孤高のリヴァイアサン ~利己的な怪物は未来に何を見るのか~

ヘロドトスの爪の垢

第1話・女神の降誕

「……であるからにして、十九世紀のイギリス女王ヴィクトリアはインド皇帝を兼ねてイギリスの最盛期を……。」

 あの教師は昨日、そして一昨日も同じことを言っていた気がする。ここ愛知県立尾張南高校は、周辺の地域では可もなく不可もない成績だが、どちらかといえば賢い寄りの人間が集まる高校。いわゆる自称進学校というやつだ。

 教科や教師によっては受験に必要な範囲がセンター試験……いや、今年から共通テストか。それに間に合わないことがちょくちょくあるうえ、課題は膨大、更に授業も退屈という典型的な自称進学校だ。

 校舎はオンボロ、幾年前に割れたであろう窓ガラスは木板で雑に塞がれており、黒板には黒板消しを用いても消えない白いシミがいくつも目立つ。南向きの校舎窓からは、手前は住宅地が多いが、雑木林を1つ挟んだ先には工業地帯が目立つ。なので空気も良いとは言えない。制服に使われているスカート生地は安っぽく、縫い目の造りが雑なので長時間席に座っていると足が痒い。

 幸いなのは毎日やってくる購買の惣菜屋の弁当が美味いということだろうか。

 ちょうど今授業を受けている非常勤の昭和臭い世界史教師は、見た目こそピチッとキマっていて少しの乱れもないが、横を通りかかるとこの年齢特有の加齢臭が香ってくる。そのうえでただ教科書に書いてあることを淡々と読み上げて授業をした気になっているのか、それともただただやる気がないのか、他の先生達に比べると随一の授業のつまらなさを誇る。

 今こそ前に巨漢の男子がいるおかげである程度さぼることができているが、以前はど真ん中で黒板の真ん前の席であったのでふとした瞬間にあの匂いが漂ってくるうえ、少しサボろうものならご自慢のチョーク投げが炸裂するうえ始末だ。

 チョーク投げなど創作の世界だけの存在かと思っていた。……そう、一年の二学期に入るまでは。昨年の途中で退職した前任の世界史教師とくらべ、最初こそ大学からやってきたということもあって生徒達からも期待されていたが、中身は柔軟性のかけらもないような輩だった。

 とまあこの学校に対するいらいらの露呈はこれぐらいにし、この苦悶の時間が早く終わらないかと時計に目を向ける。最後の授業である六限目の終了時間は三時ジャスト。そしていまの時刻はというと……。

『キーンコーンカーンコーン』

 授業終了の合図と共に頭の中に歓喜のファンファーレが鳴り響く。どうやらちょうど授業の終わりのタイミングだったようだ。

 この長い長い授業が終わりを告げたのももちろん嬉しいが、これが今日最終の授業。授業の終了と同時に学校の終了を告げる知らせでもあった。教師は「挨拶は要らん、帰りたいやつはもう帰れ。」と、適当に生徒に命令を出すと何かするわけでもなく教室を後にした。帰りのホームルームがあるってのに。

 帰りのホームルーム後、先程の授業でまだメモしきれていなかった部分をノートにまとめる。ちゃっちゃとノートを取っていると、前から声をかけられた。

 「やまとー、金山の近くに新しいクレープ屋さんできたからそこで買い食いして帰ろうよー。」

 授業が終わるなり早々、友人の香蓮たちが私を遊びに誘ってきた。

 「うん、わかった。ノートまとめたら行くから先行っててー。」

 「じゃ、いつもの場所で待ってるね!」と私に言うと、数人の女子の塊で颯爽と教室から出ていった。彼女らを送り、黒板の少しへんてこな字の板書をノートに書き留める。一瞬ノートをとらずに教室を跡にしようとも考えたが、こんなのでもこの学校では賢いと名が通っているのだ。全体偏差値では60ほどだが、それでも校内順位で上位10パーセントを必中で取れるぐらいには勉強してる。二年後には受験も控えているし、こういう積み重ねは少しずつ続けていかなければならない。

 ノートをまとめ終わる頃、気が付くと私は1人になっていた。まだ太陽の光が浅く差し込む春、蒸れた空気の漂う教室にはちらちらとほこりが舞い、少し幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 そんなことには一切構わず持ち帰るものをカバンに詰め、脇に刺してあったぬるくなった紅茶を一口。

