第13話: その時、歴史が動いた(なお、当人は知らない)



 ──『東京優駿』。



 後に、『日本ダービー』という名の方が知られるようになった、そのレースの始まりは……不思議と、静かであった。


 とはいっても、全くの無音というわけではない。


 なにせ、数えるという考えが思い浮かばないぐらいに人が集まっているのだ。


 全員が一斉に呼吸を合わせて口を閉じているならまだしも、そうではない。


 ポツポツと、耳を澄ませてようやく聞き取れる程度の独り言でも、数が合わされば……それはもう、騒音でしかない。


 でも、それでもなお、静かであった。


 少なくとも、初めて体感する空気の中でも、今がとても静かであることを……千賀子は、察していた。



 ……その静けさを待っていたかのように、馬たちがコース上に姿を見せる。



 今日この時、『東京優駿』を駆ける馬の数は、28頭。


 それが多いのか少ないのか、千賀子は知らない。しかし、体重400kg越えの動物が28頭も集まれば、中々に壮観である。


 ちなみに、現代では最大18頭という制限が設けられている。


 理由はまあ、馬の安全のためだ。


 競馬は、よほど距離が短くない限りは基本的にグルリと楕円のコースを回るか、スタートしてすぐにカーブに入ってしまう。


 つまり、より内側の場所を引き当てたら、それだけ走る距離が短くなるので有利になる。


 もちろん、競馬というのはそんな単純な競技ではないが、物理的に距離が短くなるのは事実である。


 そして、騎手の誰も彼もが内に入ろうとするので、それだけ密集すると人馬ともに危険だということだ。


 後はまあ……頭数が増えるとそれだけ配当が増える(ハズレを惹き易くなる)ので、射幸心を抑えるという意味でも18頭に減らされたというわけで……話を戻そう。



「うわぁ、馬主席ってすごい良く見えるんだね」

「凄いでしょ~、あ、ほら、見てみて、アレがポンポコシップウだよ~。黒い帽子の、あの横歩きしている馬だよ~」

「は? 横歩きって……えぇ、本当にカニみたいに横歩きしているよ……え、なに? なにあれ? 馬ってあんな動きするの?」

「普通はしないけど、シップウは気合十分な時は横歩きするんだよ~、ほら、歯茎を出して笑っているでしょ? アレはね、とってもご機嫌な時にするんだよ~」

「えぇ……(呆れ)」

「たぶん、お世話の人にいっぱい『カッコいい!』って褒められたんだと思う。あの子、褒めてあげるとすごく調子が良くなるからね~」

「馬ってそんなに頭良いの?」

「他のは分からないけど、ポンポコって名が付いている馬は、けっこう不思議な癖を持っていることが多いってパパが言っていたよ」

「え? じゃあ、なんでそんな馬をわざわざ買ったの?」

「そりゃあ、可愛いからね~」

「えぇ……(呆れ)」

「ところで千賀子は、どの馬に賭けたの~? 私はポンポコシップウに賭けたけど~……ポンポコに、賭けてくれた?」

「え、賭けないよ。いくら友達の馬だからって、お金を賭けている以上は素直に賭けるよ」

「う~、千賀子はそういうところあるよね~……で、どれに賭けたの~?」

「ん~、5番の『コダマ』を単勝。あとは、13番のヤマニンモアー、26番のシーザーを合わせて複勝かな」

「へ~、人気どころで固めたんだ~」

「え、そうなの? いや、これかなって適当に選んだだけだから……」

「ちなみに、ポンポコシップウは~?」

「8着ぐらいかなって」

「ええ~? なんか具体的だね~」

「これが3000m越えだったら、そっちを単勝にしたかもね」

「う~ん、これって褒められているのかな~?」

「褒めているよ……ところで、そろそろ遠藤くんを放してあげたら? なんか諦めの境地みたいな顔になっているけど?」

「あ、ほら、こっちに手を振ってくれているよ、みんな気合十分だね」



 一般人である千賀子たちは、本来ならば他の者たちと同じく一般の客席からレースを見守るしかない。


 しかし、道子父の御厚意により、千賀子たちは馬主席からのレース観戦をさせてもらえることになったのであった。



 ……そんなに簡単に馬主席に入れるのかって? 



