プロローグB:示談屋

 ロングマン夫婦の元に人が訪ねてきたのは、ティータイムをすっかり過ぎた午後四時頃のことだった。

 チャイム音を聞いたロングマン氏は苛立たしげに立ち上がった。

「まったく……予定の時間より一時間も遅れているぞ」

「お相手も、きっと忙しいのよ」

 窘める夫人に対して、ロングマン氏は余計に苛立ったようだった。

 玄関へと向かいながら、座ったままの夫人に対して彼は声を荒げる。

「そんな弱腰だから、お前は付け込まれるんだ! 見ていろ、俺が搾り取れるだけ搾り取ってやる!」

 それに対して何も言い返せないでいる夫人を背に、ロングマン氏は勢いを付けて玄関扉を開いた。わざと乱暴な態度を示すことで、これから控えている交渉を優位に進めようというつもりなのであった。

「遅いぞッ! 今何時だと――」

「どうも、ごきげんよう」

 そんな声が頭上から聞こえて来て、ロングマン氏は思わず言葉を呑み込んでしまった。

 玄関先に立っていた人物は、彼が想定していたよりもずっと長身だった。

 見上げると、ハンチングを被った無精髭の若い男がロングマン氏を見下ろしている。

 軽薄な笑みを浮かべているが、帽子の陰になっている両目ばかりが刃物のようにギラギラと輝いている。

「こちらがロングスマンさんのお宅で?」

「……ロングマンだ」

 一目で、その男が堅気の人間ではないことがロングマン氏には分かった。

 自分のような日々の地道な労働と質素な生活に勤しむ小市民とは違い、目の前のこの不吉な男がどのような『生業』で生計を立てているか、それは想像に難くなかった。

「おっと、こいつは失礼」

 何が可笑しいのか、長身の男はへらへらと笑ってからねずみ色のチェスターコートの内ポケットから紙切れを取り出して、手渡してきた。

 そのくしゃくしゃになった紙片を受け取ろうとしたロングマン氏は、男の左手の人差し指に杜若色の血痕がこびりついていることに気が付いて、ピクリと表情を震わせた。

「おや、どうかしましたかね?」

 ハンチングの男の見透かしたような笑い声を聴いて、ロングマン氏はひったくるように紙切れを受け取る。

 それは名刺だった。

『ピースメーカー保険調査

    ヴィンセント・ヒーリィ

~ 顧客の不安に寄り添う 『平和作り』のスペシャリスト ~ 』

「ニトロメトロ・リーガルから委託を受けとります、ピースメーカー保険調査のヴィンセントでございます。この度は自転車事故ということで、奥様がご災難に遭ったようですが、命には別条はないってことでなによりですな。さておき、どうぞ、よろしく」

 爛々と輝く目で見つめられながら差し出された左手の握手を、ロングマン氏は拒否することができなかった。



「人の指で、最も価値があるのはどれだか知ってます?」

 ダイニングチェアに着くなり、ヴィンセントと名乗った男はそんなことを言い出した。

「……知るか、そんなこと」

「冷たいですなぁ……示談の交渉に入る前に、少しは打ち解けたいもんですがね」

 男はハンチングを脱いでダイニングテーブルにそっと置いた。

それに伴い、隠れていたその容貌が露わになった。

 歳は、まだ若いと言って差し支えない。三十手前と言ったところだろうか。頬はこけて、両目も落ちくぼんでいる。その眼窩の奥で両目が獣のように濡れ輝いて、緩んだ口元とは対照的に予断のない動きでロングマン宅を睨みまわしていた。

「奥さんは、どう思います?」

 ロングマン氏の隣に座っている夫人に話しかけると、ヴィンセントはへらへらと笑った。

「私は……その……」

 ロングマン夫人は平凡な家庭主婦だ。突然現れたこの横柄で慇懃無礼な、あからさまに危険な香りのする男に対する免疫などは一片も持ち合わせいない。

 ビクビクと怯えたように視線を彷徨わせる夫人を見て、示談交渉人は性根の曲がった笑顔をますます強めた。

「おい、あまり妻に話しかけるな!」

「全く、嫉妬深い旦那さんですなぁ」

 不気味な男はそう言って肩をすくませると、いきなり左手を広げて夫妻の目前に手を突き出す。

「正解はね、左手の薬指ですよ」

 わざとらしく左手を閉じたり開いたりしながら、ヴィンセントは聞かれてもいないのに語り出す。

「左手の薬指は、契約の指です。結婚をすれば左手の薬指に指輪を嵌めるでしょう? 契りを交わし、誓いを永遠のものとする。そのために人間の左手薬指は存在するってわけです」

 底の知れない瞳で己の薬指を眺めながら、ヴィンセントはロングマン夫婦など目に入っていないかのような態度で語り続ける。

「だからね、ポーカーで負けて一文無しになっちまった時も、こいつが助けてくれたんです」

 まるでそれが甘い思い出かのように、示談屋はうっとりとした顔でいる。

「いよいよ細切れにされるかって時に、最後に一度だけ、左手の薬指の爪を賭ければ勝負を続けさせてくれるってんで、ぺりっと剥がしちまったんですよ。そしたらね、出たんですよ! ストレートフラッシュが! ありゃチビっちまいましたね、全く! いやあ、あの時薬指の爪を賭けていなかったら、今頃は豚の糞ってわけです」

 いよいよゲラゲラと笑い出したヴィンセントに、もはやロングマン夫婦も言葉を発することができなかった。大企業の横暴には屈すまいというロングマン氏の決心も、ここへ来てすっかり、揺らいでいるのであった。

