(3)

「厩舎まではあとどのくらい?」

「もう着くな。あの建物だ」

 隣を歩く蒼玉様に尋ねてみると、前方の平屋を指さされた。エスメラルダで見慣れた厩舎は大抵屋根に傾斜がついていたのだが、月晶帝国の屋根は全て平らなので新鮮である。

 入口に近づくと、一人の女性が立っているのに気づいた。こちらに気づいたらしい女性は、深々と一礼してくれる。

「お待ちしておりました」

「こちらの女性は?」

「皇宮の厩務員だ。君が連れてきた愛馬の担当らしい」

「……そうなのですね」

 二人きりではないので口調を改めると、左肩辺りに視線が刺さった。蒼玉様は面白くなさそうなお顔をなさっているが、元々そういう取り決めなので破るつもりはない。

「マロン号の担当となりました琥珀と申します。此度は、皇太子妃様の愛馬を担当させて頂くという栄誉を賜りまして、誠に光栄です」

「こちらこそ、マロンをお世話してくれてありがとう。合間を見つけて会いに来るから、その時は宜しくね。琥珀」

「はい」

 琥珀がお辞儀をするのと同時に、一つに纏められている真っ直ぐなブラウンの髪が揺れた。私はくせ毛で雨の日ははベリルと一緒に格闘しているから、正直羨ましい。

「それでは、マロン号がいる厩舎へご案内致しますね」

「あら? この厩舎じゃないの?」

「マロン号は牝馬ですから、もう一つ後ろの厩舎の方に馬房を用意しております」

 そういう事かと思いながら琥珀の後を付いて行くと、一回りこじんまりした厩舎が現れた。やはり屋根は平らである。

「こっちが牝馬用ならさっきの厩舎は牡馬用って事かしら? 牡馬の方が多いの?」

「牡馬もいる事はいますが、騙馬の方が多いですね。儀式に参列したり皇族の方々を乗せたりするので、気性が大人しい馬を選んで入れております」

「もう一つ別の厩舎があるわね。そっちは?」

「そちらは馬車を曳く用の馬がいる厩舎です。ペルシュロンが中心です」

「ペルシュロン! こっちにもいるのね!」

「過去に西大陸から導入したと聞いています。そう言えば、ペルシュロンの発祥はエスメラルダ王国近隣でしたね」

「そうなの! だから、エスメラルダ王家や貴族の馬車用馬として今も沢山いるわ!」

「良いですね。乗馬用ですと、やはりサラブレットが主流ですか?」

「サラブレットは貴族の家に多いかしら。領民達の間ではクォーターホースが多いイメージだわ。そっちも可愛いわよね」

「そうですね。月晶帝国も似たような感じで……農耕等で使用するならやはり体が強くてで温和な方が助かりますし。粗食に耐えられるのも利点です」

「出来るなら美味しいご飯食べさせてあげたいけど、難しい場合もあるだろうし間違いないわね……そう言えば、どうして厩舎の屋根が平らなの? 雪の時期とか大丈夫?」

「この辺りは降っても積もりませんので、平らでも問題ないのです」

「そういう事なのね、じゃあそんなに寒くはならない?」

「寒い事は寒いですよ。水を扱う作業は中々大変で……」

 夢中になって琥珀と話していると、蒼玉様に肩をつつかれた。どうしたのかと思って振り向くと、彼は何とも言えないような表情で口を開く。

「馬や厩舎談義に花を咲かせるのも悪くないと思うが、早く愛馬に会ってやった方が良いんじゃないか?」

「……それもそうですね。琥珀、案内してもらえる?」

「はい。私もすっかりはしゃいでしまって……申し訳ありません」

「合間見つけて絶対に来るわ。今度はエスメラルダと月晶帝国の乗馬状況について語り合いましょう」

