終章 翠玉は愛を知る
(1)
「この辺は涼しいわね」
そう語り掛けると、マロンはぶるるるると元気な返事をしてくれた。手綱と足扶助で調整しながら、森の中を散策していく。沢山の木々の中で呼吸をしていると、少しだけ心が晴れていくような気がした。
「もう少ししたら開けてくるらしいわ。そしたら、少し走りましょうね」
私の言葉に反応して、マロンが少しだけ弾むような動きになった。やっぱり、この仔は走るのが好きらしい。もっと効率よく正確に公務をこなせるようになって、乗馬の時間を増やさないと。
決心しつつ進んでいると、ふいにマロンが立ち止まった。どうしたのだろうと思って周りを見渡すも、特に変な物は見受けられない。
「マロン? どうしたの?」
とんとんとお腹の辺りを軽く蹴って、進もうと合図をする。しかし、それでもマロンは動かなかったので……もう少し、じっくりと時間を掛けて周囲を確認した。
(……人影?)
辛うじて見えるか否かという辺りに、人らしきものを見つけた。時折揺れているので、マロンはいち早く見つけられたのだろう。
「人かしらね、動物かしらね。もう少しだけ近づいてみましょうか」
言い聞かせてから再び合図をすると、今度は歩き始めてくれた。先程よりは少しゆっくりのスピードで、徐々に近づいていく。
(……ああ、何だ)
人影らしきものの正体が分かったので、歩く速度を速めて近づいた。向こうもこちらに気づいたらしく、わざわざこちらへと来てくれる。
「何だ、お前か」
「ごきげんよう、紅玉様。お散歩ですか?」
「……まぁ、そんなところだ。お前は外乗か」
「ええ。漸く公務が一段落したところなのです」
「それは良かったな。お前が来ない間、そいつずっと寂しそうに鳴いていたから」
紅玉様の言葉に賛同するかのように、マロンが嘶いた。そして、紅玉様の肩辺りに鼻を擦り付け始める。眉間に皺が寄りかけたが、大人になれと自分に言い聞かせた。
「そうだったのですね。私も、本当はもっと時間を割きたいのですけれど」
「腐ってもお前皇太子妃殿下だもんな。やる事は多いだろう……特に、皇后があんな事になっちゃ」
「治療が上手くいって、快方に向かいつつはありますけれどね。それにしても、お義母さま……皇后陛下の身の上に起こった事、ご存じでしたか」
「そりゃな。皇宮なんて噂話の温床だ」
話している間も、マロンはずっと紅玉様に甘えていた。普段ならば、紅玉様はそんなマロンの鼻や顔を撫でて下さるのだが……今日は、何故か無抵抗にすり寄られているだけである。だんだんマロンの力が増してきて紅玉様がバランスを崩したが、それでも彼は何もしない。マロンが少し耳を絞ったのは、いつも通りに撫でてもらえない不満の表れだろう。
「おい、お前こいつの主だろ。少しは愛馬を止めろよ」
「会う度にこの仔を撫でて、撫で癖をつけたのは紅玉様でしょう?」
「……悪いが今日は無理だ。作業してたから手が土で汚れてるんだよ」
「ですって、マロン。今日のところは引き下がってあげましょう」
「……」
大分不服そうな様子だが、分かってくれたらしい。相変わらず耳は絞ったままだが、紅玉様からは距離を取ってくれた。
「しかし、皇子殿下自ら森で作業ですか。何をなさっていたのです?」
「大した用じゃない。もう終わったし、帰るところだった。じゃあな」
「え? ちょっと……」
紅玉様は、それだけ言ってさっさと背中を向けてしまった。名残惜し気にマロンが鳴いたが、それにも応えず振り向かないままこの場を去ってしまう。人間相手にはさておき馬には優しいのに、ますます変だ。
周囲をもう一度見回して、紅玉様の姿が完全に見えなくなったのを確認する。そして、一旦マロンから降りて引き綱を付け、先程紅玉様がいらっしゃった辺りを調べてみる事にした。たくさんご飯を食べた後だからか、マロンは周りの草に気を取られず良い仔で付いてきてくれる。
(でも、特に変な所は……!?)