「さて、まあ、俺の失くした爪がその後に伸びてきたのと同じように、あんたの足はそのうち治るでしょう? 奥さん?」

 優しげに聞こえて実に鋭い声音で、ヴィンセントはロングマン夫人に問いかけた。先程とは違い、それは明確に回答を求める問い方だった。

 右足に包帯を巻いたロングマン夫人は、顔を俯かせるばかりだ。

「貴女を診た医者から聞きましたよ、全治二か月だそうですね。めでたいことで」

「『めでたい』だと! ふざけるなッ! あんたらのせいで妻は職を失ったんだぞ!」

 机を叩きながら声を張り上げたロングマン氏に冷ややかな目線をくれると、示談屋はかけらも動じずに淡々と話を続けた。

「奥さんが働いている裁縫工場でしたら、奥さんの怪我が原因でクビになったわけじゃなさそうですがね」

「な、何?」

「おっと、奥さんから聞いてないんですかい? こりゃいけねえや、奥さん、俺から説明しちまいますが、良いですかね?」

「い、いえ……それは……」

「裁縫工場のカシラですがね、あれは随分前から奥さんに手を出そうとしてたみたいですよ」

「や、やめてください!」

 夫人の制止にも、示談屋はどこ吹く風だ。

「奥さんも大したもんで、賃金の底上げにも、労働環境の優遇にも応じずに男の誘いを断り続けていたみたいですが、当然恨みを買って最近はキツい仕事ばっかりさせられていたんでしょう? ちっともそんな苦労に気がつかねえってのは、ロングマンさん、あんたって男は全く見下げたもんです」

「ば、ばかな……」

「厄介払いですよ、嫌がらせも兼ねたね」

 示談屋はそう言って、チェスターコートの内ポケットから黄ばんだ紙を取り出した。

 折りたたまれたそれを乱暴に開くと、不吉な男はそれをロングマン氏に向けてテーブルの上へ置いた。

「職場での嫌がらせに夫の無関心、心労が祟って自転車の運転中に注意力が落ちたんでしょう」

 有無を言わせぬ口調で断定して、示談屋が深く椅子に腰を落とした。

 長い両足をあろうことかテーブルの上で組むと、彼は顎で紙を指し示した。

「さて、『責任の所在』も明らかにしたところで、ロングマンさん。そちらの示談書にサインをしてもらいましょうか?」

 いまだ困惑のさなかであるロングマン氏は自分に向けられた靴底と紙を交互に見比べて目を白黒させた。

「お言葉ですがこちらも暇じゃないんで、早くしてもらえると助かりますね」

 ロングマン氏は我に返り、跳ねるようにテーブルの上の示談書をひったくった。

 目を皿のようにして示談書に目を通すロングマン氏を、ヴィンセントは鬱陶しそうにあくびをしながら半目で眺めていた。

「ふ、ふざけるな……! 補償金なしだと!」

「ですから、長々と説明した通り、ニトロメトロ社には『まったく』非はないわけですから、当然補償金などないですわな」

「貴様ッ! いい加減に――」

 パリン。

 と突然響いたそんな小さな破砕音で、家の中は水を打ったように静かになった。

 音の源はどうやらロングマン氏の背後、小さなキャビネットであるらしかった。

 振り向いたロングマン氏は、キャビネット上に置いてあった写真立てが仰向けに倒れていることに気が付いた。

 写真立てを覗き込んだロングマン氏は、思わず息をのんだ。

 夫婦二人で並んで写ったその写真には、無残にも穴が二つ空いていた。

 ちょうど二人の顔の部分を、寸分違わず貫通する二つの穴――

 呆気にとられるロングマン氏とは別に、示談屋の右隣に座っていた夫人はあることに気が付いていた。

 だらしなく両足をダイニングテーブルの上で組んだ示談屋の、その右腰。

 ねずみ色のチェスターコートに隠れて見えていなかったそこには、古びた革のホルスターと、それに納められたスリンガー付きの短杖ステッキ

 杖長およそ二十センチ。スリンガーの形状から、それが日常使いを想定したモデルでないことは明らかだ。

「あ、あなた……」

 震える声で、夫人はロングマン氏に呼びかけた。

「どうやらわたしが悪いようですし、今回はこれでサインをしましょう、ね」

 ただならぬ妻の表情に、ロングマン氏は黙って頷くしかなかった。



「毎度あり!」

 にやにやしながらサイン済みの示談書を掲げた俺を憎々しげに睨んでから、ロングマンは乱暴に玄関扉を閉めた。

 締め出された俺は、直前まで浮かべていた軽薄な笑みをすぐさま消し去ると、そそくさとその場を離れた。笑顔は作るものだが、不景気は真顔にこびりついている。

 調子のいい貴族や成りあがった金持ち連中は、真顔に微笑みが張り付いている。だから、ふとした時に見せる表情で、そいつがどんな人生を送っているのかがわかる。

 示談書をチェスターコートの内ポケットに乱暴に押し込み、大通りを避けて細い裏路地へと入っていく。俺にとってラングトンの路地は庭のようなものだ。

「クソな仕事だぜ」

 うんざりとそう呟いて、日の差し込まない路地を進んでいく。

 軍を除隊になったばかりの頃は、まだよかった。

 貴族のボディガードなんて高等な仕事もしていたもんだが、なんやかんやあってそこもやめちまって、それからは落ちぶれる一方だ。

 仕方なくギャングの用心棒なんかもやったが、足を洗った時には黒い噂が広がり、まともな用心棒の仕事も回ってこなくなった。

 今や示談屋なんていう犬に付くシラミ以下の稼業で飯を食う始末。

「チッ……」

 ネズミやゴキブリの這い回る、下水の据えた匂いが漂うこの裏路地には、宿無しやスリなどが潜んでいる。

 田舎からやってきて間もない連中が路地に迷い込もうものなら、すぐにでもこいつらの餌食になってしまうのだが、浮浪者連中は俺を一瞥するなり興味なさげに立ち去ってしまう。同じ穴の貉だ。