「是非! ……こちらです」

 牝馬用の馬房に入って一番奥に愛馬がいた。熱心に飼葉桶を漁っている姿を見てほっとする。食欲は落ちていないようだ、良かった。

「マロン!」

 馬房の外から呼びかけると、飼葉桶から顔を上げてこっちに近づいてきてくれた。ぱたぱたと尻尾を振っているので、マロンも再会を喜んでくれているらしい。

 扉の小窓からにゅっと顔を出してきたので、鼻を優しく撫でてあげる。もっとと言うように前掻きを始めたので、頬や首の辺りもわしゃわしゃと撫でていった。

「飼葉食いは落ちて無さそうね」

「与えたら与えただけ食べてくれますので、むしろ抑えているくらいです」

「水も飲んでる?」

「たっぷりと。流石に、着いて数日は食が細めでしたが……こちらに慣れてからは問題ありません」

「流石の適応能力だわ。頼もしい」

「本当です。サラブレットの牝馬と聞いていたので諸々注意していたのですが、特に困るような事もなくて……大らかで賢い仔ですね」

「えへへ、ありがとう」

 マロンの代わりにお礼を言うと、マロンも賛同してくれるかのように頷いてくれた。しかし、それまで額を擦り付けて甘えていたマロンが、急に動きを止めて耳を立て始める。

「マロン? どうしたの?」

 尋ねてみるが、マロンはじっと動かずある一点を見つめていた。ゆっくり視線の先を辿ると、そこにいたのは蒼玉様。なるほど、見慣れぬ相手を警戒していたのか。

「マロン、大丈夫よ。この方は怖い方じゃないわ」

「……」

「この方は劉蒼玉様。私の旦那様になる方なの」

「……」

 頑張って言い聞かせるが、相変わらずマロンは耳を立てたまま。琥珀も一緒になって首を撫でて宥めようとしてくれるが、どんどんマロンの顔が険しくなって噛みつこうとする素振りすら見せ始めた。いつもはこんな攻撃的じゃないのに、どうして。

「……悪いが、そんなに威嚇されても俺達の結婚は無くならないぞ」

「蒼玉様!?」

「この結婚はもう決定事項だ。お前が気に入らないという理由で覆る事はない」

「何を言うの、ねぇ!」

「別に、マリガーネットが俺の妃になったからといって、お前とマリガーネットを引き離すつもりはない。公務が増えるだろうから来る頻度は減るかもしれないが、それはエスメラルダに残ったままだったとしても同じ事だろう」

 途方に暮れて、琥珀と二人顔を見合わせる。しかし、マロンの威嚇は多少落ち着いたようだ。相変わらず耳は立てたままで目つきは険しいが。

「済まないが、主の結婚を祝福する方に意識を切り替えてくれ。お前の大好きな大好きな主を、苦しめたり泣かしたりするような事は決してしない。幸せにすると誓おう」

 琥珀と一緒になって固唾を呑んで見守っていたが、彼の言葉を聞いた瞬間一気に顔が熱くなった。一方の琥珀は、目を丸くした後になるほどと頷いている。

「……ぶるるるる」

 マロンが一声鳴いて、ぱたんと耳を閉じた。蒼玉様からふいっと顔を逸らし、前掻きをしながらこちらを見つめ始める。近寄って顔を撫でてあげながら、蒼玉様の方を伺った。

「マロン号は今何歳だ?」

「四歳です」

「なら、マリガーネットはマロン号が生まれてからずっと一緒にいるのか」

「はい。この仔の父親はエメ兄さまの愛馬で、母親はお姉さまの愛馬で、しかも初仔なんです。だから、どうしても私の馬にしたいって思って、この仔が生まれた瞬間からずっと傍にいて可愛がってきました」