 「よし、行くか!」

 私は先に行った友人の後を追いかけ、一人だけの教室を後にした。

 外に出ると、待っていましたと言わんばかりに春風が吹き、スカートを揺らす。気持ち早めに歩いて駐輪場に着くや否や自転車の鍵を外す。サドルを股に掛け、思いっきりペダルを漕ぎ出す。先程吹いていた風がまた吹き、もう春とは言え、まだまだ冬が居座っていることを感じさせる。そのせいか、体には無数の鳥肌が立っていた。

 「ピロン」

 着信音と同時に太ももに振動音が伝わる。香蓮達から送られてきたインスタリアルのダイレクトメッセージには「駅の近くで待ってるから、早く来てね!」とメッセージが送られていた。了解、と返信してまたペダルに足をかける。

 夕飯時に近づきつつあったのもあるが、妙に空いた小腹が私の足取りをはやくし、チャリを漕ぐスピードを早まらせる。噂では東京で人気のクレープ屋が大阪に次いで名古屋にも支店を出したようだ。

 この名古屋少し外れの特に何も無い、舗装された田んぼの畦道を、いつもより気持ち早めに駆け下りた。

 

 商店街で里香達と遊び、解散した後帰路に着く。

 時刻は午後六時過ぎ。ここから帰るとなると、帰宅はおそらく午後七時回るぐらいになるだろう。私は一人っ子なので、私が夕飯の時間に間に合わないとなるとおかずが無駄になる。お母さんに夕飯より帰る時間が長くなると連絡し、商店街の最寄りの地下鉄へと向かった。

 さっき食い歩きをしたばかりなのに腹を鳴らし、夕飯が何かを考えている。駅に着けば定期券を改札にかざし、親の顔より見たかもしれない指名手配犯の顔写真を横目に通り過ぎ、帰宅ラッシュになりかけの電車の中にて死に物狂いの壮絶な椅子取りゲームに打ち勝ち、SNSを巡回したり友人たちとのメールを楽しむ。

 もうすっかり日が沈んだ頃になって、やっと家に到着した。帰宅して早々にお母さんに「帰るのが遅れるっていう連絡が遅いよ」と怒られた。

「ごめんなさい、今度から気をつけるね」と言うと、あ母さんは小さなため息を1つついた。

 食卓には私の分としてとっておいてくれたラップで巻いてあるコロッケと麻婆豆腐が置いてあり、自分のコップや茶碗を用意して席につく。

 同じ席で仕事をしているお父さんと今日の学校の話をする。近くには小さな棚がおいてあり、その上にテレビが置いてある。

 今日はクイズ番組がついていたが、漢字の間違い探しクイズ。テレビまで勉強の話をするんじゃない、と腹が立ったので他になにか良い番組が無いかとチャンネルを回す。

 思うような番組がやっておらず、しょうがなくチャンネルが一周するごろにあった国営放送のニュース番組をなんとなくつけておくことにした。たまたま天気予報であればラッキーだ。

 ただ、お父さんに「お前がニュースを見るなんて珍しいな」と、まるで私がからかわれたことに関しては少しイラッとしたが。

 ニュースでは最近大阪であった殺人事件に関する報道がされていた。中小企業の社長に対する金銭的賄賂の疑惑から始まった調査が、その企業が行っていたヤクザとの密着や組織的殺人事件へと芋づる式に事件が発展していった。

 「そういえば、最近こういう事件増えたよね。」と父親に言うと、「こういう事件は別に遠い場所の出来事じゃない。お前も気をつけるんだぞ」と言われた。心配してくれているのは助かるが、私としては遠い場所の事件であるようにしか感じない。

 例えば、「アフリカの子供たちが飢えているのに」と言われたとしても、あまりにも身近でなく、共感も何もできない。もちろん同情などはあるが、それを糧になにか自分の生活を反省しよう、という気になることは出来ない。

 何の変哲もない日常。けれど、ちょっとした変化も逃さない。帰り道で気になる脇道があれば刺激を求めて歩みを進めるし、コンビニで見たことのないゲテモノ味の商品があればそれに手を伸ばす。今日だったら新しいクレープ屋に行ったのがそれにあたる。