 今日のノルマを終わらせてしまおうかとも思ったが、一々事務所に戻って報告をしなくてはならない決まりだ。

 社員が示談書を持ってふけてしまうことを防ぐ手立てだろうが、フェイギンの脂ぎった顔を思い出すだけで頭に血が上る。

 あの黒ずんだ、吹き出物だらけの汚らしい顔。濁った眼で見られる度に怖気がする。

 いっそのこと顔に風穴でも開けてやりたいが、『殺しの免罪符』はもう捨てて久しい。

 俺は軍の古い支給ホルスターをチェスターコートから少しだけ覗かせながら路地を渡り歩く。これがここでの身分証明書のようなものだ。

 ホルスターに収まっている短杖は、杉でできた粗悪品だ。子供が魔法の練習用に振り回すような粗末な代物で、とても使えたもんじゃない。

 だが、そんなものでも持っていないよりはマシだ。

『杖には使い手の魂が宿る』なんて考えはもう古いのだが、今の俺にはこれくらいの代物がふさわしいのだということは確かだった。



〈ピースメーカー保険調査〉は商業区とスラム街の間にある。

 宝飾品店や高級な仕立て屋などが並ぶような場所ではない。違法すれすれの高利貸しや、違法そのものの高利貸しなどが居並ぶ、通称〈追い剥ぎ街〉と言われる劣悪な場だ。

 まっとうな人生を送っている人間なら、足を踏み入れることすらないだろう。

 日が経つごとに割れた窓ガラスの割合が増えていくレンガ造りのボロ屋の二階に、事務所はある。

 俺のようなクズを示談屋として雇っているような会社だが、かの大企業ニトロメトロ社の代理業務を行っていることは嘘ではない。

 孫請けの、そのまたトンネル会社の、契約外の会社であり、俺がむしり取った金の内の一パーセントでも会社に入ればいいところだ。フェイギンの野郎が必死になって俺に鞭を入れるのにも納得がいく。

 建物の中はタバコと酒と違法な『植物』の匂いで充満している。腐りかけの階段を上っていくと、床で寝転がっている老人の姿が目に入った。酒と小便の匂いが階段下まで漂っている。三日前からそこで倒れている。おそらくは死体だろうし、きっと蛆が湧くまで誰も片付けないだろう。

 ひどい体臭を放つおっさんの体をまたいで、俺は奥から三番目の扉の前まで進む。

〈ピースメーカー保険調査〉と扉に直に書かれている。

 ノックをする義理などない。俺は乱暴にドアノブをひねって――

 そしてドアを開けずにその場で動きを止めた。

 ドアの向こうからは、噎せ返るような血の匂いがしている。

(なぜ気が付かなかった……!?)

 建物に漂う悪臭、そして床に転がる死体の激臭で一瞬判断が遅れた。

(畜生、ドアノブ捻っちまったじゃねえか……)

 耳を澄まして扉の奥の音を探るが、恐ろしいほどに静かだ。

 無人と信じて中に入るか? それともこのまま立ち去るか?

 いや、俺がドアノブを捻った音が中の人間に聞こえていないわけがない。

 フェイギンがいるのだとすれば、とっくに大声でがなり立てていたはずだろう。

 野郎がこの部屋を離れるわけがない。小便だって窓からするような男だ。この血の匂いは、間違いなくフェイギンのものだろう。

 どれほどの恨みを買っているか、想像するほどのものでもない。まずいのは、フェイギンに恨みがある連中は、たいてい俺にも恨みがあるということだ。

 事務所の中には、俺の情報も残っている。

 今俺がこの場から逃げても、フェイギンを殺した奴は次に俺を狙うだろう。

 いつ襲ってくるかもわからない敵を待つよりも、今ここで仕留めるべきだ。

どのみち、俺の早撃ちに勝てる奴はラングトンには存在しない。

 左手でドアノブを捻ったまま、俺は右手でチェスターコートの裾をゆっくりと腰の後ろへ回した。

 そのまま音を立てずに、ホルスターから短杖を抜く。

 ロングマン宅で二発、血を消費している。部屋の中の人間が何人いるかは分からないが、万全を期す必要がある。

 俺は短杖に取り付けたスリンガーから伸びる針に親指の第二関節を押し付けた。短杖の芯まで、針は繋がっている。俺の指から出た血は針を伝って短杖の中まで浸み込んでいく。これで弾の装填は完璧だ。



 肩でぶつかるようにして事務所の扉を開き、一秒以内にすべての状況を把握する。

 椅子に座ったまま死んでいるフェイギン。

デスクの上に綺麗に並べられた内臓。

 そしてこちらを向いて立っている人影。

 問答無用で短杖のトリガーを引こうとした俺は、しかし漆黒のローブを身にまとった『何者』かの目を見た瞬間、体の動きを止めた。

 先ほどとは違い、俺が自分で動きを止めたわけではない。

「……ッ!?」

 金縛りにあったかのように体が動かない。

 満身の力を籠めようと、トリガーにかかった右手人差し指は微動だにしない。

 あと数ミリでも指が動けば、目の前の野郎の頭をぶち抜けるのに!