「なるほどな。マロン号にとってみれば、マリガーネットは姉のような存在か」

「……そう言えなくもないとは思いますが」

「大好きなお姉さんを取られそうで、不安だったのかもしれませんね」

「そんな可愛らしいもんじゃなかっただろう。あれは、我が姉を取るのは許さん……とばかりの迫力だったぞ」

「長年馬の世話をしてきましたが、ここまで聡くて人間に意識を向けてくれる仔は初めてかもしれません」

「俺も初めてだ。まさか、馬に嫉妬される日が来るとはな」

「でも、良いものが見られました。これを知れば、皇后さまも安心なさるでしょう」

 突如第三の声が聞こえてきたので、三人揃ってそちらを振り向いた。そこいたのは、綺麗に着飾っている黒髪の少年だ。十歳くらいだろうか。

「……感心しないな。また後宮を抜け出してきたのか?」

「失礼な! ちゃんと勉強は終わらせてきました!」

「終わらせたから良いというものではない。お前の祖父が知ったら何というか」

「知られなきゃ良いんですよ! そもそも、お祖父さまは僕の方になんて興味ないでしょうし」

「そういう問題ではないだろう」

 窘めようとする蒼玉様と、反論する少年。誰だっただろうかと、記憶の糸を手繰り寄せて……ああ、思い出した。

「お久しぶりです、黒玉様」

 挨拶をすると、少年もとい黒玉様の顔がぱっと輝いた。お久しぶりですと返してくれる声も、どこか弾んでいる。

「何か御用があって、わざわざこちらへ?」

「はい! 僕もマロン号に会ってみたかったんです!」

「そうだったのですね……そうだわ、琥珀」

「はい?」

「マロンを馬房から出してもらえる? せっかくだし、近くで見て頂きましょう」

「良いのですか!?」

「……いや、止めておいた方が良い」

 黒玉様は表情を輝かせたが、蒼玉様から待ったが入った。琥珀の方も、どことなく浮かない表情をしている。

「マロンはもう落ち着いているでしょう? 問題ないと思うのだけど」

「ええと、あの……はい、マロン号自体には問題ないと思いますが……」

「馬が問題ないなら大丈夫ですよ! こんなに綺麗な栗毛のサラブレットを見るのは初めてなので、是非近くで見たいです!」

「マロン号に問題がなくとも、この状況に問題がある。黒玉、お前も分からない訳じゃないだろう?」

「……ですが」

「お前に何かあれば楊氏は煩いだろうな。琥珀も職を追われる事になるかもしれない」

「……」

 淡々と話していく蒼玉様。黒玉様は俯いてしまったので、表情は分からない。

「最善は、大人しく後宮に戻って真面目に勉強して、周りの信用を得る事だ。その上で頑張っているようだから褒美をやろうと言われたら、マロン号を見たいと言えば良い」

「……お祖父さまは許して下さらないでしょう?」

「父上なら許すんじゃないか? 父上が許すならば、如何な楊氏とて下手な事は言えないだろう」

「その時は、お兄さまも口添えして下さいますか?」

「お前の頑張り次第だな」

 その言葉を聞いた黒玉様は、ぐっと顔を上げた。少しだけ瞳が潤んでいるけれど、泣いてはいない。

「分かりました。今日の所は引き下がります」

「ああ、賢明だな」

「数日の内に父上が母上の元に来られると思うので、その時にお願いしてみます」

「……せめて課題は終わらせておけよ」

「はい」

 黒玉様の返事を聞いた蒼玉様は、右手を伸ばして彼の頭をぽんぽんと軽く撫でた。黒玉様の表情が少しだけ明るくなり、一礼してこの場を後にする。

 黒玉様を見送った蒼玉様と琥珀はやれやれという表情だが、こちらは申し訳ない気持ちで一杯だった……謝らなければ。

「……軽率な発言をして申し訳ありません」

「皇太子妃さまが謝られる事ではありませんよ」

「ああ。こちらの事情はまだ詳しく話していなかったものな」

「ですが……皇族ともなれば、もう少し慎重に物事を判断すべきだったなと。マロンが褒められて嬉しくて、つい」

「……本当なら、私もマロン号をお出ししてご覧に入れたかったです。本当に、こんなに素晴らしい馬を間近で見る機会なんてそうそうありませんもの」

 琥珀がマロンの鼻筋を撫でながら呟いた。褒められたからなのか、マロンはどことなく得意気である。

「……マリガーネット、この後は時間あるか?」

「はい」

「式も終わって、皇宮内も落ち着いた頃合いだ。この国の情勢や勢力等に関して、もう少し詳細に伝えておきたい」

「ありがとうございます」

「それなりに長い話になるだろうから、茶でも飲みながら話そうか」

「宜しくお願いします」

 そう伝えて、軽く頭を下げる。それじゃあ行こうと言われたので、慌てて琥珀の方を振り返った。

「また来るわね。マロンを宜しく」

「かしこまりました」

「マロンも琥珀の言う事聞くのよ。無理にお代わりを強請ったらダメだからね」

 基本的に良い仔のマロンだが、食いしん坊なところがあるので釘を刺しておく。分かっているのかいないのかは分からないが、ぶるるると一声だけ返ってきた。

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