しんどい君(現代ホラー)

 ◆


 出勤!!!!


 新戸 功しんど いさおは酷く憂鬱な気分で家をでる。


 ここ最近の忙しさときたらなかった。


 功は白猫ニャマトの配達員として働いており、通販サイトの普及によって、彼の仕事量は天井知らずで増加していたのだ。


 通勤路でふと道の端に目を遣ると、瓶に数輪の花が活けてある様子が目に留まる。恐らくはここで誰かが亡くなったのだろう、事故か…それとも。


 だが、功が注目したのは瓶だ。


 瓶が倒れてしまっているのだ。


 功はそれを元に戻し、軽く手を合わせてその場を立ち去った。


 これは別に今日この時に限った話ではなく、数日おきにやっている事でもある。


 元々舗装が荒い道なので、ちょっとしたことで瓶が倒れてしまうのだろう、功は目についた時は必ず戻してやっていた。


 彼自身としては特に思う所はない。善行を積んでいる気は功にはなかったし、ただ、何となく嫌だっただけだ。深い理由などはなかった。


 ◆


 その日、功は忙しかった。


 とにかく忙しい。


 朝早くから夜遅くまで彼のスケジュールは配達で埋め尽くされている。


 朝一番に配送センターに到着すると、彼を待ち受けるのは山のような荷物の海。


 魔界ならぬ、魔海である。


 この配送センターでは余りの過酷さのため、定期的に自殺者が出ており、センターの各所にはお札などが貼ってある。


 朝、功は出勤すると剥がれかけているお札をみて、それを丁寧に張りなおした。このお札はトイレの脇に貼ってあり、札には複雑な字体で何か書かれている。


 鎮魂だかなんだか、その程度しか功には読み取れないのだが、毎日必ず剥がれかけているこのお札を丁寧に貼りなおす事が功の日課となっていた。


 そしてこの日、功が配達前の大便を済ませようと気張っていると突然電気が消え、トイレは暗闇に包まれた。


 ガタン、バタンと音がなり、功は不意に視線を感じて扉の上方を見ると、青白い顔色のナニカがこちらを見下ろしていた。


 覗きではない。


 そもそもそのナニカには目がないのだ。


 真っ暗な眼窩でこちらを見下ろすナニカ…


 功がアッと間の抜けた声をあげると、電気はすぐについた。ころりと足元に何かが転がっている。


 それはトイレットペーパーだった。


「ア……」


 功はぼんやりとそれを見つめ、拾い、新しく取り換える。紙がないことに気付かない功だったが、窮地に一生を得た形となる。


 自身が見たものがなにか、功はもはやそんなことはどうでもよかった。彼の頭の中は山のような荷物をいかにして配達するか、その一点に集中しているし、全く取れない疲れで朝から半鬱病のような感じとなっている。過労の崖の縁に立つ功、あとひと押しで奈落に落ちるであろうことは明々にて白々だと言わざるを得ない。


