THE CELL

天人

CHAPTER 1

「さあ、まもなく羽化の時を迎えます。皆様、新たな時代への幕開けを、拍手を以てお迎えくださいー」


巨大な、そして丸い水槽が割れた時、僕達が迎えたのは確かに新たな時代だったのかもしれない。


でもそれは、僕達の「あたりまえの日常」が壊れることを意味していた…。









THE CELL










小さな研究室で、小さな鉢に入ったサボテンを見つめながらファイルに細かく今の状態を記入している、一人の男。


前髪がやや長く、それでいて少々頼りない風貌。彼は、気怠そうにその作業を進めていた。


「退屈そうですね、アモウさん」


振り返った男の視線に入ったのは、30歳くらいの小綺麗な女性。少々日本人離れした美しい顔立ちに、堅苦しい白衣は少々不似合いだったが見慣れたものだった。


「…退屈だとしても仕事ですし、それをこうやって続けていられる…それは平和なことなのかもしれませんね」


アモウと呼ばれた男は苦笑いするように、女性が差し出したマグカップを受け取った。


「観葉植物の研究…楽といえばそうですけど、何か物足りない。そんな所?」


「自分で選んだ職種ですからね。楽といえば楽だし、退屈だの物足りないだのと言い切ってしまうのは、良くないかも。…コーヒー、ありがとうございます」


「他の部署は日々忙しいみたいですけどね。ここからも何人か異動になっちゃいましたし」


「トモエさんは何で残ったんです?」


コーヒーを啜りながら、アモウはトモエの美しい顔立ちを見て、しかし視線を逸らしつつ告げる。女性慣れしていないわけではないが、どうにもずっと見つめていると、なんとなく悪いことをしている気持ちにさせられるのだ。


「わたしは…まあ、ここに来てからずっとこの部署にいますから。生物学研究とか、医療機器開発とかは全然縁が無くて」


ポニーテールにした長髪を解き、しなやかに下ろしながら、トモエもまた苦笑いするような表情をした。


「実は、妻からは口煩く転職しろと言われていましてね。ここの給料って安いじゃないですか。でも僕も年齢が年齢だし、生活に困る程の安月給でもないし、で…」


「娘さん、幾つになられたんでしたっけ?」


「今年の12月で5歳です。早いもんですよ。色々貯蓄をしておかないのは分かるんですが」


アモウは机の上のファイルを開き、しばらくしてからまた閉じた。


「嫌いじゃないんですよね、なんだかんだで。楽な仕事だし、仲間にも恵まれている。居心地の良さに甘えているだけかもしれませんが」


「それでいて、お家に帰れば奥さんと娘さんがいらっしゃる。幸せじゃないですか。わたしは旦那が単身赴任だから今は実家だし、帰りを迎えてくれる家族がいるのは本当に恵まれていることだと思います」


「そう。本当に恵まれていると思う。だから、今のままも悪くないって思っちゃうんですよね」


秋津理化学研究所。


主に医療関係の研究に取り組む機関であるが、その部門は多岐に渡る。アモウやトモエが在籍している観葉植物の研究に取り組む部門もあれば、あらゆる生物の生態研究に取り組む部門、医療機器開発、さらには治療薬・新薬の開発。現代医学の穴を埋めるべく、この理化学研究所はあらゆる人材を動員して日々動いているのだ。


だが、医学の発展は口でいうほど簡単なものではない。


事実、ここ数ヶ月はどの部署でも思うように研究成果が出せずにいた。


無理もない。人間の為せる事など、たかが知れているからだ。それを、アモウは分かっていた。だからこそ、観葉植物の観察と調査から、どうにか医学の発展に貢献出来るヒントを探る研究などという、誰がどう見ても一番無意味だと分かる部署に居ることを決め込んだ。