 ちょっとした変化を交えた、私の一日のルーティーン。

 この何の変哲もない日常が永遠に続く。ずっと。

 そう思っていた。

 


 休みを直近に控えて皆の気が軽くなる金曜日の投稿ラッシュの少し前頃、いつもの通り上履きに履き替えて教室へ向かう。

 学校の敷地が狭いこともあり、私の教室は四階にある。十年ほど前にいた第三次ベビーブーム世代の生徒たちに対応するために拡張された校舎だが、最近はそれを持て余している。正直なところ、教室が四階にあるのはただひたすら使いにくいのでどうにかならないものか。三年生になれば教室は別校舎の二階にあるので、まだ楽になるだろう。

 中庭の桜はすっかり散り、藤の花がベンチに木陰を作る季節になっていた。うちの藤の花は植物園などのそれと比較すると規模は小さいが、それでもその木陰の下に居座っているとノスタルジーに浸れるので、この季節のお気に入りの場所だ。

 と、中庭への窓を覗いていると、私の教室の前で話している人が二人。

「なあ、いいだろう?日中だけでいい。この通り頼みだからさ。」

 背の低い栗色の毛の男が話しかける。

「来週末は予定があるから無理と言っているでしょう。」

 茶髪ロングの少女がそれを突っぱねる。

「ちぇ。どうしてもなんだ、頼む……げっ!大和!」

「……類。」

 男……いや、本田類の方は私の存在に気がついたらしい。

 本田類。尾張南高校の二年生で、わたしたちの同級生。帰化した白人らしく、髪色は栗色のショートヘアーで、肌は驚くほど真っ白。男子からの人気はすごいが、諸々の事情があり女子からは嫌われがちだ。

「大丈夫だよ、めぐちゃん。ちょっと遊びに誘われてただけだから。」

 類が話していた相手の香蓮がそう返す。

「で、類がなにしたの?」

「本当に遊びに誘われてただけよ。けれども、来週末はめぐちゃんたちと映画に見に行く予定があるからって断ったの。」

 なるほど。香蓮がこいつの誘いに乗らないなら万々歳だが、逆に考えれば香蓮は私達との予定がなければ類の誘いに乗っていたこととなる。

 香蓮は相変わらず警戒心が薄い。私が個人的にこいつの存在が気に入らないというのもあるが、このような軽薄な男の誘いに危うく乗ってしまうのは生きた心地がしない。

 類は去年の十二月頃にここへ中途入学してきた生徒だが、入学以来香蓮への執着が激しい。言動に胡散臭さや軽薄さが多く、いかにも軽い男。私の類に対する印象はその程度でしかない。

「……大和がいるなら今はいいよ。ただ、来週末のことはまだ諦めてないからな。」

 類はそう突っぱねてその場を去った。類がその場から離れた頃、香蓮がぼっそとこぼす。

「大丈夫だよめぐちゃん。類くんはちょっと不器用なだけで、悪い子じゃないから。」

 第一、香蓮も香蓮だ。彼女はある種の魔性の女で、本人にその気はないが何か悪い男を集めるエッセンスをぷんぷん振り撒いている。本人は彼氏ができないことを気にしているらしいが、本当に不思議で香蓮には全くと言っていいほど悪い男しか集まってこない。

 太ももが良いだの、胸が良いだの、犯すだ犯さんだのと裏で下衆な噂をしている男を今まで何人〆たことか。

 たまに過保護だなんだと友達に言われるが、これはしょうがないことなのだ。

 ふと振り返ると、ぞろぞろと教室に生徒が登校してきていた。

「それじゃめぐちゃん。教室入ろうか。」

 香蓮はそう言って自分の机へと戻っていった。

 

 その日の放課後、先日見つけた気になるラーメン屋へ行こうと一人で再び商店街へと赴いた。昭和中期から続く年季の入っているこの商店街では、人口が多いこともあり、古着屋や古本屋などの昔ながらの店から、先鋭ファッション店やクレープ屋などの若者向けのモダンな店などそのジャンルは多岐にわたる。