 基本的に、馬主より招待されたら誰でも入ることが可能である。


 まあ、さすがに危険物を持ち込んでいたり、酒に酔っていたり、あるいは明らかに不適切な恰好や状態だったならば、話は別だ。


 ……とはいえ、今回ばかりは、それだけが理由ではない。



「いやあ、本当にすみません。千賀子だけでなく、ワシまで招待してもらえるとは……」



 少しばかり居心地悪そうにしながらも、その目は……友人の隣で楽しそうにしている孫娘を、優しく見つめている。



 ……祖父が、居心地悪そうにするのも、致し方ない。



 なにせ、馬主に成れる者は、様々な条件を満たした者に限られる。それは現代でも、昭和でも、変わらない。


 加えて、今日は『東京優駿』。


 日本競馬において最高峰のレースといっても過言ではない、そんな日なのだから、普段よりも気合を入れた正装で来ている者ばかり。


 お出かけ用に一張羅を引っ張り出しているとはいえ、祖父はあくまでも庶民の出だ。


 服はあくまでも着る者の魅力を引き出すためのモノだが、さすがに値段が10倍も20倍も違えば、こう……また話が逸れたので、戻そう。



「いえいえ、御気になさらず。千賀子ちゃんも、お爺さんと一緒の方が安心して見ていられるでしょうから」

「そう言って貰えると、ワシとしても気が楽になります。みんなへの自慢話にも出来ますから」

「ははは……でも、実はそれだけじゃないんですよ」

「……? と、言いますと?」



 首を傾げる祖父に、道子父はキョロキョロと視線で周囲を……周りに気取らせないよう確認した後、こそっと祖父の傍にて声を潜めた。



『台風の件で、お世話になりました』

「──っ!?」



 ギョッと目を見開く祖父を尻目に、道子父は……フフッと意味深に笑みを零した。



『娘の道子から聞きましたよ……あの忠告のおかげで、私共も大変助かりました。アレが無かったら、事業を畳む人が出ていたかもしれません』

『あ、ああ、あれですか。いやあ、アレは、虫の知らせみたいなものでして、御気になさらず』

『……これは、独り言なのですが』



 遮るように、道子父はポツリと告げた。



『極々一部ではありますが、千賀子ちゃんを注視している者がいるという噂が私共の耳にも届いておりまして……』

『──っ!?』



 辛うじて……祖父が表情を変えなかったのは、経験から来る胆力のおかげであった。



『もちろん、極々一部です。しかし、偶然も重なれば奇跡となり必然となり、あるいは予言にも成りえます』

『…………』

『お爺さん、貴方は既にお気付きのはずだ……千賀子ちゃんは、普通の子ではない。ある種の、神通力のような……理屈では説明出来ない、そういう力を持っている』

『……あの子は、普通の子だ。甘いものが好きな、優しい子だ』

『もちろん、私共もそう思っております。ですが、普通ではありません。良くも悪くも、千賀子ちゃんはただそこにいるだけで……いえ、止めましょう』



 そこまで言い終えた時点で、道子父は……そっと祖父から離れると、その肩を優しく叩いた。



「私共には、恩があります。千賀子ちゃんは気付いていないし想像すらしていないでしょうが、道子からの話によって……これまで幾度となく、助けられました」

「……それは、おたくの家に嫁入りさせろ、というわけか?」

「いいえ、とんでもない。そもそも、私には娘は居ても、息子はいませんから」



 絞り出すように祖父が問い掛ければ、道子父は……心外だと言わんばかりに、苦笑をこぼした。



 ……いちおう言っておくが、昭和のこの時代、祖父の年代であれば、その懸念は当然のモノである。



 と、言うのも、昭和末期頃ならともかく、今のこの頃ではまだまだ、結婚=家と家同士の結束という考えが現役である。


 つまり、この頃の結婚というのは、家の都合or親同士の決め事によって決定されることがそう珍しい話ではなかったのだ。


 もちろん、全てがそうではない。


 この時だって恋愛結婚は普通にあったし、家柄に理由が無く、相手に問題が無ければ、そのまま結婚というのも普通の流れであった。


 あくまでも、珍しくは無かっただけ。


 そして、祖父の感覚では、結婚というのはそういう理由で成されるのも当たり前という感覚があったから……で、だ。



「それに、気を悪くさせてしまったら申しわけないのですが……おそらく、千賀子ちゃんは家庭に収まるような娘ではないと思います」

「それは……ワシも、そう思う」



 失礼な言葉だが、それでも、祖父は……道子父の予想を否定はしなかった。


 なぜなら、祖父も同意見だから。


 これから先どうなるかは誰にも分からないが、並みの男では……劣等感を覚えるばかりで、潰れてしまうのがオチだと密かに考えていた。


 なんと言い表せば良いのか……千賀子は、発想の根本が違うのだ。


 視野の広さが違う、視野の深さが違う、視野の長さが違う……一般人とは、物の見方、尺度の桁が違う。


 我が孫娘ながら、いったいあの子の目には世界がどう映っているのか……頼もしさを覚えれば良いのか、恐ろしさを覚えれば良いのか……そう、祖父は思わずにはいられなかった。