医学の発展があるに越したことはないが、その前に自分達には生活がある。あたりまえの日常を維持出来れば、先ずはそれでいい。


それがアモウの考えだった。


だが、最近になって研究所の中が騒がしくなってきた。どの部署も慌ただしくしているようだが、その中でも特に


「生物学研究部門の進めている計画って聞きました?アモウさん」


「?ああ…聞いてますよ。ゴンダさんから直にね」


「ぶっちゃけ、どう思ってます?その話?」


「どう思うって…」


怪訝な表情のトモエに、アモウも少々困惑した表情を返すしかない。


「計画の趣旨が突拍子すぎて、実感が沸かないというのが本音です。無茶苦茶過ぎるというか…」


「そうですよね?わたしも同感です!わたし、絶対に計画には反対です!」


「でも、サクマ所長が計画の稟議を下ろしたらしいですよ。ほら、今朝の朝礼でも言ってたじゃないですか」


「本当に出来るんですかね…そんな計画。というか、実験?」


「さあ、ね。僕も実験に立ち会うつもりはないし、蚊帳の外の話ですよ。トモエさんも何かするわけじゃないし、やらせておけばいいんじゃないですか?」


「それは、そうだけど…」


「またゴンダさんに会ったら、進捗聞いときますよ。聞いたところで、僕の頭じゃ理解できそうもないけど」


巷で囁かれていた、生物学研究部門の推し進めていた計画。その趣旨が発表されても、アモウからすればどうでもいい話だった。どうせ、今回の計画も大した成果を上げられやしない。


何処かで、そう決めつけていた。


「じゃあ、トモエさん。お昼頂きます」


「今日も奥さんの愛妻弁当ですか?」


「からかわないでくださいよ…」


クスクスと笑うトモエを傍に、アモウは研究室を出た。







所長室。


そう書かれた厳しい雰囲気のする扉を潜った巨体の男は、自身とは対照的に小柄で痩せた初老の男性へ軽く頭を下げた。


「お疲れ様です、サクマ所長」


「お疲れ様です、ゴンダさん」


モヒカンヘアに、肥えた巨体という、一目見れば忘れ得ぬ風貌。そして、笑顔だが何処か腹の見えない独特の表情。扉を静かに閉めたゴンダは、奥の机に座している白髪交じりの男性‐サクマに笑いかけた。


「その表情だと研究は順調のようですね?」


「はい。サクマ所長に稟議を下ろして頂いたお陰です。部門自体のモチベーションも上がっていますし、仰るとおり全ては順調です」


ゴンダは、研究資料をサクマへと手渡した。


「目を通しておいてください。実験の日程や、その他諸々を記載してあります」


「…私もあなたの熱意に押されて稟議を下ろしはしましたがね。本当に大丈夫なのですか?この計画は?」


若い頃は、さしずめハンサムであっただろう面影の残る表情を、サクマは僅かに曇らせてゴンダに問うた。


「我々が行っているのは、医学の発展へ貢献する研究です。ゴンダさんの研究や経過データ等には目を通しましたし、今までの過程で得られた収穫も、報告からするに確かに素晴らしいものでした」


「サクマ所長。ここに来て、含みのある言い方をされますね」


「私が言いたいのは…人道的な問題です。そもそも、被験者に志願する者はこの研究所にはまだ現れていません…それは、当然のことだと思いませんか?」


「確かに。ですが、おれは医学の発展には少々の人道の踏み外しも已む無し、と考えています。あ、命を犠牲にしろ、とまでは言いませんよ?この話は前にもしたと思いますが」


「しかし、現実問題…被験者は見つかったのですか?そうでなければ、ここに記載されている日程通りに、ラボを押さえても実験のしようがないでしょう。被験者に志願する者が現れないと踏んだからこそ、私はこの件に関して稟議を下ろしたんですが」