 金色の瞳だ。

 ローブ野郎のフードの奥、わずかに見えている金色の瞳と目が合った途端、体が動かなくなった。

 金髪で、磁器のように白い肌だ。顔のすべては見えないが、その金色の瞳だけは強烈に存在感を放っていた。

 目が釘付けになって、自分からは視線を外せない。

美しいのだ。

その金色に輝く瞳には神々しさすら感じる。

こちらから目を背けることが、なにか礼を欠く行動であるかのような脅迫的な観念に囚われる。

(事務所に入った時点で魔法にかかってたのか!?)

 いや、ありえない。そんな安い罠にかかるほど、俺はまだ平和ボケしていない。

 目だ、その金色の目に魔力がある。

 タネが分かろうとも、体が動かなければ意味がない。

 部屋に突入してからここまでおよそ三秒、反撃をされるには十分すぎる時間だ。

 視界の隅で、ローブ野郎が刃物を握っているのを補足する。よく見えないが、小型のナイフだろう。

 このような状態では「どうぞ喉笛を掻き切ってください」と言っているようなものだ。

 野郎は俺から目を離さないまま、勢いよく一歩を踏み込んだ。

 奴のナイフが俺の喉に届くまであと三歩。

 あきらめて死を受け入れてもよかったが、まだ勝機はある。

 残り二歩。

 まだだ。まだ来ない。チャンスがあるとすれば一回。そして一瞬。

 残り一歩。

 血の匂いに交じって、柑橘類のようなコロンの香りがした。

 最後の一歩。

 まさにローブ野郎のナイフが俺の喉元に向かって迫り来たその直前だ。

「ッ!」

 金色の瞳が一瞬だけ瞼に覆われた瞬間。ローブ野郎が瞬きをしたその刹那、俺は全力で上体を反らして右腕を前に突き出した。

 ナイフが俺の首の薄皮をかすめたのと、俺が短杖のトリガーを引いたのはほぼ同時だった。

 金色の瞳から逃れるように視線を向けた先では、短杖の先端がナイフに切り取られ、杖に充填されていた風魔法六発分の杜若色の血が空中に漏れ出していた。

 まずい、と思ったが、すでにトリガーは引かれている。

 ゴァアッ!

 凄まじい轟音と共に、部屋の中で豪風が暴れ狂う。

 抵抗の術もなく吹き飛ばされた俺は、事務所の扉を抜けて廊下の窓に背中から突っ込んだ。ガラスを粉砕した衝撃で風の勢いは収まり、俺はそのまま建物の一階まで落下する。

 自分が割った窓が視界から遠ざかっていく中、俺は衝撃を和らげるために身体を丸め、着地と同時にごろりと後転した。

 両足をついて、俺はまず右手に握った短杖を見た。

 ダメだ。杖口から三分の一ほどがスッパリと切られて使い物にならなくなっている。安い杉の短杖だったのが不幸中の幸いだ。

 なんだか生ぬるい感触がして、俺は自分の頭に手を伸ばした。

 ぐにゅりとした触感のそれは、黒ずんだフェイギンの内臓だ。

「……野郎ッ!」

 汚い臓物を投げ捨て、折れた短杖を放り捨てて、俺は建物の中に駆け込んだ。

 完全に頭に血が上っていた。もはや安全などどうでもいい。

 ふざけたローブの野郎を叩きのめしてあの薄気味悪い目玉を抉り出してやらないと気が済まない。

 階段を駆け上がりながら、チェスターコートの内ポケットから折り畳みナイフを取り出す。杖が使えないなら、下品な戦い方をするしかない。

 飛び込んだ事務所の部屋の中はひどい有様だった。

 元通りの場所にある家具は一つもない。

 床はめくれ壁は崩れ、おまけにそこら中に内臓が散らばっている。

 暴風の勢いで、泥人形のように潰れたフェイギンの死体が天井の照明に引っかかって揺れていた。

 ナイフを片手に部屋を見渡すが、ローブ野郎の姿はない。扉の反対側にも大穴が空いているから、そこから逃げたのだろう。完全に取り逃がした。

 舌打ちをして、俺はナイフをチェスターコートの内ポケットにしまう。いない敵を深追いするほど無謀ではない。次に会った時に返り討ちにするだけだ。

 部屋の片隅に落ちていたハンチング帽をかぶりなおしていると、気になるものが視界に入った。

 さきほどの衝撃で無残にひしゃげたその物体は、古い金庫だ。

 フェイギンが命よりも大切にしていたそれこそが、奴がこの部屋を離れたがらない理由だった。

 そんな金庫だが、今や主人もいなければ錠前も壊れていた。

「……ふん」

 どうせフェイギンは死んだんだ。

 俺は金庫に近づくと、そのちんけな扉を蹴り飛ばした。

 身をかがめて、俺はその中身を覗く。

「……おっ!」

 呆気なく開いた金庫の中には、思わず口笛を吹きたくなるような額の札束が入っていた。

 さきほどまで俺を動かしていた脳天を貫くほどの怒りは、今やその影もなくなっている。

 わけもなく辺りを見回して、金庫の中に手を突っ込む。

「まあ、未払い分の給料ってこった。なあ? 社長……」

 多幸感と共に札束を掴み取り、俺はそれを体中のあらゆるポケットに突っ込んだ。ポケットに入らない分はズボンの中に突っ込んでいく。

 クズの雇い主は世を去り、こうして大金が手に入った。

 あのローブの野郎は、神様が俺に遣わした天使なのかもしれない。

 すっかり上機嫌だ。天井からぶら下がったフェイギンの血まみれの顔にキスしてやりたいくらいだった。

 口笛を吹きながら事務所を出ると、俺は何者かの視線に気が付いた。

 廊下で転がっていた老人が、上体を起こして俺を眺めていた。

 目を見開き、大層驚いたような表情だ。

「なんだ、生きてたのか」

「お、おお……」

 俺はポケットから一束の札を掴みだして、パクパクと口を開いたり閉じたりしているその男に放った。

「ちょうどいいや。じいさん、警察が来たら、フェイギンに恨みのあった債務者が暴れていたと証言してくれ。その金で風呂屋にでも、酒場にでも行ってくりゃいい」

 目の前に散らばった金を三日も寝ていたとは思えない速度で拾い集めた老人は、その枚数を確認してからにっかりと笑った。残り少ない歯が黒く輝いている。

「お安い御用!」

 俺は微笑みを返してから、事務所を後にした。

 金はたんまりあることだし、一度自分のフラットに戻って汚れた顔を洗ってから、普段は通り過ぎるだけの高級娼館で最高の夜を過ごそう。貴族が出入りするようなバーにしけこむのも大いにアリだ。

