんだが、将来有望な若者ということで是非ホワイトローズで作法を学ばせてほしいとのことだ。そこでお前の付き人として雇おうかと考えているんだが、引き受けてくれるか、ミツェル。」


「それは構いませんが…そのように優秀なお方を私の付き人にしてしまってよろしいのですか?」


「はっはっはっ、ミツェルは謙虚だな。信用していると言っているだろう。それに私はまた外出せねばならん予定がある。ならば初めからお前に任せておいたほうがいい。」


 「またお父様はどこかへ行ってしまうのですか?」と言いたくなる口をミツェルはぐっと押し込んだ。きっとミツェルが経営を上手く回しすぎてしまったからこそ、お父様はミツェルに任せておけばいいと思っているのだろう。


 それはとても名誉なことであるが、同時にミツェルにとっては大きな負担となっていた。


「紹介しよう。今日から家で雇うユリウス君だ。」


 お父様が軽く手招きをすると、玄関の奥からすらりとした黒髪の青年がミツェルの前に現れる。彼を見た瞬間、ミツェルの心臓が早鐘を打った。


 見る者すべてを引き付ける端正な顔つきに、優し気でどこか憂いを帯びたアクアマリンの瞳。緊張しているのか、躊躇いがちに微笑む彼はあどけない青年ようで、でもどこか芯のある立ち姿。


 ミツェルの好みのど真ん中を射貫くユリウスを、ミツェルは直視出来なかった。段々と頬に熱が集まっていくのを感じ、どうか化粧で誤魔化せていますようにと強く願った。


 ミツェルは常日頃から領地経営をしているため、滅多に社交界へ出たことはない。

 それでも申し分ない身分と容姿、加えて独り歩きしている噂によって、ミツェルへの求婚は絶えず伯爵家へ来ているが、ミツェル自身は男性と会う機会などお父様を除けば皆無に等しい。


 初めての一目ぼれにミツェルは大きく戸惑った。直視出来ない、でも目を逸らせない。そんな矛盾ともいえる感情がミツェルの胸を強く締め付ける。



彼は一体どんな香りをしているのだろう。



 全てを包み込むお日様の香り?それとも子供のような甘いミルクかしら。ああでも、爽やかなミントも考えられる。


 抑えきれないときめきを胸にミツェルはすんと鼻を鳴らした。


「初めまして、ミツェルお嬢様。デーベル男爵より参りました、ユリウスと申します。本日よりお嬢様の下で学ぶ運びとなりました。何分若輩なもので才色兼備と名高いお嬢様のお役に立てるか分かりませんが、精一杯務めさせて頂きますのでどうぞよろしくお願いいたします。」


 

 ユリウスが慇懃な態度でミツェルへ一礼する。その優雅な仕草と耳障りの良いアルトをミツェルは理解できなかった。




くっっっっっっっっさ!!!!!!!




つい反射で言ってしまいそうになる口を手でぐっと抑える。そして気づかれないようにその手で鼻を強く覆った。

 初対面の人間に対してなんて失礼な態度だろうと思うかもしれないが、そうでもしないと失神してしまいそうだ。


 何十日も放置された生ごみのような、うち捨てられて虫が闊歩する掃きだめのような、それこそ汚物のような吐き気を催す臭いを纏うユリウスに、ミツェルの赤く染まった頬が一瞬にして青ざめる。

 ここまで酷い臭いは生まれて初めて嗅いだ。距離が縮まるにつれてユリウスの周りからどす黒いオーラさえ見えてくる気がする。


 なんの返答もせず黙り込むミツェルに、ユリウスとお父様が不思議そうな顔をする。


これ以上黙っていては不振がられると悟ったミツェルは、誤魔化すように「うふふふ。」と言いながらじりじりと後ずさった。


「申し訳ありません、急用を思い出したので執務室に戻ります。ユリウス様、お話は後程爺を通して伝えますので、お部屋で休んでいてくださいませ。それでは失礼いたします。」