「保険を掛けた上で稟議を下ろしたということですか?らしくないですね。…それにね、心配には及びません。外部から被験者を募りました」


「外部から?」


「ええ。ほら、その資料の中にありますよ…」


老眼鏡を掛け、サクマは手渡された資料を捲っていく。その何枚目かに、見知らぬ女性の履歴書があった。

生年月日の記入があるので、見た目の印象など瞬く間に払拭されるのだが、年齢は40幾ばくかくらいの、大人しそうな女性の写真が添付されていた。


「キムラ…キヌエ…?どなたですか」


「ですから、外部から募った被験者です」


「…そういうことを言っているのではありません。当研究所とは無縁の人物を、よもや人体実験の被験者とするとは。それに、あなたのお知り合いでも無さそうだ…」


「実は、経理部に打診して褒賞金を出してもらいましてね。ああ…勿論、一般に公募はしてませんよ。色々と倫理的な問題もありますからね」


寝不足なのだろうか。ゴンダはソファーに腰掛けると、目を擦りながら続けた。


「ネットで、モニター募集という施策を取りました」


「また、勝手な真似をしましたね。しかも募集要項を偽っている」


「偽ってはないですよ。きちんと、その方にはあらためて後日内容をお話していますし、きちんとご理解の上でご協力頂けることになりました」


どうやら、そのキムラなる女性は結婚を控えているらしく、その資金繰りに頭を悩ませていたという。秋津理化学研究所が提示した取引は、キムラからすれば大きな話であり、考えはしたものの結局は快諾を得られた。実験が済めば、大金が入ってくるからだ。


ということを、ゴンダは付け加えて話した。


「サクマ所長。今になって稟議を取り下げるだなんて、考えないでくださいね?」


「…そんなことは…しませんが」


「医学の発展を思うのはおれも同じなんですよ。だからこそ、こうやって自分に出来ることを模索して、研究してきた。今回の実験も、そうやってしてきて得た答えの一つなんです」


「…分かりました。しかし、これ以上自己判断で勝手な真似はしないでくださいよ、ゴンダさん。全てを私に通せと言うつもりも有りませんが、私は一応所長…責任者、という立場にあります。その責任者としては、やはり容認の可否判断はさせて頂く必要がありますので」


「ありがとうございます。では、おれはこれで」


ソファーから立ち上がり、大袈裟に肩と両腕を揺らしながら部屋を出てゆくゴンダ。それを見据えつつ、サクマはどうにも煮え切らぬ気持ちになる。


人を食ったような態度。


あの、独特のコミカルな歩き方に騙されてはいけない。


奴が腹の底で何を考えているのか、分からないからだ。


「セル・プロジェクト、ですか。事なきを得ればいいのですが」









アモウとゴンダが、社内食堂で落ち合ったのはほぼ同じタイミングだった。


お互いに顔を合わせるやいなや、「あ」と声が重なる。


「お疲れ様です」


「お疲れ様」


肥えた体格に白衣というのはどうにも滑稽で、それでいていつものコミカルな動き。ゴンダは相変わらずだった。


「今さ。サクマさんに会ってきたよ」


「所長に?」


「そ。例の計画の最終工程の報告をしに、ね」


「ああ…」


ほらきた。


思わず、アモウが苦笑いする。


「おい、まだ突拍子のない計画だと思ってるのかい?」


「思ってますよ。全く、あなたが考えていることは凡人の僕には分かりっこないですから」


「簡単なことじゃん。前にも言ったろ?おれが提唱したセル・プロジェクトは、医学の発展にきっと貢献出来る」


ゴンダはアモウよりも二つ程歳下だが、上司であり、また友人でもある彼のことは内心尊敬している。今までゴンダが発表してきた論文やレポート等も、秋津理化学研究所では高い評価を受けている。若くして、生物学研究部門の管轄責任者に任命されるのも頷けた。


「計画の趣旨は、まあわかりますよ。ただねえ…」


「何だよ?もしかして、アモウさんも虫が苦手なのかい?」


セル・プロジェクト。


それは、人間に昆虫の遺伝子を移植し、彼らの持ち得る様々な特性を後付けすることで、飛躍的な人体の進化を図る計画であった。


この話を最初聞いた時、アモウは震え上がる思いをしたものだった。


自分は、大の虫嫌いだからだ。


カブトムシくらいなら触れぬこともないが、皮肉にも一番生活に馴染み深いのは不快害虫である。ゴキブリなど以ての外だ。


そんな昆虫の遺伝子を、人間に移植する?