「けけけ……」

 喉の奥から蝙蝠の鳴き声のような笑声を漏らしながら、俺は町に繰り出した。



この先一年は遊んで暮らせるほどの金がある。これを元手になにか商売でも始めるか?

考え事をしているうちに、俺は追い剥ぎ街を抜けて自分のフラットがあるブロックへやって来た。家賃などあってないようなスラム街の縁にあるブロックだ。いつでも暗くて、そしてうっすらと臭い。ここに住み始めた最初の頃は、強盗にビビッて自分の部屋に入るにしても短杖が手放せなかったものだ。実際、三年ほど前に一度、家に戻った途端に強盗に押し入られことがある。短杖がなければこんなゴミ溜めでくたばるところだった。

パン屋の壁には『スノウ=ホワイト 三年ぶりのラングトン公演!』とポスターがでかでかと貼られている。明後日はロイヤルホールでスノウ=ホワイトの公演だ。

「……けっ」

 こんな場所に貼っていてもなんの意味もない。莫大な額のチケットを購入できるのは貴族だけだ。スノウ=ホワイトは手にした金を孤児院や病院にほとんど寄付しているという話だが、それが本当かどうかなど知る由もない。

 それに、どれほどスノウ=ホワイトが寄付をして回ろうと、俺がその恩恵にあずかるようなことは決してない。

ポケットに手を突っ込んで歩いていると、フラットの入り口に人影を見かけた。

家賃を取り立てに来た大家だろうか? だとすれば、滞納していた数か月分の家賃をまとめてその顔面に叩き込んでやれる。

しかし、近づくにつれてその人影が大家のものではないことが分かった。

なにやら慌てている様子のその女の足元にまとわりついているのは、あばらの浮いた一匹の野良犬だ。

興奮した様子だが、とくにいきり立っているわけではない。自らの縄張りに見かけない人間がいることで少し警戒しているのだろう。

女が慌てて野良犬を振り払おうとするほど、犬は興奮する。あれでは埒が明かないだろう。

俺は右手の人差し指と親指で輪を作ると、指先を口に含んで勢いよく息を吹いた。

ヒュイッ!

鋭く鳴った指笛に、野良犬はぐりんと振り向いた。

ヴィンセントの姿を見るや、野良犬は舌を出してのそりと近寄って来る。

この上なく見知った顔だ。もしかしたら同じ野良犬だと思われている可能性すらある。

ひとしきりじゃれつかせた後に、ヴィンセントは適当に野良犬をあしらった。満足した様子の野良犬は据えた匂いのする路地裏へと消えていく。

「こっちにはカフェもブティックもねえぞ。さっさと大通りに戻るんだな」

 犬を見送った俺は、改めてフラットの前に立つ女に声をかけた。

 たまに土地鑑のない観光客がこんなところまで迷い込むことがある。スリやら追い剥ぎやらに襲われる前に、親切にも道を教えてやろうというわけだ。

「ありがとう……でも、ここへは迷い込んだわけではないの」

 スカートの裾を直しながら、ブリュネットの髪を短く切った女が俺を見上げる。

「このあたりに、ヴィンセント・ヒーリィという男が住んでいないかしら? 頼みたいことがあって――」

 疑いようもなく自分の名を呼んだその女の顔をまじまじと見つめなおした俺は、少しの驚きと共に言葉を漏らした。

「……エレノア?」



 エレノアは、いうなれば元同僚だ。

 軍を辞めた後、まず転がり込んだのがフレーダー侯爵家だった。

 一口に貴族と言ってもそれぞれの家には役割があり、フレーダー家はその中でも特別な立場にあることはもはや公然の秘密である。

『貴族のお目付け役』たるフレーダー家の護衛は、家柄を鑑みない完全な実力主義。経歴に傷がある俺のような人間でも、腕が立てば門扉が開かれるというわけだ。

とにかく、俺がまだフレーダー家の白い制服に身を包んでいたとき、このエレノアという女もメイドとして同じ屋敷にいたということだ。

その当時は二、三回言葉を交わしたことがあるかどうかってところだったが……。

「なんの用だ? フレーダーなら『仕事』で転領のはずだろ」

「私はラングトンに残ったの……今は家政婦よ」

 そう答えた後、そんなことはどうでもいいとばかりにエレノアは鬼気迫る表情を俺に向ける。

「お願い! 妹を探してほしいの!」

「はあ? 妹?」

「そう……ラングトンで二人で暮らしているの。彼女、百貨店で働いているんだけど、一昨日の朝に仕事に行ったきり家に帰ってこないのよ……店に電話しても一昨日は出勤していたって言うし、ここ何日はベラトニックの連中が女を攫ってるとかって噂も聞いて……!」