 最近だと商店街そのものが不採算の不動産を潰して更に延長される計画もあるらしく、その繁盛ぶりは止まるところを知らない。

 私はいまいち興味がないが、外国人の需要や近年の韓国ブームでアジアの料理やグッズを販売している小売店も増えていて、少しずつ国際色を見せつつあるのもまた一興である。

 インドカレーの店に一度入ってはみたが、日本のカレーに慣れた私の舌ではあのスパイス中心の味付けはどうにも合わない。が、悪いものではなかった覚えがある。

 商店街のメイン通りから外れた小路地に出る。二十歩ほど進めると、左手には昨日里香たちと遊んでいるときに見つけた赤い暖簾があった。暖簾を腕押し、中に入る。そこには大好きな醬油とネギ。そして同級生には死んでも言えないようなニンニクの香ばしいにおいが広がっていた。

 そう、私の日常に刺激を求める趣味の1つ、ラーメン巡りである。中二頃からラーメン掲示板サイトでチマチマレビューの更新を続けた結果、私のレビューはある程度の信頼性を得るまでになった。

 小遣いやバイト代の30パーセントほどはこのラーメン屋巡りに浪費される。金のかかる趣味であるが、やっていて後悔したことは一度もない。

 その店の看板メニュー、醤油豚骨ラーメンを食べ終えてあの店のレビューをどうするかを考えながら、商店街をぶらつく。新しい店へ行く度にこんなことを言っているような気がするが、ここ数ヶ月の中では三本指に入るほどの美味さだった。豚骨と醤油の組み合わせは珍しくないが、その比率は難しい。醤油が少なすぎると豚骨にアクセントが加わっただけになり、豚骨が少なすぎると味の濃い醤油が勝り豚骨の風味はもはや消滅する。月々の少ない小遣いとバイト代の中でやりくりし、この広大な名古屋でラーメン巡りを始めて早三年となるが、このような御業ともいうべき配合を会得していた店は片手で数えるほどしかない。モグログで星五評価をしてやろう。

 などと考えていたら、いつの間にかスマホ屋でスマホカバーを選んでいた。前は飾り気のないものを選んだから、今回は装飾がデコデコについているのにしようか、でも装飾が多いと手になじまない……。さてどちらにしようか、としばらく熟考していた。

「ばぁっ!」

 幼児のような幼稚な声で驚かす声。驚いて後ろを振り返ると、そこには友人の香蓮の姿があった。

「っ!……びっくりするなぁ。」

 思わずそうこぼしたが、香蓮はあどけない顔でにこにこと笑っていた。

「何してるの?」

「かわいいスマホケースが欲しくて選んでるんだけど、あんまり装飾が多いと使いにくくて困ってね――」

「あっ、私もそうなの。それじゃこのi fakeってやつはどう?1年ぐらい前はこれ使ってた――」

 一緒にスマホケースを選んだのは初めて。けど、香蓮との会話も私にとってはかけがえのない日常であり、大切にしたいと思っている。

 結局香蓮と色違いのものを買うこととなり、会計を済まして店を出た。気がつくと夕暮れ時となっており、自分がいかに時間を忘れていたか分かった。

 街道は部活終わりの高校生や、帰路についている社会人。夕飯の買い出しに来ているであろう主婦などでにぎわっていた。

「そういえば、昨日のクレープ美味しかった?」

「うん、めっちゃ美味しかったよ!けれどちょっと高くてお財布には辛くて。」

「また今度一緒に行こうよ。イチゴ以外にもモンブランとか抹茶クリームも試してみたいからさ。」

 などと話していると、賑わいを見せる商店街の一端に、なにやら人集りを見つけた。不安そうな顔をしている人や、面白げに眺めている人など様々だった。見ている限りなんらかの列に並んでいるわけではなし。ひと目でわかる。野次馬だ。

「……何かあったのかな?」

 香蓮が少し不安がる。

「ちょっと話聞いてくる。」

 人集りの近くの一人のおばさんに様子を聞く。

「中で大声で喧嘩を始めたと思ったら、殴り合いの喧嘩が始まったんですって。今もまだ奥で続いてるらしくって。店員や他のお客も怪我をして、今お巡りさんを待ってるとことなの。」