馬鹿げた話だ。


そんなことで、人体の進化を促すようなことが出来るのかという議論以前に、話が飛躍し過ぎだ。


とても、ついていけない。


同様に虫嫌いなトモエに話したことは、つまるところこういうことだったのである。


「虫ってのはさ。人間にはない様々な能力を持ってるんだよ?」


「知ってますよ…飛蝗のテレパシーとか、そんなやつでしょう。それが医学とどう関係あるんです?」


「分からないかな?物言えぬ人も、そのテレパシー能力があれば、他者との会話が出来るじゃないのさ」


漫画の見過ぎじゃあないのかと問い詰めたい気持ちもあったが、ゴンダは至って真摯に話を続けた。


「…確かに、おれたちがやろうとしてることは人体実験だ。色々と世間の目に引っ掛ける箇所も多いだろう。でも、それと引き換えに得られるかもしれない成果も、また大きいものなんだ」


「ハイリスク、ハイリターンてやつですか…」


「その言い方。…まあ、間違ってはないか。あながち」


ゴンダは鞄から資料を出すと、それをアモウへと手渡した。


「あとで各部門のポストに入れておこうと思ったけど、君には渡しておくよ。セル・プロジェクトの日程だ。トモエさんにも共有しておいてくれ」


「日程っ…1週間後?早すぎやしませんか」


「厳密にはもっと前から決まってたんだけどさ。通達が遅れてしまってね。申し訳ない」


目を擦りながら、眠そうな声を出す。


「一応、秋津理化学研究所の一大プロジェクトという形でやらせてもらってるから、実験には基本、全職員参加でお願いしてる。特に社員はね。虫嫌いのアモウさんには悪いんだけどさ」


「僕もですか…」


「ブレイクスルーの瞬間が拝めるかもしんないんだよ!?サクマさんにも最後まで苦い顔されたけどさ。アモウさんも退屈なサボテン観察してるより、よっぽど有意義だと思うよ!?」


「いや、でも…」


書類を畳みながら、呆れた声を出す。


「分かりましたよ。トモエさんにも共有しておきますから…。でもトモエさんはロングパートであって社員じゃないんですから、参加の強制は無しですよ」


「君さぁー…」


「はい?」


急に表情を曇らせ、こちらへ顔を近付けてくるゴンダ。


妙に影のあるその顔に、アモウは些か尻込みをした。


ゴンダは同性愛者…つまるところ、ゲイだ。


それは研究所の人間からすれば周知の事実だし、彼も別段それを隠してはいない。むしろ、オープンに公言している。

だからこそ、こういきなり迫られると焦ってしまう。


「アモウさん…」


「な、何ですか…」


「前から思ってたけどさあ、君…トモエさんには随分と優しいよね?」


「は…は?」


ニヤついた顔で、アモウの目を見つめる巨体の男。


「よく廊下とかでも仲良く喋ってるらしいけど、どんな関係よ?ぶっちゃけさ」


「何を言い出すのかと思えば…」 


くだらない質問に、アモウは今度は些か呆れた。


「唯の同僚…強いて言えば友人ですよ。別に変な関係じゃありません」


「妙に落ち着いているな」


「落ちついて話せる話なんですよ。何で焦らそうとするんです」


「別にー。ただ、君もトモエさんも既婚者じゃん?変なことになったら面白そうだなーって思ってね」


「悪趣味な野郎だな、相変わらず」


思わず、丁寧な口調が崩れてしまう。


「冗談だよ。冗談。君は綺麗な奥さんがいるんだし、不倫なんて縁の無い話だったかな」


「無いな。あんたに抱かれる可能性よりも無い」


アモウは、ようやく弁当箱の蓋を開けたのだった。







-Junction




Akitsu RIKEN Staff Profile File 1


Name:Amo Akatsuki

ID No:07999900

Age:37

Birthday:11/1

Height:169cm

Weight:65kg

Blood type:O

Affiliation:Foliage plant laboratory

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