喧嘩師の花/Sと4

水野いつき

喧嘩師の花

第1話

 素手で喧嘩に勝ちたいなら頬骨を叩き割るのが一番早い。コツはひとつ、躊躇しない。




 ――終電間際の繁華街。歩きスマホが近付いてくる。すれ違いざま、触れる程度に肩がぶつかった。そのまま通り過ぎようとする男のつま先を踏み、立ち止まった体を胸で押し返した。


「あの、何か……」

「左ポケット」

「え?」

「返して」


 きょとんとしていた男は、お面のように人相が変わった。十も二十も老けた男は、私の腕時計を高く投げ、外野手のように目で追わされている隙に消えてしまった。

 すられた時計は貰い物だった。他人との関わりは避けたいが、知らないスリ師に見す見すくれてやるのは惜しかった。

 付け直そうと裏蓋を手首に当てた。目を疑い、舌打ちをした。


「あのクソ野郎」


 悔しいが、見事なすり替えだ。円形に十二まで並んでいるはずの数字は、電話番号になっていた。



 ꕤ ꕤ ꕤ



 私の庭には花壇がある。最初に見たときは過度な装飾だと感じ、全て抜いてしまうつもりでいた。茎をつまみ、根の緩みを感じていると、いつの間にか後ろに立っていた恋人が「綺麗だ」と言った。慌てて抜いたばかりの花を地面に埋めたが、力加減を誤りポキリと折れてしまった。優しい恋人の悲しむ顔がよぎり慌てた。茎の断面からじわりと染み出た水分は花の涙にしか見えず、困り果てると、恋人は折れた花を私の耳にさし、満足したように笑った。

 いつも穏やかだった。そうやって八年間共に暮らしたあと会えなくなり、今は平屋の一軒家と色とりどりの花だけが残っている。



 花の水やりと起き抜けのコーヒー。私の習慣はこれだけだ。イレギュラーがあろうと変わらない。昨夜の偽物の腕時計は、繁華街の側溝に捨てた。


 何も変わらない朝、水やりのため外へ出た。

 顔だけが入れ替わる子供達が、今年も庭の花を見ている。刺激しないように近付き、花を手折って差し出した。ギョッとした目で見られ、気まずそうに下を向かれたが、受け取るまで微笑んでやる。


 毎年この時期、花を折られた。一年目、二年目までは子供のすることだと黙って見過ごした。三年目、何かあると気付いた恋人が子供に尋ねると「理科で押し花するの」と言って顔を真っ赤にした。はなからとがめる気などない恋人は大喜びで容認した。こそこそしなくても、いくつでも好きなだけ選んでいいと微笑んだ。


 そして恋人はこの世からいなくなり、花も子供も好きではない私は彼の精神だけを引き継いだ。そうすれば、ここはまだ恋人の聖域だと思っていられる。


 私の手から引ったくるように花を受け取った子供達が、犬の子のように走り去っていった。


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