「おい、落ち着けよ……」

 縋りつくような彼女をなだめながら、俺は辺りを軽く見まわした。あまり大声で話して目立ちたくはない。

「どうして俺のところへ来たんだ? まずは警察だろうが」

「当然警察には相談したわよ! そこでもここ二、三日は誘拐事件が連続していて捜査に時間がかかるって言われて……それで、フレーダーのお屋敷で働いてた別の人にも相談したんだけど、あなた、お屋敷を辞めた後にベラトニックの用心棒を始めたらしいじゃない? だから――」

「あんた、仮に俺がベラトニック用心棒だとして、直接会いに来たら危ねえとは思わなかったのか?」

「それは……」

 いい澱むエレノアに対して、俺は溜息をついた。

 冷静な判断力を失うほどに、エレノアは気が動転しているようだ。

 正直なところ、ベラトニックの連中とトラブルを起こすなんて御免被るのだが、このままこの女を放っておくと、本当に一人でギャングの巣へ突撃しかねない。

 俺は顎の下を摩りながら今後の動き方について考えを巡らせた。

「まあ……ちょっと前にベラトニックの用心棒をやってたのは間違いじゃねえよ。今は違うけどな」

「そ、それなら、妹の居場所も分かる?」

「ベラトニックに攫われたと決まったわけじゃねえだろ? それに、あの連中の元にいるからと言って、足抜けした俺がどうこうできる話じゃねえしな」

「…………」

「おいおい、そんな顔すんじゃねえよ……」

 思いつめた様子のエレノアにそう声をかけると、俺は帽子を被りなおした。

「手伝わねえとは言っちゃいねえさ。妹の足取りくらいなら探ってやる」

「ほ、本当……?」

「噂通りベラトニックの連中に捕まっているようだったら、それこそ警察にタレコミすりゃいい。元同僚のよしみだ、手伝ってやる」

「助かるわ……なんてお礼したらいいか……」

「そうだなァ」

 と、俺は再び顎に手をやった。

 金ならたんまりあるが、危ない橋を渡るからにはなにか『オイシイ』思いをしたいもんだ。それに、手がかりを得るにも足を動かさないことには始まらない。

「金はいらねえ。その代わり――」

「その代わり、なによ……も、もしかして……」

 怯えたような顔で己の身をかき抱いたエレノアを見下ろしながら、俺はある提案をした、



「ひゃあ、うめえな。ラングトンいち(・・)だって言う連中がいるのにも納得だぜ」

 ラムチョップにかぶりつきながらそう言った俺に対して、対面に座ったエレノアは苦い顔をした。

「ちょっと……手掴みなんて……」

「ああん? 都合よく骨が付いてんのに、ナイフとフォークで食うやつがいるかよ。俺の地元じゃ、ラムチョップは手掴みで食うもんだぜ」

「ここはドレスコードがあるようなお店なのよ……一緒にいる私が恥ずかしいじゃない

……!」

「俺の奢りだ。それぐらい我慢しろ」

 血の滴るようなレアな焼き加減は、故郷でもよくやっていた。

 周りのテーブルを見回すと、スカした顔の連中が芝居掛かった様子でワイングラスを傾けている。中には俺のほうにチラチラと視線を投げる人間もいたが、睨み返してやるとすぐに視線をひっこめた。

「そもそも、どういうつもりなのよ……今日一日、妹の捜索どころか私をあちこちに連れまわして……こんなことをしている場合じゃないでしょ?」

「報酬の先払いだ。支払われる前にくだばっちまう可能性がある場合はな……」

 そう答えると、エレノアはムッとした様子ながらも黙り込んだ。

 先ほどから、運ばれてくる料理にもほとんど手をつけていないようだった。肉親が行方不明となっている状況では食欲もなにもあったものではないのだろう。

「こういう店は、金があっても俺みたいなチンピラは一人じゃ入れちゃくれねえのさ。あんたみたいな女連れなら話は別だがな」

「と、とにかく……満足したら本当に妹を探してくれるのでしょうね? もう三日が経とうとしているわ、あの子に何かがあったら……」

「まあ、まあ、焦るんじゃねえよ。この俺にどんと任せておけ」

 そうして、俺がもう一度ラムチョップにかぶりつこうとしたその時だった。

 バヒュンッ!

 突然の爆発音によって、レストランホール内すべての食事が中断される。・

 音のする方――エレノアの背中の向こうで古いチェスターコートを着たビジネスマン風の男が短杖を振りかざしているのが見えた。

 一瞬遅れてレストランホールが悲鳴に包まれ、ガシャガシャと食器がけたたましく音を立てる。

「な、なに……!?」

「伏せろッ!」

 事態を吞み込めていないエレノアの手を掴んでしゃがませると、俺たちはテーブルの反対側に隠れた。

 周囲を見渡すと、同じようにテーブルの下に隠れた客が何組かいる。

「見ろ、あれが一人客を入れたがらない理由だ……」

 エレノアの体を抱き寄せながら、俺はテーブルの脇から顔を出して様子をうかがった。

 頬がこけた中年の男は唾を飛ばしながら何かを叫んでいるようだった。

 状況を見るに、金も持たずに店に来て飲み食いをして、いざ勘定というときに暴れ始めたらしい。一見まともな男を招き入れた店側のミスだろう。俺は内心ほくそ笑んだ。

「ば、バカにしやがって! おれ、おれは高魔力者だぞッ! 見ろ! おいッ!」

 半狂乱になりながら自分の手首をナイフで切りつけた男は、ダリアパープルの血を周囲に見せつけるように散らし始めた。

「見ろ! この国はおれたち高魔力者の国だ! 青い血が王国を繁栄させたんだ!」

 男を除くレストランの誰もが黙り込んでいた。

 それは恐怖と不安によるものに違いなかったが、俺は黙って男の主張に耳を傾けていた。

「どうして低魔力者どもがデカい顔してんだ! どうしてこんな店に低魔力者どもがいるんだ!? どうしておれたちが仕事を探しまわらなきゃならねえんだ!?」

 俺はテーブルの上に残されたラムチョップに目を向けた。赤い血が滴っている。

 青い血を持つのは人間だけ。だからこそ、血は青ければ青いほど、『より人間』なのだ。

 今や堂々と血液の色で人を差別するような言説が陽のあたる場所に現れることはないが、それでもこの頑迷固陋な価値観はそこら中に蔓延っている。

「声を挙げろ! 虐げられたおれたち高魔力者のためにッ! う、美しい国を取り戻せッ!」

 バシュッ! バシュンッ!