「ただ、それが偶然だとしても、あるいは、私たちでは計り知れない存在の加護を持っているとしても、今後の身の振りは考えておくべきかと思います」



 そして、そう続けられた道子父の言葉に……祖父は、静かに頷くしか出来なかった。



 ……。


 ……。


 …………っと、その時だった。



 それまでも騒がしかったが、一気に馬主席でも騒がしさが増す。ハッと二人が席を立って前に出れば、決着までもう間もなくであった。




 ──先頭を行くは、『コダマ』。



 この馬は、モノが違う。


 とある名伯楽(はくらく:馬の良し悪しを見分ける人)の言葉通り、その馬はモノが違った。


 しかし、それは結果論。


 夢の超特急『こだま』にあやかったその馬は、デビュー当時……けして、見栄えのする馬体ではなかった。


 ずんぐりむっくり……とは言い過ぎだが、一部では『牛のような馬体だな』と揶揄される……そんな馬だった。


 しかし、その馬はそうならなかった。


 『こだま』に負けず劣らずの、素晴らしい才覚を秘めていて……そして、今日この時、それは改めて開花していた。


 デビューから一切傷無しの連戦連勝、皐月賞を制した1番人気のその馬は、追いすがる優駿たちを軽やかに置き去りにし、スルリと前へ行く。


 もちろん、他の優駿たちも、騎手たちも、黙って見てはいない。


 今年の日本一に輝くのは俺たちだと言わんばかりに、騎手たちは鞭を振るう。馬たちも、本能の疼きに従って、負けてたまるかと懸命に足を動かす。



 けれども、追い付けない。


 先頭を行くその背中が、遠ざかってゆく。


 もはや、誰にも止められなかった。



 まるで、これからの時代を象徴するかのように、ジリジリと距離を開き続けるその馬は……見事、『東京優駿』までをも制したのであった。



 しかも、レコードタイムを記録して。


 誰も彼もが、興奮を抑えられなかった。


 それは、馬主席に居る者たちとて例外ではない。


 誰だって、自分の馬が負けるのは嫌だ。


 しかし、『レコードを出すような馬が相手なら、負けても仕方がない』という具合に変わった。


 いや、それどころか……それほどの馬を見極め、見事に育てた『コダマ陣営』に、思わず拍手をした馬主すら居た。


 そうだ、その名を、誰も彼もが忘れはしないだろう。


 無傷でダービーを制した馬として、長く語り継がれるだろう……そう、誰もが思ったのであった。



「うぇ~ん、パパ~、シップウが負けちゃったよ~」

「ははは、仕方がないよ。シップウも一生懸命頑張ったんだ、一番悲しんでいるのはシップウだから、後で慰めに行こうね」

「うん、うん、でも、ぐやじいよ~……まごどぐ~ん、ぎゅっどじで~」

「あ、はい」

「すまないね、誠くん。うちの娘が迷惑を掛けて……」

「い、いえ、いいんです! 頼られて、嬉しいので」



 まあ、さすがに小学生の道子は、愛着のあるポンポコシップウが負けたのが悔しくて、父に慰めてもらっていたけど。



 ……。



 ……。



 …………さて、しかし。



 その中で、祖父だけは……あえて表情を引き締めると、暢気に手を叩いて称賛を送っている千賀子へと、歩み寄った。



「千賀子……どうだった、今年の日本一の馬はよう」

「凄いね、お爺ちゃん。初めて見たけど、なんか……凄いよ!」

「そうだな、凄いな」

「うん、うん……凄いなあ、新記録だって!」



 そう答えた千賀子の顔は、興奮で少しばかり赤らんでいた。


 前世の記憶があるとはいえ、千賀子がそうなってしまうのも致し方ない。


 なにせ、数万人という人たちの熱気が集まるのだ。


 スタート直後こそただの歓声であったが、それがゴールへと近付いた時……まさしく、嵐の中に1人で立ち尽くすかのような、強烈な気分になった。


 それは、実際に体感せねば分からぬ力であり、その高まりに堪らず当てられてしまったのであった。



「千賀子、見るんだ。勝負の世界ってのは、こういうものだ」

「え?」

「2着より下の馬たちだ……だ~れも、気にも留めてねえ。どいつもこいつも、勝ったコダマだけを見てやがる」