 おばさんによると、なにやら喧嘩らしい。確かに店の奥から怒鳴り声が聞こえる。こんな人集りができているんだから、なにか殺人や強盗でも起こったのかと思ったらそんなことはなかった。きっと不良が下らないことで喧嘩しているだけだろう。

 ここに居てもしょうがない。香蓮に「いいや、行こ」とだけ言ってその場をあとにしようとした。

 実際、事故を起こして人集りができたところで爆弾を爆破するというテロがあるのをニュースで聞いたことがある。今回がそれとは言わないが、事前に予防しておくことは大事だ。しかし、それは杞憂では終わらなかった。

 その場をあとにした直後、「ゴオオオオオン!ドゴゴゴゴ……」と後方から突如轟音が響き渡った。さっきのカフェと思わしき場所からの爆発音だった。逃げ惑う人々。爆発音の源からは黒煙がモクモクと上がっていた。腰がすくんで動けない人もいれば、パニックに陥った女性の姿もあった。飛び散ったガラス片で傷ついた人を、引きずって運ぶ人の姿もあった。私の眼には確実に、燃え上る業火が。この目にありありと映し出されていた。私は一体何がったのか、私はどうするべきかを考えるよりも先に足が動いた。商店街の外へ逃げる人々の流れに逆流し、現場へと駆け寄る。

「何やってるの!戻ってきてよ!」

 先程の野次馬の中に一人、小学生低学年ほどの女の子がいた。そして逃げ惑う人々の隙間から、へたり込む少女の姿が見えた気がした。いや、確実にこの目に写った。

 香蓮の声が聞こえた気がしたが、私は気にもとめなかった。

 爆発はいずれ火を呼び、火が広まれば建物は倒壊し彼女は瓦礫の下敷きになってしまうだろう。というのも、既に二階から炎の手があがっていた。

 少女の傍に駆けつけた私は何も言わずに彼女を運ぼうとしたが、パニックになっているのか抵抗された。私は彼女に、「大丈夫だよ、だから落ち着いて!」とあやしたが、そんなことをやっているうちに来た道の建物が倒壊し、火の手は逃げ道にわたっていた。少女を無理やり抱え込み、来た道とは反対へ駆け出した。そちらにはまだ火の手は回っていなかった。

 手遅れとなるのは時間の問題だった。しかし手遅れ。その時、脇の木造の建物の壁が崩れ、自らの頭上へ倒れてこようとしていた。

「っ!」

 ――もうだめだ。そう思った。

「……?」

 崩れ行く建物を背に、少女を抱え込んでいた。しかし、いつまで経っても私がそれの下敷きになることはなかった。そうだ。走馬灯というのを聞いたことがある。体感時間が著しく遅滞し、人生の一瞬一瞬がものすごい勢いで再生されるというものだ。

 しかし、炎の燃え上がる音はそのままパチパチと聞こえる。走馬灯ではない。恐る恐る顔を見上げる。

 今にも倒れてきそうな壁は、斜め四十五度の角度で静止していた。瓦礫の1つずつが赤い接着剤のようなものでガチガチに接着されている。状況が分からない。とにかく分かるのは、なんとか助かったということだ。

「大丈夫か?」

 後方からそう聞こえた。振り返ると、そこには一人の男が立っていた。年齢は三十といったところだろか。しかし、不思議ともっと老けて見える。透き通るほどの白い髪と肌。身長は私より頭1つほど大きく、季節に見合わない黒い薄手のコートを身に着けている。目は力強いわけではないが、不思議と引き込まれるようだった。絵に描いたようなカリスマ性を持った男がそこにいた。

「ええ。大丈夫です。」

 そう返事したが、男は「やりすぎだ」とか「目立つなと言ったのに」とブツクサ文句を言っているのが聞こえる。さっきカフェで喧嘩していた人たちの知り合いなのだろうか。

「それはそうと、逃げなさい。」

「わ、分かりました!ありがとうございます。」

 そう言い残すして、少女を抱きかかえて走り去った。後方から壁の倒れる音が聞こえた。ガチガチに接着されていた壁が倒れていた。火が広がるような木造建築はあのカフェ一棟だけだったようで、火の手は弱まっていた。

 白髪の男をその目で探したが、男の姿はもうそこにはなかった。


 