 功は深く息をつくとウォシュレットのボタンを押し、尻を洗浄する。


死ぬ程忙しい一日が始まるが、しかし功には逃げ場がない。ここ最近の功はその逃げ場をどうにかして作ることが出来ないかという思いがちらちらと頭をよぎっていた。


そう、逃げ場がなくとも作ることは出来るのだ。


例えば、電車に飛び込むなどすれば。


 ◆


 功は忙しい。


 ただひたすら忙しい。


 段ボール箱、封筒、小包が積み上げられ、それらはすべてその日のうちに届けなければならない。


 一つ一つの荷物を軽トラックに丁寧に積み込むと。彼の車は荷物でぎっしりと埋まり、まるで動く倉庫のようだ。


 荷物と荷物の間から血涙を流す女がこちらを見ている。功と女の視線が合い、二人は暫時見つめ合う。


 ふと功はある事に気付いた。


 荷物の積み込みは当然配送順を考慮して積み込まねばならないのだが、血涙女のすぐ左の荷物はもっと手前に積み込まねばならなかったのだ。


 朝からの疲れで功は積み込み順を誤ってしまったが、血涙女のおかげで窮地に一生を得た形となる。


「ア……」


 功は"ありがとう"と口に出そうとするも、言えなかった。言葉も出せないほどに疲れ切っていた。肉体ではなく、心でもなく、魂が疲れていた。


 今日の出勤で178連勤目である。これだけ無茶苦茶働くと普通は死ぬか体を壊すのだが、功は何となく持ちこたえている。


 功が特別強靭だから、というわけではない。


 ゆえに当然理由はある。これほどまでにタフなワークをこなせる理由が。


 その理由に、功自身は気付いていない。


 ・

 ・

 ・


 出発してからは市内を縦横無尽に駆け巡る。


 アパート、一軒家、オフィスビルと、配達先は多岐にわたり、彼は一箇所に止まることなく、次々と荷物を届けていく。


 信号待ちや渋滞の中でも、彼の心は次の配達先のことでいっぱいだ。


 信号待ちの時、功はふと助手席に気配を感じた。


 視線をやるとそこには骨と皮だけになったなにかが座っていた。功はそれを無表情でみつめ、ややあってからそろそろ昼食の時間であったことを思い出す。


 これは功の精神が既に不味い所まできている証明なのだが、いまの功は食欲を感じない。


 心が疲れすぎているせいだ。


 だがそれはそれとして、食べねば体力が持たず、もし何も食べる事なく仕事に従事していれば倒れ伏すのは必定といえるだろう。


 骨と皮だけ…飢餓の象徴、そんな存在に功は食事を連想し、事なきを得た。


 ──時間はないけど何か食べておかないとな。おにぎり、パン…コンビニにいくか


 功はそんな事を思い、青信号を待ち、コンビニを探す。


 ◆


 昼食後も功はひたすらに配達を続けた。


 途切れることのない荷物の流れに追われ、彼の身体は限界に近づいていたが、それでも彼は止まらない。


 止まらないというより、止まってはならない。配達ノルマというものがある。


 夕方になり街の灯りがひとつずつ点灯し始める。


 しかし配達はまだまだ終わりそうにない。


 夜空に星が輝き始めても、彼の車のライトはまだ街中を照らし続けている。


 突然、バンと音がした。


「ア……」


 やべえ、だの、轢いたか?だのは口には出さない。喋る気力がないほど疲れており、しかし功はそのまま逃げ去るほど無責任な男でもなかった。


 功は停車し、周囲を確認する。


 すると車の下から青白い手が伸び、功の足首を掴むではないか。


 功は屈みこみ、手の主を確認する。


 そこには上半身だけの血塗れの女がいて、功の事を見つめていた。


 功はぼんやりと女を見返す。


 話しかけるべきか、振り払うべきか。


 そんな事を思っているとなんとやや前方でクソガキ共がバイクでかっ飛ばしてきたではないか。


 もし車を止めねば、タイミング的にクソガキ共を轢き殺していたに違いない。


 ふと気付くと、女の手は既に功の足首から外されていた。


 配達は続く…


 ◆


 配送センターへ戻った功はその日の疲れで身体が鉛のように重く感じられた。


 トラックを降りるのも一苦労で、彼の動きはまるでゾンビのようにゆっくりとしている。


 目は虚ろで、自身が生きているのか死んでいるのかさえわからないような状態だった。


 センターの倉庫に入ると、周囲にはまだ明日の配達のための荷物が山積みにされている。


 これを見た功は、深いため息をついた。心の底から…大きく大きくため息をついた。功の吐き出す息を科学的に分析した場合、二酸化炭素ではなく希死念慮が検出されるであろう、そんなため息だ。


 ──死ぬか


 功はおもむろにそんな事を思う。


 すると倉庫の隅でささやき声が聞こえた。囁きは次第に大きくなり、時には高くなり、時には低くなる。


 気の触れたリズムが功の三半規管をゆるがせ、功はその場に倒れ込んでしまった。


 暫く経ち、功は慌てて目覚めて時計を見る。


「10分しかたっていない…?その割にはなんだか体が軽いな。まあいいや、取り合えず明日の準備だけしよう。それにしても転職…ちょっと真剣に考えてみるかなぁ…」


 功はぶつぶつ呟く。


 しかし彼は気付いているだろうか?


 超短時間睡眠によって、自身の気力と体力がそこそこ回復しているということに。すくなくとも、独り言を呟ける程度には回復していた。


 ちょっと寝ただけじゃんと思う向きもあるかもしれないが、このような短時間睡眠は極めて効率的に気力と体力を回復させる。


 ムーグルやマップル、ニャイクロソフトやマイキなどの世界的企業でも取り入れられているといえば凄さが分かるだろうか?