「……お爺ちゃん?」



 だからこそ、祖父は……あえて、その興奮に水を差した。



「おまえが勝負を避ける気持ち、それはワシにも分かる。なんてったって、勝負の世界ってのは残酷だからな」

「…………」

「泣こうが喚こうが、負けたやつに向けられる称賛の声なんてものはほとんどねえ。せいぜい、勝ったやつの引き立て役として引っ張り出されるぐらいだ」

「……お爺ちゃん」

「だがな、千賀子。それでもよ、人間様ってのは勝負をしなければならん時が来るんだ」



 ──ぽん、と。


 千賀子の……小さな、年相応の華奢な肩に手を置いた



「あの場で走れたやつは、勝負をしたからだ。傷が有っても無くても、勝負をして……掴み取れたやつが、次の勝負の場に立てた」

「…………」

「いいか、千賀子。逃げるのはいいんだ。だが、負けるのが嫌で逃げたやつは、あの場に立つことすら出来なくなるんだ」



 その言葉と共に、祖父は……ゆっくりと屈むと、千賀子と目線を合わせた。



「それになあ、千賀子……勝ったやつだって、何時までも勝者のままじゃあいられねえ」

「え?」

「もっと凄い馬が生まれたら、あっという間に過去の栄光だ。それに、10年、20年も経てば、ワシみたいな物好きぐらいしか覚えているやつはいなくなる」

「…………」

「でもな、千賀子。そこには確かに、居たんだよ」



 どん、と。


 祖父の、日に焼けて……年月を感じさせる、皺とヒビが目立つ拳が、千賀子の胸を軽く叩いた。



「確かに、居たんだ。名前が残らなくても、皆が忘れても……最後まで諦めずに戦ったやつらが居たんだ」



 ──その時。



 千賀子は、見た。


 祖父は、己を見ている。しかし、己を見ていない。


 どこか、遠いところを見ている。


 それが場所なのか、あるいは記憶の……どこか遠い、もはや忘れ去られた……いや、止めよう。



「最後に選ぶのは、千賀子だ。でもな、せっかく挑戦出来る時代に生まれたんだ。和広も、お前も……これからの人間なんだ」

「お爺ちゃん……」

「なに、勝負ってのは負けて当然、失敗して当たり前なんだ。それを笑うやつなんて、ハナからそこに立てない格下のたわ言だと思って聞き流せばえ」

「……うん!」



 そんなことよりも……千賀子は、フッと身体が軽くなる感覚を覚えた。


 それは、物理的な事じゃない。無意識に強張っていたナニカが、フッと緩んだかのような……そんな感覚であった。


 ……そうして、ふと。



「あっ、忘れてた」

「ん?」

「単勝は当たったけど、他のは当たっているのかな?」



 そういえば、馬券を買った事を思い出し……祖父に、馬券を見せる。「ふむ、もう他も確定しているだろうから……」受け取った


 祖父は、キョロキョロと室内を見回し……近くに居た職員に着順を聞いた後。



『……千賀子、態度に出すなよ』

「???」

『当たっているぞ、両方とも。喜べ、万馬券の大当たりだ……家を何軒も建てられるぐらいになったぞ』

「……う~ん、そっかぁ」



 もう一度、キョロキョロと周囲を見回した後で、祖父からこそっと声を潜ませて教えてもらった千賀子は……どうしたものかと、首を傾げた。


 いったいどうして悩むのか……それは、大金がもたらす厄介事を前世にて既に経験しているからだ。



 それは、宝くじで10万を当てた時。



 詳細は省くが、要は、噂が噂を呼んで、何時の間にか1等を当てたと誤解された結果の、しょうもない騒動だ。


 なんていうか、未だに人間ってやつは……と思い返すほどに酷い有様だった……で、話を戻そう。



 とにかく、困ったぞと千賀子は思ったわけだ。



 なにせ、現代とは違って、昭和のこの時代では個人情報保護なんて考えはほとんど根付いていない。


 他人の事情を片っ端からスピーカーして回るやつもいるし、企業が顧客情報を他所へ渡すなんてのも、上から下まで当たり前のように行われていた……そういう時代なのだ。


 そんな時代で、万が一にも大金が手に入ったと周囲に知られたらどうなるか。



(……四六時中、恵んでくれ寄付してくれって押し掛けてくるだろうなあ)



