シンフォニック・ダンス

nishimori-y

序章:ブラームス「大学祝典序曲」

(1)

 僕が城西じょうせい外国語大学管弦楽団のことを耳にしたのは先月のことだ。学食の窓から見える桜の木が、ピンクの花弁から空に溶けるような黄緑色の葉っぱへバトンを渡そうとしていた、四月も後半の頃だった。


「なあ、アル、こっから先の方に城西外国語大学ってあるやろ?」と、カレーにスプーンを突っ込んで扇田おうぎだが訊いてきた。唾を飛ばすほどの勢いで話をしてきて、僕の皿に掛からないかと冷や冷やする。高校では部活も同じで、ずっと親しくさせてもらっている気さくな奴だ。


「アルにあるって、冗談ちゃうで」と、友人はスプーンの先を僕に向けて、一人でぐふふと噴き出した。アルというのは僕の名前だ。瑞河みずかわ亜琉ある。水だけアルとか、あるにはアルとか、こういう冗談を何百回と吐かれていて、名前の理不尽さにはそれなりに慣れている。


「あるやろって当たり前のように言われても、僕は知らないよ。元が関西じゃないから、ここら辺の地理には詳しくないし」

 注文した生協のカレーを咀嚼しながら僕は答えた。水っぽくって肉の存在感の全く感じられないカレーだ。一杯三八十円という安さに見合っているのかいないのか、ギリのラインだと心で評価する。

「おお、そやったなあ。アルは中学まで関東にいたんやもんな。城西外大ってな、ちょっと変わってんやで……」


 扇田は顎をモグモグ上下しながら話し続けた。僕の入学した城西大学から単車で十分、市街地から山奥へと向かった先に、城西外国語大学はあるそうだ。英語や英文学を専門的に学ぶ大学かと思いきや、ロシア語、中国語といったメジャーどころに加え、フランス語、イタリア語などのヨーロッパ諸言語や、スワヒリ語、朝鮮語、ベトナム語といったアジア地域の言語に至るまで幅広く研究されている、なかなか個性的な大学とのことだった。外国語学部しかないため二千五百名ほどしか在籍していない、小規模の単科大学である。


「……っつー感じや。なかなかオモロイやろ?」と、扇田は再びぐふふと目を細める。瞼のたるんだ眼をしているから、笑うと目玉が瞼の裏に引っ込んだ。

「うん? 笑えるほどの面白さは感じられないけど。で、その大学がどうかした?」

「いやなあ、アルがオケ入りたいんやないか思うてな。ここやったらクラリネットパートを募集してるかもしれへんし」

「ああ、なるほど、そういうこと……」

 薄いルーを掬ってひと舐めする。鈍い辛みが舌に残った。


 一週間前、城西大学の管弦楽団に入ろうと、僕はオーケストラの入団テストを受けた。ここは創部百年の伝統を持つ関西屈指の名門楽団で、所属団員数は百五十人を優に超す。OB・OGや地元市民団体からの支援も厚く、定期演奏会のチケットは毎度飛ぶように売れる、プロ並みの人気を誇る超優良楽団である。


 入学式で披露されたのはブラームスの「大学祝典序曲」だった。弦と管の音の波が何十層、何百層と重なって、その厚みがガツンとぶつかってきたようだった。衝撃波が体を揺らした。心を震わした。涙が出た。吹奏楽の次はオーケストラだと、その瞬間に僕は決めた。


 入学式の終わった翌週に新入団員の募集が始まり、各パートにて入団テストが行われた。希望するクラリネットは希望者二十人に対し、募集人数三名という狭き門だ。倍率の高さにしり込みをして吹奏楽へ流れる人もいたのだが、それでも僕はこちらを選んだ。中学からクラリネットを続けて六年、高校での吹奏楽では朝から晩までの練習尽くし、パートリーダーまでこなしてそれはもう尋常のないほどの苦しみを味わってきたものだから、自分の腕に幾ばくかの自信はあったのだ。


 まあ俗にいう、井の中の蛙というものである。僕ほどのレベルなんて日本中に溢れかえっているし、大して自慢できるものでもない。僕はテストにあっさりと落とされた。同じく定員オーバーのトランペットパートから外された扇田は、募集の空いていたコントラバスに鞍を変え、僕はパート変更もせずに入団を辞めた。大学の吹奏楽団にも入らなかった。楽器はもうこりごりだって思っていた。

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