 二人の返事を聞くことなくミツェルは脱兎のごとく逃げ出した。ヒールのまま誰もいない廊下を必死に走るミツェルは鼻の奥に未だ残る刺激臭で、つーんとして涙が出そうになる。あの場で伯爵令嬢の体裁を保てた自分を表彰したいくらいだ。




さようなら、私の初恋。そしてこんにちは、悪人さん。


 あの甘いフェイスの裏に一体どれほどの悪事を秘めているのか。ホワイトローズ家に忍び込んだ盗賊ですらもっとましな匂いをしていた。

 あれ程の匂いはもうホワイトローズを没落させるほどの恨みを持っているに違いない。



 兎に角あの従者はだめだ。下手をすればミツェルが殺されかねない。







 少し時間を空けて、メイドからユリウスが部屋で休んでいるとの報告を受けたミツェルはすぐさまお父様の元へ足を運んだ。

 夕食を食べてくつろいでいたお父様は血相を変えて部屋に飛びこむミツェルのことを心配そうに見つめる。


「ミツェル、急にどうした?先程から様子が変だが、どこか体でも悪いのか?」


「いえ、それは大丈夫でございます。少々話が御座いまして。」


 「夕食を済ませてからでもよいか。」と気楽に尋ねるお父様の言葉を即座に切り捨てて、ミツェルはお父様の対面の席へ腰かける。

 いつになく強引なミツェルにお父様は戸惑った様子を見せるが、基本娘に甘いお父様は食事を続けながらミツェルの話に耳を傾けた。


 伯爵家の危機だというのに呑気なお父様に理不尽な怒りが湧いてくる。ユリウスのことを気づかれないように監視しておけと使用人に命じてはいるが、いつ武器を持ってこちらに襲ってくるか分からないのだ。直ぐにでも彼を男爵の家へ送り返さなければ。



そんなミツェルの必死な訴えをお父様はまったく取り合わなかった。


「ユリウスを男爵の元へ送り返せ?それは出来ないぞ、ミツェル。」


「な、何故ですか、お父様!」



あのような悪人を伯爵家においておけるわけがない。


 悲壮感漂うミツェルの気持ちなどまるで気づいていないお父様は、今晩のメインの子牛のステーキをほおばりながら首を横に振った。ミツェルも先に食べた香辛料のよく効いた柔らかいお肉に、お父様は舌鼓を打つ。


「デーベル男爵がわざわざこちらに頼み込んできたのだぞ。今更送り返せるわけがなかろう。…それに今度限られた貴族しか立ち入れない高級娼館を紹介してくれると言うておったし。」


 小声で付け加えたそれこそが本音なのだろう。娘の冷ややかな視線など気にも留めず、お父様はご機嫌にもう一切れステーキを口に入れる。


そんなだから丸まる太った豚みたいなだらしない体型になるのよ。


 なんて思わず内心悪態つく。それでもなお食い下がろうとするミツェルに、お父様は不思議そうに首を傾げた。


「そんなに邪険にすることはないだろう。ユリウス君は確かに身分のないただの平民だが、デーベル男爵が目にかけるくらい優秀な人材だぞ。お前が一から十まで全て教えなくともよい、少し学ぶ機会を与えるだけだ。」