 かといって、せっかく当てた馬券を、必要ないからと捨てるのは……それはそれで、余計な騒動を生みそうではある。



 ……



 ……



 …………どうしたものか。



「なんだ、ワシにくれるのか?」

「欲しいの?」

「ワシが、欲しがっているように見えるんか?」

「見えないけど、お土産代は?」

「安心せい、既にちょろまかしておるよ」

「お爺ちゃん、そういうところ、あるよね?」



 チラリと目線を向ければ、祖父はそう言って受け取ろうとはしなかった……まあ、うん。


 千賀子が逆の立場だったなら、金一封ぐらいならともかく、さすがに全部を受け取ったりはしなかったので、特にそれ以上を詰めるつもりは……仕方がない。



「ん~……おっ?」



 しばし、キョロキョロと馬主席を見回した後で……ふと、少し離れたところで……なにやら、馬主席に座り込んだまま、思いつめた様子で俯いている男に目が止まった。



 ……なんか、お金に困ってそうだな(偏見)。



 馬主席に居る時点で(あと、服装からして)お金に困っているようには見えないが、そうだろうと決めつけた千賀子は……タッタカと駆け寄った。



「ん? 君は……?」

「こんにちは、おじさん。おじさんも、馬主さんなの?」

「え、あ、いや、違うよ。知り合いに誘われてね。まあ、負けてしまったけど」

「それは、残念だね」



 当然ながら、知り合いでもなんでもないので、男は訝しみつつも、相手が子供だと分かって……幾分か、表情を和らげた。



「それじゃあ、はい。負けちゃったおじさんへの残念賞。これあげるから、落ち込まないで頑張ってね」

「え、これって……あっ、ちょ、きみ!?」

「じゃあね、おじさん! ちょっとくらい失敗したからって、くよくよしてちゃあ駄目だよ! 負けてもともと、まだまだこれからだよ!」



 子供の、それも雰囲気からして只者ではない少女を強引に捕まえることが、男には(傍から見て、よろしくないので)出来なかったのだろう。


 なにやら、苦笑しつつも少女に引っ張られて離れていく老人の存在も気になったが……周りの目もあって、追いかける事はしなかった。






 ……。


 ……。


 …………そうして、だ。



「これは、馬券か?」



 とりあえず、改めて……男は、見知らぬ少女から受け取った馬券へと視線を落とす。



 ……先ほど少女に語った話には二つ、間違いがある



 それは、男は確かに馬券を外したが、別に当てようと思って馬券を買ったわけではない、ということ。


 そして、知り合いに誘われたと言ったが、それは嘘で、本当は1人でここに来ている、というものだ。


 なんでそんな事をしているのかって……それは、今日の競馬が、男にとってはある種の願掛けみたいなものだったからだ。


 己がこれからも行く先、それはいばらの道。いや、茨などという生易しい言葉では足りえない、戦いの世界だ。


 そこへ、今後も己の実力が、才覚が、学歴の無い己が、戦っていけるのか……男は、迷っていた。


 そんな男が、こうしてココに居られるのは、思い悩んでいた彼を見た知り合いが、『日本一の馬でも見て、気分転換しろ』と招待してくれたからで。


 その厚意を有難く受け取った男は、胸中のモヤモヤを晴らすためにも、今日の競馬に参加していたわけである。



 だが、結果は惨敗も惨敗。



 朝からずーっと賭けているが、一番惜しかったのでも3着。それ以外はまあ、5着にも入らなかった。


