【08】

結局光は田中刑事に同行を求められ、警視庁に連れて行かれた。

拒否しようかとも思ったが、『萬福軒』で揉めると、おっちゃん夫婦を巻き込むと思ったからだ。沢渡が拉致された件では納得いかないことも多分にあったが、基本的に嫌いな人たちじゃなかったし、2人の年齢的に見て、警察に連れて行かれるとしんどいだろうなと、配慮した結果だった。


公安の取調室らしき部屋に入れられ、暫く待たされていると、別の刑事に連れられて渚が入って来た。

「おお、あんたも捕まったのね」

「色々あってね」

2人は軽く挨拶を交わす。後で聞いた話だが、渚は田中たちをまいた後、マンションに戻ったところを、張っていた別の刑事たちに同行を求められたそうだ。


間もなく扉を荒々しく開ける音がして、久比が部屋に入って来た。後ろに田中刑事が従っている。2人とも完全な怒り顔で、はなから戦闘モードのようだ。

ところが、久比が光たちの前に座った途端、渚が彼を指さして笑い始めた。その予想外の反応に戸惑った表情の久比に向かって、渚が言い放った。

「キューピーマヨネーズ」


それを聞いた途端、ツボにハマった光が爆笑する。チラッと見ると、部屋の隅でパソコンに向かっていた刑事も肩を震わせている。田中刑事も目を剥いて、必死で笑いを堪えている様子だ。


1人久比だけが真っ赤な顔で席から立ちあがり、「き、貴様」と言って絶句する。顔が茹で上がったように真っ赤だ。

それを見た渚が、さらに追い打ちをかける。

「明太子マヨネーズ」


光は我慢しきれず、文字通り腹を抱えて大爆笑した。言った本人の渚も机に突っ伏して笑っているし、部屋の隅の刑事も堪え切れずにとうとう噴き出したようだ。田中は顔を天井に向けて、全身を震わせている。

そして久比はブチ切れた。


「貴様ら!警察を舐めるのもいい加減にしないか!ただではおかんぞ!」

そう怒鳴って机越し掴みかかろうとする久比を、後ろから田中が必死で止める。室外からも別の刑事が入って来て、2人掛かりで久比を抑え始めた。室内は暫く騒然とした雰囲気に包まれる。


漸く久比が落ち着いて席に着いた時には、光と渚は既に平常モードに戻っていた。

久比は2人を憎々しげに睨みながら言った。

「いいか。これから質問することに、素直に答えてもらおう。さもないと、この場で緊急逮捕することになるぞ」

「何の容疑で逮捕すんの?あたしら、こんなとこに連れて来られる謂れはないんだけど」


しゃあしゃあと応える渚に、久比は益々怒気を膨らませる。

「公務執行妨害だ」

「いつ妨害した?」

「ふざけるなよ。貴様ら、わざわざショッピングモールのトイレで入れ替わって、尾行をまいたろうが!それに貴様は、電車内でこの田中刑事の、きん、いや、股間を蹴り上げただろうが!」

「それはそのおっさんが悪いでしょ。なんせ、突然女性専用車両に血相変えて乗り込んでくるわ、乗客押しのけてあたしに掴みかかってくるわで。あたしゃ、痴漢だと思って自己防衛しただけなんですけど」

渚の反論に、久比も田中も絶句する。


「それにさあ。あんな単純な手に引っかかって。あんたら本当にプロの刑事なん?そっちが下手打ったの、こっちのせいにせんで欲しいわ」

横で聞きながら、光もうんうんと頷く。

――屁理屈言わせたら、こいつの右に出る者はいねえな。


「もういい。それで貴様は、我々をまいて、どこに行ってたんだ?!」

渚に言い負けた久比は、怒りの矛先を光に向ける。

光は一瞬惚けようかとも思ったが、沢渡が攫われた今、隠す方が余計に事態を悪化させると思い、正直に答える。


「あたし?ストーカーに呼び出されてたんだよ」

「な、何!?ストーカーよいうのは、沢渡裕(さわたりゆたか)のことか!?貴様、一体どういうつもりだ!」

「どういうつもりも何も。1人で来てくれっつうから、1人で行っただけなんですけど。それよりさあ。あいつ、あの連中に攫われたよ。あんたら、あの連中のこと知ってんでしょ?さっさと行って、ストーカー助けてやれよ」