 ついには火弾魔法をそこら中に打ち始めた男の杖の先が無秩序に暴れまわる。

 シュバッ!

「きゃあっ!」

 タイミング悪く打ち出された火弾がエレノアの横髪を掠めて飛んで行った。

 エレノアの悲鳴が止むよりも早く、俺はその場に立ち上がっていた。

 今やホールの中で立っているのは俺と、それから中年の男だけだった。

 男はすぐさま俺に気が付いたようだ。焦点の定まらない目でこちらを睨んでいる。

「……な、なんだあ!? やんのか!?」

 脳天をぶち抜いてやろうと右手でチェスターコートの裾を払った俺は、あるべきものがそこにないことに気が付いた。

 ――短杖がない!

 常に肌身離さず身に着けていたものだったから、まさか腰にぶら下がっていないとは思わなかった。

(さっきぶっ壊したのを忘れるかね……!?)

「ぶ、ぶっ殺してやる!」

 中年男がそう叫んで短杖の先を俺に向けてきた瞬間、俺は我に返った。

「おォラッ!」

 渾身の力で目の前のダイニングテーブルをひっくり返して放り投げると、俺はそのままの勢いで盾にしたテーブルに飛び込んだ。

 火弾を受け止めて穴の開いたテーブルを踏み台にして、俺は高く飛び上がる。

 男が呆けたような表情でこちらを見上げているのを確認した俺は、体重を右足に乗せて思い切り男の顎を蹴り上げた。

「おごァッ!?」

 仰向けに倒れ込んだ男に馬乗りになって、俺はその顔面に拳を振り下ろした。

 肉を叩き、骨を砕く感触が拳に響いた途端、身震いするような寒気が体の奥底から湧き上がる。

 寒気はやがて煮えたぎるような激情へと転じて、俺の脳を沸騰させる。

 雪山を一日中彷徨ったあとに、熱い湯に飛び込んだような感覚だ。

 無限に湧き上がるような激情を体から追い出すように、俺は何度も拳を叩きつけていた。

「……セント!」

 誰かが俺に呼びかけている。叫ぶような声だ。

 やがて、地の底から響くような獣の唸り声のようなものが聞こえた。

 俺に殴られている男が発している音なのか、それとも俺が発している音なのか、それは分からなかった。

「ヴィンセント!」

 バチンッ! 

 体が倒れるほどの衝撃と共に、俺の頬に平手が炸裂した。

 雪山に引き戻されたように瞬時に冷静になった俺は、俺を見下ろすエレノアの顔を捉える。

 怯えと驚愕と、そして怒り。

「とっくに動かなくなっているわよ……!」

 震えた声でそう告げたエレノアに、俺は下を向いた。

 血だまりの中で、時折ぶくり、ぶくりと泡を吹いているのは、先ほどまで暴れていた中年男に他ならなかった。

「……やりすぎよ」

 糾弾するようなエレノアの声に、俺は思わず反論した。

「俺はお前を守ろうと――」

「それなら、どうして笑ってるのよ……?」

 そんなはずはない。

 さらに言葉を返そうと顔を上げた俺は、ふと近くのテーブルに置かれたグラスに写った自分の顔を見た。

 返り血を受けて目を爛々と輝かせた俺は、確かに口元に笑みを浮かべていた。

「付き合っていられないわ……」

 そう言いながら、エレノアはレストランの出口へゆっくりと後ずさりしていた。

「待て、どこへ行く気だ?」

「……あんたに頼った私が間違っていたわ」

「夜に一人で帰る女がいるか! 危なすぎる!」

 俺から逃げるように遠ざかるエレノアの手首を掴んだ俺は、その手がべっとりと血で汚れているのに気が付いて、思わず手を放してしまった。

 危ないと言えた口か。

「……っ」

 恐怖に身震いしてから、はじけるように駆け出したエレノアは、そのままレストランの扉を飛び出してラングトンの闇へと消えていく。

「……」

 追いかけることもできず、俺はその場に棒立ちになっていた。

 両手から滴った血がぽたぽたと床に垂れる音ばかりが響いて、ナプキンを手渡す給仕たちの声も頭に入っては来なかった。



 闇雲に深酒をして、寝たのか寝ていないのかもわからないまま俺は昼を迎えた。

 ベッドにもたれかかるようにして床に座り込んでいた俺は、ちらりと横に目をやった。

 昨晩、レストランから謝礼代わりに渡された高級なワインのボトルが転がっている。

「おぉうふ……」

 ぐわんぐわんと揺れる視界のなか、なんとか自室の汚い床から立ち上がると、俺はその辺に放られていたハンチング帽をかぶった。

 チェスターコートの袖が濡れている。何度も手を洗った跡だろう。

 昨日はあんなことがあったが、いよいよエレノアの妹探しに本腰を入れなければならない。

 とはいっても、彼女の妹がどうなっているかはおおよそ見当がついている。

 昨日の昼間からエレノアをあちこちに連れまわしていたのは、なにも俺がデートに飢えていたからなどではない。

 ラングストンで起こる事件や醜聞の情報を集めるなら、方法は二つだ。

 すなわち、スラムの掃き溜めか、もう一つは、つまり金持ちや貴族が集まるようなところだ。

 ギャング絡みなら、スラム掃き溜めじゃ情報集めは難しい。下手なことを言って豚の餌になるのは誰でも嫌だからだ。それなら、小綺麗な女を連れて金をバラまきながら高級店で聞き耳を立てる方がいい。噂好きの貴族どもから得られる情報は、質はどうあれ量を担保できる。