 それで娘が凶刃に倒れてもよいというのですかお父様。それとも私を通して人体の構造でも教えろと言うわけですか。


 ミツェルは分からずやのお父様に気づかれないようにドレスのスカートをぎゅっと握りしめる。


「それともなんだ。彼に気に入らない点でもあったか?」


「そうなんです、お父様。だって彼は―――」


 ようやくお父様が出した助け舟に、意気揚々と乗ろうとしたミツェルはそこで言葉を切った。

 ユリウスは間違いなくホワイトローズ家に害をなす悪人だ。しかしそれはミツェルの胸中だけであり、今はまだ彼は善良なただの使用人である。


彼を送り返す正当な理由は存在しなかった。


「彼は?」


 不意に口を閉ざしたミツェルへお父様は先を促す。「彼は、そのー、えっと。」と口ごもりながらミツェルは必死に頭を回した。


 そこへお父様の食卓からピリリとしたスパイスの香りが立ちこめる。


その瞬間ケヴィン先生がおっしゃっていた言葉が脳裏を過った。




「いいですか、ミツェルお嬢様。あなた様はこのホワイトローズ家を内から支えるのちの伯爵夫人でございます。お嬢様は今後様々な人間とよい関係を構築しなければならないのです。その時に自身の胸中をそのまま晒してはいけません。かといってあからさまな嘘を吐けば勘ぐられてしまいます。真実を誇張し、上手く混ぜて語りなさい。」




 それを聞いた時は良い関係を構築するなら本音で話した方がいいじゃないかと考えていたものだが、上手な嘘と言うのは確かに大事なものであるとミツェルはついに思い当たる。

 鬼教師と詰ってごめんなさいと謝りながら、先生から教わったことを反芻した。



 真実を織り交ぜて、本音は隠す。波風を立てないように、しかし自分の意見ははっきり通す。

 ミツェルは辺りを漂うスパイスの香りを肺全体に吸い込んで深呼吸をする。そっと頬に手を添えて、躊躇いがちに口を開いた。


「わ、私、ユリウス様に一目ぼれをしてしまったようなのです。それで先程はつい逃げ出してしまいました。どうやら彼を見ると私は平静でいられないようなのです。なのでお父様に彼を男爵の元へ帰すようお願いしたくて…」


 言葉尻がどんどん小さくなっていくミツェルは本当に恋する乙女のようだ。脳裏に住むケヴィン先生に感謝しながら、ミツェルは達成感で胸がいっぱいになった。


 完璧だ。これ以上ない見事な演技にミツェルは頭の中で自身にとうとう表彰状を送る。


 大胆な告白を受けたお父様は目を丸くしながらも「そうか。そうだったのか。」と納得して呟く。

 それに呼応してミツェルが「そうなんです、お父様。」何度も頷くと、突然お父様は豪快に笑い始めた。


「はっはっはっ、なんとミツェルは奥ゆかしく愛らしいのだ。そうかそうか、あのような男が好みか。ならば気が済むまでお前の傍に置くとよい。」


その言葉を聞いた瞬間、発条が止まった人形のようにミツェルが固まる。


「お、お父様…?私のお話をどうか聞いてくださいませ?」


「ん?確かに私は聞いたぞ。そう遠慮せずともよい、デーベル男爵も教育はこちらに一任すると言っておった。」


「で、ですから、ユリウス様を私の傍に置くと仕事に支障が出てしまうのです。私では力不足ですわ。」


 暴れだしたくなる感情を抑えて、ユリウスに恋をしたミツェルをひたすらに演じようとする。手を胸に添えて頬を染めるミツェルがいったいどう見えているのか、お父様は「ぐふふ。」と下卑たあくどい笑みを浮かべた。


「それほどまでに惚れてしまったのなら、お前の愛人にでもするといい。大丈夫だ、デーベル男爵にはこちらから上手く言っておこう。あれは既にお前の従者だ。ミツェルの言うことならどんなことでも断れはせん。ユリウス様ではなく、ユリウスと呼びなさい。」



だから!そうじゃ!ない!