 これは……競馬に向いていないだけなのか、それとも……その道にはこれ以上進まない方が良いという天からの忠告なのかだろうか。


 ただの願掛けのつもりだったが、こうまで見事にハズし続けると、どうにも気分が落ち込んでしまうのを、男は抑えられなかった。



 ──そんな時に、唐突に手渡された、この馬券。単勝馬券と、複勝馬券。



 実は、先ほどのレース……男は賭けていなかった。


 これでも外したら、いよいよ……と脳裏を過ってしまうぐらいに落ち込んでいたこともあって、怖くて買えなかったのだ。


 おかげで、レースもまともに見ていない。


 いちおう、レースの結果だけは確認していたが、それだけだ。正直、このまま帰ろうとすら思っていた。


 けれども……こうして貰った以上は、どんな形であれ厚意を無駄にするのは主義に反する。



(ふふ、とはいえ、当たっていてもせいぜい……せい……え?)


 ──え? 



 思わず、席を蹴飛ばさん勢いで立ち上がった男は──慌てて、少女が駆けて行った先へと振り返ったが……当然ながら、そこにはもう、少女の姿などなかった。



 ……。



 ……。



 …………この時の男の内心は、とてもではないが……言葉に表せられるものではなかった。



 だが──この日、この時、この瞬間。



 男は、己の胸中に蔓延っていた不安が、瞬く間に消え去ってゆくのを……力強く実感していた。


 と、同時に……男は、心から感謝した。


 名も知らぬ、美しい少女の笑顔に。『負けてもともと』と、丸まっていた男の背中へ活を入れてくれた……その、言葉に。



(何時か……機会が巡れば……必ず、この御恩を……!!)



 これから先、この世界で戦って行こうと思うなら、金が無くて困ることはあっても、有って困ることはほとんどない。



 ──ありがたく、使わせてもらおう。



 そう、男は……少女が消えたその先へ、深々と頭を下げたのであった。





 ……。



 ……。



 …………そして、だ。



 この時、そんな決心が固められていることなど知る由もない千賀子もまた、万馬券を手渡した男の名を知らなかった。


 しかし、その名は千賀子の前世においてはあまりに有名で、仮に千賀子が知ったなら……それはもう、驚愕に飛び退いたことだろう。


 なにせ、この男は、ただの男ではない。


 千賀子の前世においては、約2年間にも渡って内閣総理大臣を務め、昭和の豊臣秀吉とも呼ばれるようになり、教科書にも載るようになる……有名人なのだから。





―――――――――――――――――――


※ポンポコシップウの秘密(ポンポコの呪い)


『かっこいい』と褒められると調子が出る馬だが、実は褒められる回数によって、その時走る距離をシップウ自身が調節する

例えば、200回褒めると3000mを最速で走り抜けるよう自力でペース配分を行い、50回なら1200mを最速で……というもの

当然、気付いている者は誰もいない

褒める回数が見事かみ合えば、この日のレコードはポンポコシップウだったかもしれないが……全ては、後の祭りである。


ちなみに、この日のシップウの最速&最適距離は3200m、3分14秒台を叩き出せたかもしれないとだけ記載しておく








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