「大和のバカ!」

「しょうがないよ。勝手に足が動いちゃったんだから。」

「しょうがなくない!死んだと思った。心配だったんだから。」

 そう香蓮に言われながら抱きつかれた。少女は母親に送り返し、救急隊員の勧めで病院で診察を済ませて来たところだ。

「いっつもそうやって言うよね。他人のことばっかりで、自分のことを全く考えないの。」

「ご、ごめん……。」

 一応謝っておく。しかし、今回は危なかった。なんの考えなしに突っ込んだが、危うく死ぬところだった。せめて算段はもって動かなければ。もっとも、今回のようなことはそうないだろうが。

 すると、待合所の奥にお父さんとお母さんの姿が見えた。

「香蓮。お迎えが来ちゃった。もう帰らなくちゃ。」

「……わかった。またあした、学校でね。」

「うん、またね。」

 そう言うと香蓮は、にこやかに微笑んだ。

 お父さん、お母さんにも怒られた。警察から連絡があったときは、思わず膝から崩れ落ちたらしい。もっとも、無事の報告も一緒に聞いて安堵したらしいが。

 お父さんからは特にキツく叱られた。しかし私の見を思って叱ってくれているということがよく分かった。己の身を案じろだとか、そんなことをリビングで正座になりながらこっぴどく叱られた。

 最初は善いことをしたのを褒められたが、それはそれとしてとワンクッション置いて我が身を一番に考えろと言われた。一見自分よがりに生きろと言われているように見えるが、実際は自分たちの娘が可愛くてたまらないのだ。

 無下にするつもりはないが、一応の返事をした。少なくとも、今回の選択で自分に後悔はない。

 翌日、学校へ行くと教室で数十人の人だかりができていた。なんだろうと思ってそろそろと近づくと、その集団のうちの一人の男子と目があった。すると彼は「あっ!大和さん来たよ。」と周りに知らせる。

 私の周りにぞろぞろと人が集まってきて「昨日のって本当なの?」だとか「聞いたよ、すごいね!」などといろいろ言われた。

 おかしいな、インリアで投稿したりとか大声で喧伝したりはしてないはずだが。もしかして、昨日ダイレクトメッセージを送った誰かが噂を流したのだろか。

 結局、その日は帰りの時間まで私の放課が暇となることはなかった。授業の間の短い放課、私が香蓮たちと一緒に昼食を食べているとき、更には授業中に隣の男子がひそひそ声で聞いてくる始末だ。

 放課後にはインリアのダイレクトメッセージ欄には大量の通知が溜まっており、今日一日聞いてきた人を思い返すと、私を労ってくれる友達や知り合い、噂の確認のためにやってくる人、更にはやけに親しげにしつこく聞いてくる見ず知らずのやつ。特に3つ目はダイレクトメッセージ欄にも多かった。

 流石に翌日からは減ったが、それでもちょくちょく噂の事実確認にやってくるやつが後を絶たなかった。数日間何回も何回も同じ話をしなければならないので正直うんざりだった。

 事件の方は軽傷者こそ数名いたものの、特に死傷者や後遺症が残るような重傷者はいなかったらしい。強いて言うならば、爆発が起きたカフェの店主とその隣の倒壊して私の退路を塞いだ餅屋の主が物的損害を被ったことぐらいだろうか。

 そうそう。私のところにも巡査さんが形式上の取り調べにやってきた。爆発前の事件現場について聞かれたり、誰か怪しい人間がいたりしなかったかなどを聞かれた。

 例の私を助けてくれた白髪黒コートの男のことについて話すと、巡査さんは何やら険しそうな顔をして、「……それって本当なんですか?」と聞いてきた。まあそうか。あまりに非現実的すぎるか。多分、パニック中の幻覚の延長線上かなにかだと思われたのだろう。

 ああ、そうだ。巡査さんに「命を賭して何かを成し遂げようとすることなんて、誰にでもできることではないですよ」などと言って褒められたのが嬉しかったのと、それを見ていたお父さんが「余計なことを言うな」と言わんばかりの形相でこちらを見ていたのも覚えてる。


 このとき、私はあくまでこれら一連の騒動も、「日常の中の騒動のうちの1つ」にすぎないと思っていた。

 しかし、この時の私は知らなかった。この騒動が日常化し、いままでの日常が「非日常」となることに。

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