 とてつもない勘違いをし始めるお父様にミツェルはとうとう頭を抱えた。あんな悪人を愛人にする?そんなことをしてしまえば、すぐに私の命はないだろう。


もういい。お父様は信じられない。高級娼婦なんかに足を運ぶ浮かれたお父様なんかあてにするのが間違いだった。


 私は次期ホワイトローズ伯爵夫人。この程度のこと私一人で何とかして見せる。






 そう決意し、自室に戻ったミツェルはふかふかのベットに寝転がる。そばに置かれている花瓶にさされた一輪のホワイトローズの香りがミツェルを慰めた。

 おそらくルーミアが飾ってくれたのだろう。その小さな気遣いに心が温かくなるのを感じる。


 私には、私を思ってくれる可愛い従者がいる。寧ろユリウスが悪人だと早々に気付けて良かった。


「見てなさい。あの胡散臭い笑みを必ず剥がして、その企み阻止してやるんだから。」


 不敵な笑みを浮かべたミツェルは花瓶の薔薇を丁寧に抜き取る。ホワイトローズの華を胸に抱きながらミツェルはゆっくりと眠りについた。









 案内された自室からバルコニーに出たユリウスは雲一つない満天の星空を眺めていた。辺りに人がいないことを念入りに確認し、張りつめていた緊張感を深いため息に混ぜる。


 流石に夜中まで監視するつもりはないらしい。


 ユリウスはどこへ行っても纏わりついてくる白い薔薇を忌々しそうに見つめた。


 ホワイトローズ伯爵家の白い花弁の奥に隠された秘密を見つけ出す。それこそが主人であるデーベル男爵に命じられた自分の任務だった。

 成功すれば昇格が約束されている諜報活動に自ら飛びついて名乗りを上げたが、考えていたよりもこれは大変な任務かもしれないと今になって思う。


 平和ぼけした貴族なんて軽く騙せる。ユリウスはそう考えていた。

 実際、豚と相違ない体つきをしたハーパー・ホワイトローズ伯爵はユリウスの微笑みにすっかり丸め込まれていたはずだ。余程の狸でなければ、だが。


 ホワイトローズ家には直系がたった二人しか存在しない。後は年端も行かない一人娘を軽く手懐けるだけ。そうすれば隙を見て幾らでも屋敷内を物色出来る。

 ホワイトローズという名に違わぬ、白髪白眼の人形のような少女に出会うまではそう考えていた。


 ユリウスが理想の好青年の役を演じて挨拶を交わそうとした瞬間、ミツェル・ホワイトローズの様子が一変した。父親を出迎えた時は人当たりの良い整った笑顔をしていたというのに、ユリウスを見るやいなや血相を変えて後ずさったのだ。



 述べた言葉は何てことない定型文だったはず。あの少女が一体何に気付いたのか分からないが、勘付かれたのは紛れもない事実であった。


 その証拠にミツェルと別れたユリウスの周りには常に見張りが付けられ、結局今日一日を屋敷の一室に閉じ込められたまま無為に過ごす羽目になった。


 その見張りが自分の気配を隠すことない素人だったことも、自分への警告文だったのではないかと勘繰りたくなる。



 十代の少女に見破られたという事実が、ユリウスの自尊心を酷く傷つける。掌で踊らされているような不快感に身を任せ、そばに咲いていた白薔薇を一つ千切った。


 此れだけ咲き誇っているのだ、一輪くらい無くなっても気づかれないだろう。


 ユリウスは手にささる棘など構わず、白い花弁を力任せに握りつぶす。ようやく逆立った感情を抑えることが出来そうだった。


 まだ、企みが全てバレたとは限らない。どうせ任務達成まで帰ることが出来ないこの身だ。自暴自棄になるのはまだ早い。



 とはいえ期限は容赦なく迫ってくる。主人の言っていたことが真実ならば、間に合わなければ国家そのものが無くなってしまうかもしれない事態になってしまうらしい。

 自分の手に託された重要任務がずしりと重くのしかかる。


「とにかくまずはあの娘の警戒心を解くことから始めないとな。」


 掌でぐしゃぐしゃになった花びらを見つめながら、ユリウスはそう呟く。ホワイトローズ邸にはハーパーはほとんど帰らず、今は亡き伯爵夫人に代わって娘のミツェルが管理しているらしい。

 ハーパーの方は主人のデーベル自ら探ると言っていたため、ユリウスの相手はあの白い令嬢となる。


 今はまだ迂闊に動く時じゃない。まずは無垢な好青年のように印象付けるところから始めなくては。


バラバラになった花びらを無造作に庭に放り投げたユリウスは部屋の奥へ姿を消した。


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