 ・

 ・

 ・


 とはいえ、翌日の配達の事を考えると功の心は重くなる。


 辛くなる。


 悲しくなる。


 切なくなる。


 だが生活の為にも仕事は続けなければならない。


 功が明日もがんばるかと肚に力をこめ、倉庫を立ち去ろうとすると、今度は彼をじっと見つめるスーツ姿の男性がいた。


 男性は普通ではない。

 何が普通ではないかというと、皮膚も無ければ肉もない、骨だからだ。


 骨がスーツをきて、功を見ている…

 ぽっかり空いた真っ暗な眼窩で功を見ている…


 だが功は動じない。

 この職場は過酷すぎて、功の精神世界はぐちゃぐちゃのズタボロになっている。


 この職場には確かに人間以外のものがいるのかもしれない、しかしそれが何だというのか。


 やれどもやれども終わらない仕事のほうが余程恐ろしいではないか。


 仕事を辞めるという選択肢は功には思い浮かばない。精々消極的な転職願望を想起するに留まる。


 しんどすぎてばっくれるということが功にはできない。馬鹿にみえるかもしれないが、ブラック企業勤務で心がぶっ壊れた人間は往々にしてこうなる。


 そして限界がきたら自殺するのだ。


 だから功は骨をみても何ともおもわなかったのだが、しかし困ってはいた。


 ──通してくれない


 そう、脇を抜けようにも骨男は切れ味鋭いステップで横へずれ、出ていかせまいとする。


 功は弱り、特に理由はないがあたりを見回した。


 そして、あれ?と思う。

 あの黒いものはなんだ?と。


「あれは…財布だ。しまった、財布を落としていたのか…」


 功は呟き、数歩後方へ戻って財布を拾い、再び前を向くとスーツをきた骨男はいなくなっていた…


 ◆


 功はロッカールームに向かい、作業服を脱ぎ捨てた。


 脱ぎ捨てた作業着が宙に浮き、功のロッカーへと収納されていく。


 それをみた功はこの日初めての笑顔を浮かべた。


「悪いね、助かるよ」


 すると功のロッカーに赤い文字…恐らくは血文字で、


 ──そろそろ休んで


 と文章が紡がれていく。


「休む、か」


 功は呟く。


 休むとは何の事だ?


 功はよくわからず、首を傾げた。


 これはやれやれ系ではなくて、功には休むという単語が本当によくわからなかった。


 引きこもり歴が余りに長い者は人と会話する際、喋り方が分からなくなるという。


 まあ余り関係ないかもしれないが、功もそうだ。

 休んでいなさすぎて休みがよくわからない。


 するとややあって、がん、と音がして血文字が消えた。同時に、何か怒りの精神波が周囲へ放射されたように功には思えた。


「よくわからん…怒るなよ」


 功は呟くが、当然応えはない。


 ・

 ・

 ・


 家に着くと、功は何も食べずにベッドに倒れ込んだ。


 彼の頭の中は、明日の仕事のこと、荷物の山の事でいっぱいだった。


 暫く眠れなかった功だが、不意に息苦しくなったとおもったらあっというまに意識を失い、そのまま寝入ってしまう。


 ぐうぐうといびきをかく功を、ベッドの脇に立つ女がみつめている。


 だが、女の顔は見えない。


 濃い影が女の顔を覆っている。


 明らかに、尋常ではない。


その尋常ではない女は、寝入った功を見てゆっくりと彼の首から手を離した。


 ◆


 翌朝、功は気分すっきりで目覚めた功は配送センターへ向かった。いつもそうだ、極度の疲労により逆に寝付けなくなると、息苦しくなり気づけば翌朝となっている。これはこれで助かるなとすっとぼけた事を考える功だが、気になる事もないではない。


──また首に痣ができているなぁ。まあ良いか、痛みがある訳でもないし…


健全な肉体にこそ健全な精神が宿るという。それが正しければ、功の精神は健全ではなく、ゆえに知らん間についた痣なんてどうでも良いやと捨ておいてしまう。


 ともあれ、センターに到着した功だが、なにやら通常とは全く異なる状況だった。


 センターの敷地内には労働基準監督局の車両が何台も停まっており、制服を着た監督官たちが建物内外を行き交っている。


 彼らは徹底した査察を行っている様子で、書類を手にした監督官がセンターのスタッフに厳しい質問をしているのが見受けられた。


 一部のスタッフは明らかに動揺しており、彼らの表情からはこの配送センターが著しい重篤な違反を犯していることが伺えるが…


 功はぼんやりとその様子を見ている。


 なぜいきなりこんな事になったのだろうか、と思うが、功には皆目見当がつかない。


 誰かが通報したのだろうか?


 功はそんな事を考えるが、首を振る。


 功が知る限り、この配送センターの職員…自分をふくめて、働いているものは皆生きてるのだか死んでるのかわからない者達ばかりであった。


 労基へ通報するなど、考えもしないほどに皆が精神をヤラれていた。


 ──なら誰が…


 ぽたり、と何かが首へ垂れる感触があった。


 首だ。


 功が手を伸ばすと、濡れている。


 見れば、掌にべったりと真っ赤な血がついていた。

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