『萬福軒』のおっちゃん夫婦のことには、敢えて触れなかった。


「はあ?攫われた?貴様、何故それを早くいわんのだ!」

「早くもなにも。ここに来てから、あんたが一方的に怒鳴り散らすばっかだから、言う暇なんてなかったでしょうが。そもそもあの連中は何なん?」

宗教団体ということは奥さんから聞いていたが、そこも伏せる。


「それは貴様らには関係ないことだ」

久比はそう言って、光から目を逸らす。

「関係ないことないでしょうが」

光は段々腹が立ってきた。

「人間一人攫われてんだろうが。あんたら一応警察だろ?どんな都合があるのか知らんけど、犯罪者野放しにしてんじゃねえよ!」

「そうだ。給料分働け」

すかさず渚が横から援護する。

久比がまた激高しかかった時、室外から騒ぎ声が聞こえた。


「ちょっとお待ち下さい。困ります」

しかし、すぐに部屋のドアが開くと、伊野慧吾(いのけいご)が荒々しい靴音を立てて室内に入って来た。

「い、伊野君」

途端に久比が緊張するのが分かった。

――どうやらこのキューピー、伊野のおっさんも苦手らしいな。

光が久比の表情を見て思う。


「ど、どういうつもりかね。ここは公安の」

「どういうつもりもねえだろうが、久比よ。一般市民連行してきて、何してんだ?」

「な、何してるも何も。捜査協力を」

明らかに動揺を隠せない様子だ。

「おい、おい。お前の怒鳴り声が、外まで響いてたぞ。どこが捜査協力なんだよ。え?」

「き、君にとやかく言われる筋合いはないよ。管轄が違うでしょうが」

久比が精一杯虚勢を張るのを、伊野は迫力のある笑顔で見据える。すると久比はそれ以上言葉が出なかった。


「部長!」

その時室外から、緊張した声が聞こえて来る。それに続いて、年配の制服姿の男が入って来た。

「久比君。その2人を返してあげなさい」

部屋に入ってくるなり、男は苦々し気な表情で言い放つ。


「部長。しかし」

反論しようとする久比の言葉を、今度は伊野が制した。

「久比よ。これは官房長官から警視総監経由のお達しだ。そうですよね?公安部長」

伊野の言葉に、公安部長と呼ばれた男がそっぽを向く。余程腹立たしいようだ。しかしそれに頓着せず、伊野は久比に向かって続けた。

「意味分かるよな。大蝶の奴が絡んでくるぞ。いいのか、お前?」


それを聞いた途端に久比の顔が引きつる。

「お、大蝶君?」

――おっとお。大蝶のおっさんが、一番苦手か。分からんでもないが。

光がそう思っていると、久比は泣きそうな顔を公安部長に向けたが、綺麗にスルーされてしまった。


「で、どうすんだ?」

「分かった。この2人は開放するよ」

伊野がどすの利いた声で迫ると、久比は消え入りそうな声で言って項垂れてしまった。


「それじゃあ、行こうか」

伊野に促されて光と渚は席を立った。部屋を出て行く際に光は、久比を振りむいて言った。

「さっきも言ったけど、ストーカーが攫われてんだから、何かされないうちに助け出してよね。あんたら、一般市民を守る警察なんだから」


公安部から出た2人は、結局伊野に連れられて彼の執務室まで行くことになった。

室内に入ると、制服警官がお茶を用意して待っていた。

「この前はお茶も出さずに済まなかったな」

そう言いながら伊野はソファに腰を下ろし、光たちにも席を勧める。


「それで、さっきの話なんだがな。沢渡君が誘拐されたってのは本当かね?」

熱いお茶を一口啜った光は、昨日の『萬福軒』での久比とのやり取りから、今日の浅草寺での出来事まで、伊野に話して聞かせる。しかしここでも、おっちゃん夫婦のことは伏せておいた。

光の話を聞き終わった伊野は、難しい顔で考え込んだ。

光と渚は、お茶を飲みながら、黙って伊野の次の言葉を待っている。


暫く考えた後、伊野は顔を2人に向けた。その表情から、状況があまり良くないことが伝わってくる。

「どこまであんたたちに話すか、難しい所なんだが。今回の件には、とある宗教団体が絡んでるんだ。沢渡君を攫ったのもそこの連中だろう」

その辺りまでは奥さんの話から、光も知っていた。


「そこまで分かってるんだったら、警察がさっさと行って犯人捕まえれば済むんじゃないの?」

「まあ、あんたの言う通りなんだがな。ややこしいのは、その教団の教祖という奴が、与党の大物政治家の娘なんだよ」

「それっておかしいじゃん。政治家の娘だったら、何やっても許される訳じゃないでしょうが。だって、誘拐だよ」


そう言って立ち上がろうとした光を、伊野は手で制した。

「まあ、その通りだよ。政治家だろうが何だろうが、犯罪者は逮捕する。それが警察だ。だからちょっと話を聞いてくれ」

伊野は渋い表情を作って、状況の説明を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る