彼が屈んでいた辺りの地面を見て、生えている植物を観察して。少し離れた場所に、例の毒草……スコポーリアがいくつか生えているのをはっきりと目視した。よく見たら、ところどころ掘ったような跡もある。
(スコポーリアは山菜に間違われて収穫される事もあるくらいだし、この場所にある事自体は何らおかしい事ではない)
けれど、紅玉様がこの場に一人でいたのはやはり不自然だ。外乗ならば分からなくもないが、他の馬の気配もなかったし……そも土に触るのが嫌いな紅玉様が、森の中で何の作業をしていたと言うのだろう。山菜を取りに来たという風でもなかったし、それならば猶更誰かしらついてくる筈だ。それこそ、間違ってスコポーリアを始めとした毒草を採集してしまう可能性があるのだから。それに……。
(……マロンを見ていても、表情がお面みたいだった)
私と同じかそれ以上に馬を好きな彼の事だ。口では辛辣な事を言っていても、いつだって馬を見る目は優しかった。それなのに。
目の前の出来事が上手く呑み込めなくて、暫くの間動けないでいた。
***
だんだん日差しが強くなってきて、夏が近づいてきた。月晶帝国の夏は暑いと聞いていたからどうなる事かと思ったが、蒼玉様が色々心を砕いて下さったお陰でどうにか乗り越えられそうである。
「本当にありがとう」
「これくらいどうって事は無い。君に倒れられたら困るのは俺だ」
「あら、心配なのではなくて?」
「勿論心配するさ。心配で仕事が手につかなくて、困ってしまうだろうという話だ」
「……ふうん、そう」
それだけ答えて、目の前の羽織に視線を戻す。頬が熱いが、気にしない事にした。
「夏に着る服だから涼しい色合いの物が多いのかと思ったけど、案外そうでもないのね」
「色の好みは千差万別だからな、選べるようにしておいた。冬に水色の服を着る人間もいるだろうし、暑い夏だからこそ真っ赤な服を着たいという人間もいるだろう?」
「それはそうね。髪や目の色の関係で、興味はあるけど合わなさそうって色もあるけど」
「マリガーネットの髪色は青緑か。確かに、橙色や赤色を中心とした服だと、かなり派手な印象になってしまいそうだな」
「そうなのよ。お姉さまの色をどうにか入れたいと思って奮闘した事が幾度となくあるけど、結局小物に取り入れるので精一杯って結果だったわ」
当時の私の要望に応えるべく、ランウェイ家お抱えの仕立て屋の面々は本当に頑張ってくれていた。しかし、どうしても……赤色を前面に押し出すと、必要以上に派手な印象になってしまうのだ。色の相性問題は、かなり強力である。
「青緑の私が赤だと……って言って泣いているのなら、赤い髪の珊瑚様や紅玉様は逆に青色が似合わないって嘆いてらっしゃるのかしら」
「嘆いているかは知らないが、少なくとも紅玉が青い服を着ているのは見た事が無いな」
「珊瑚様はある?」
「何度か。父上は青が好きだから」
「……珊瑚様が好きなのに、色は青が好きでいらっしゃるのね」
「それはそれ、これはこれというやつだろう」
「まぁ、人間の好みほど良く分からないものも無いわよね……感情も」
火が付いてしまった、御しきれない程の狂おしい想い。そのためならば世界を敵に回しても構わないと思う程の、それでも己が情熱を貫き通さんと思う程の、愛情。
エメ兄さまも陛下も、妻へ向けている感情は本質的に同じだろう。違うのは、一方の受け手であるお姉さまはいつだって幸せそうだったけれど、他方の珊瑚様はそうでなかったという事。受け手の方にも感情があるからこそ結果が変わる事もあるだろうが、ここまではっきり違うと感情とは難しいものであると思い知らされる。
「そう言えば、今度は珊瑚様が体調を崩されたと聞いたわ。もしかして、珊瑚様も暑いのは苦手なの?」
「いや、そうでもなかった筈だ。去年の今の時期は普通に過ごされていた」
「そうなのね。皇后さまの次は側妃さまかって町の人達が不安そうにしていたから」
「皇宮の貴人が立て続けにとなると国民は不安だろうな。母上も珊瑚妃も、民衆の支持は高い方だし……まぁ、珊瑚妃に関しては父上が必死に手を尽くしているらしいから直に良くなると思うぞ」
最後の方の言葉は、いささか彼らしからぬ冷ややかさだった。しかし、それも仕方ないのかなと思えるくらいには、彼のお方の行動は極端なのだ。最近覚えた帝国の言葉で言うならば、蒼玉様がそう思われるのもむべなるかなというやつだろうか。
「その点に関しては不満が飛び交っていたわね。陛下は、どうして皇后さまの時は何もなさらなかったんだ、私情を交えず公平に扱うのが正しい皇帝の姿じゃないのかって。だからなのかは知らないけれど、その分蒼玉様の株は上がってたわ」
「それを喜ぶべきかは微妙だが……何にせよ、母上の体調が戻ったのは何よりだ。公務にも復帰されたし、皇后宮の人員も増やされた。注意は必要だろうが、暫くは安心だろう」
「何よりだわ。これで、蒼玉様の肩の荷も少しは減るかしら」
「そうだな。後は、このまま珊瑚妃が早めに回復して下されば」
「ご本人はとても良い方だものね。周りがアレだけど」
「それもあるが……父上は必要な仕事や公務を放り出して珊瑚妃に付きっきりなんだ。皇帝の職務放棄がこれ以上続くと、俺も官吏達も手が回らなくなる可能性がある」
「……」
呆れてものが言えない。あのエメ兄さまだって、最低限の公務はちゃんとこなしてからお姉さまの元に行っていた。お義母さまが体調不良で公務が出来ないと言うのに対してあれだけ文句を言っていたくせに、自分は投げ出しているだなんて勝手だ。本当、どの口がそれを言うという話である。
「……私に出来る事があったら言ってね」
「そうだな。頭を使う事が多くてお腹が空く事が多いから、また君が作った月餅が食べたいな」
「他は?」
「息抜きに付き合ってもらったり、こうして話したりするだけでも大分救われる……から、時間がある時は誘いに応じてもらえると嬉しい」
「公務にも慣れて来たし、そちらの手伝いも多少は出来ると思うわよ?」
「申し訳ないが、皇帝と皇太子、担当の官吏以外には見せられない資料や案件も多いんだ。だから、休憩に付き合ってもらえる方がありがたい……この仕事が終われば君に会える、と思えばやる気にもなる」
「……そういう事なら分かったわ。美味しい月餅とお茶を用意して、貴方の事を待っているから」
それだけ言って、耐えられずに目を逸らす。相変わらず、彼は無意識にそういう事を言うから……照れてしまって仕方ない。
それでも、以前よりは明らかに。彼のそんな言葉を、喜んでいる自分がいた。
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