「エレノアなら、帰って来てないよ」

「なんだと?」

 エレノアの住むフラットの部屋の前で、俺は大家のばあさんに凄んだ。

「昼間に慌てて出て行って、それきりだよ」

「一度も戻ってないのか?」

「そうねえ、妹さんもいなくなったとかで、あの子も大変ねえ」

 動きにくいディナー用の恰好のまま、エレノアがどこかへ行くとも考えにくい。

 毛穴が開いて冷たい汗が湧き出てくる。

 なんて大馬鹿野郎だ。酒なんて飲んでる場合じゃなかった。昨日は嫌がるエレノアをふん縛ってでもフラットへ連れてくるべきだった。

「あんがとよ、ばあさん」

俺はそう告げると、足早にフラットを後にした。

 もはやのんびり証拠集めをしているわけにもいくまい。手持ちの情報で出たとこ勝負だ。

 迷いのない足取りで、俺は大通りを外れた路地へと進んでいく。



 スキンヘッドの大男は川辺の倉庫付近ですぐに見つかった。

 連中が悪だくみをするのは決まってこのあたりだ。警察どもも簡単には踏み込めはしない。

 ここにゴズがいるということは、連中が『何か』をしているということは確実だ。

 相変わらずわけもなくでかい背中に近づいて行って「おい」と声をかけると、振り返ったハゲ頭が嫌そうな顔をした。

「げ……ヴィンセント……」

「あぁ? なんだその顔は?」

 向かい合って立つと俺のほうが長身なので、禿げ頭を上から見下ろす形になる。

「久々に会ったのに冷てえじゃねえか? 昔は何度も飯も食わせてやっただろ」

「……今はあんたに構ってやるほど暇じゃねえんだ、帰ってくれ」

「つれねえこと言うなよ。誰のおかげでてめえなんかが組織で出世したと思ってんだ? 頭の毛と一緒に恩義も抜けちまったか?」

「……なんの用だ」

 面倒くさそうに答えたゴズに、俺は単刀直入に要件を投げかけた。

「てめえらが企んでやがることを全部吐け。てめえの杖もよこせ」

「……ふざけもらっちゃ困るぜヴィンセント。あんたはもうベラトニックの用心棒じゃねえし、そもそもベラトニックファミリーでもねえ。それに……杖も持ってねえじゃねえか。そんなあんたなんて怖くも――ゴガッ!?」

 思い切りゴズの股間を蹴り上げてから、俺は大男の襟首を両手で掴んで倉庫の壁に押し付けた。

「俺のブーツには鉄板が仕込んであるのを知ってんだろ、ゴズ? 杖なんてなくたって、てめえなんてハエを潰すみてえに殺せるんだぜ……おいッ!」

「……おォぉ……」

「なあおい、よく聞けよ……お前はよく知った仲だから、譲歩しまくって『会話』してやってんだ、ありがたく思えよ」

 頭に血が上ると、また昨日の夜のような激情に支配されそうになる。

 しばらく眠っていたと思っていた俺の中の衝動が、ふとしたきっかけでまた目覚めようとしている。

「いいか……いいかッ! よく聞けよ……一回しか言わねえからよ……目的は知ったこっちゃねえが、てめえらラングトン中の女を攫ってるらしいな? その中にエレノアって名前の女はいたか?」

「たくさん攫ってるんだ、いちいち女の名前なんて――」

「昨日の夜に攫った女だッ!」

 ゴズを地面に叩きつけると、俺はその腹を蹴り上げた。

 さしもの巨漢といえども、鉄板が仕込まれているブーツで内臓を潰されてはひとたまりもないだろう。

「わ、分かった! いる! 昨日の夜、一人でほっつき歩いてるところを攫った!」

「いるんじゃねえかこの野郎ッ!」

 怒りに任せて巨体を蹴りまくっていると、ゴズがしがみつくように俺の足を掴んだ。

「あんたの連れだって知ってたら手ぇ出してねえよ! 勘弁してくれ!」

「今どこにいるッ!」

「八番倉庫だ! 八番!」

「……チッ……」

 蹴るのをやめて、俺はゴズの胸ポケットから短杖を奪った。

 大した杖ではないが、杉の粗悪品よりは幾分かマシだ。

 雷型の血液の連中が使う金属製の杖だ。

 ゴズを放置して八番倉庫へ向かって歩き出した俺の背後から、弱々しい大男の声がする。

「……あんたは勝てねえよ。あんたの後釜の男も風魔法使いだ。手下だって引き連れてる」

 急いで杖に血を流し込み、ホルスターに指をひっかけて杖を回転させる。遊んでいるわけではない。こうすることで遠心力が血を杖の先まで充填しているのだ。

 杖に沁みついた雷型の血液と、俺の風型の血液が拒絶反応を起こして魔法が暴発するリスクもあるが、心配している場合でもない。金属製の杖なら、俺の血で『洗って』やれば多少リスクも抑えられるはずだ。

 そのままの勢いでホルスターに杖をしまって、俺は真っ直ぐと生臭い川辺の道を進んでいく。

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