第2話

陶邑久志彦(すえむらくしひこ)の体に異変が起こったのは、二カ月ほど前のことだった。


久志彦は祖父の和仁彦(わにひこ)の葬儀に参列するため、和歌山の天野(あまの)の里にある実家に帰っていた。実家は古く、いつ建てられたのかわからない。久志彦がまだ幼いときに、一家でここに引っ越してきた。久志彦は高校を卒業したあと、大阪の会社に就職して、今は住之江にある会社の寮に住んでいる。


葬儀を終えた夜、久志彦は恐ろしい夢にうなされた。どんな夢だったのか、具体的には何も覚えていない。とにかく熱くて、抵抗できない恐ろしさがあった。


子どもの頃は家が火事になって、逃げ遅れる夢をよく見た。炎に包まれる熱さと、息ができない苦しさを感じるリアルな夢だった。


最近は、火事の夢を見るのも少なくなって、夢を見てうなされるのは久しぶりだった。恐ろしい夢を見ても、目が覚めた瞬間に現実に引き戻されるので、恐ろしいと思うより無事で良かったと安堵する。


今朝は、目が覚めた瞬間、いつもの景色と違うので混乱したが、すぐに実家にいることを思い出した。安堵するとともに、どっと疲れを感じた。冷や汗のせいか、真冬の朝にしては全身が汗ばんでいた。


寝汗をかいて気持ち悪かったので、とりあえず着ていたTシャツを脱いだ。そのTシャツを古い二層式の洗濯機に放り込んで、洗面所の鏡を見たとき、久志彦はちょっとした違和感を覚えた。


鏡に映った久志彦の上半身のど真ん中、ちょうど、みぞおちの辺りに、何かがあるように見えた。鏡が汚れているのかと思って、その部分を手でこすってみたが、汚れではなかった。下を向いて、自分の体を確かめると、そこに見覚えのないものがあった。


黒い線で、二重丸が袋の中に入っているような絵か、記号のようなものが、そこにあった。親指くらいの大きさだ。指でそっとさわってみると、その部分が少し熱を持っていた。火傷のような痛みもある。指の腹でこすっても落ちないし、爪で軽く引っかいてみても取れない。


誰かのいたずらで、油性ペンや墨で書かれたものとは、まったく違う。入れ墨やタトゥーという感じでもない。和菓子などに捺(お)される焼き印に近いのかもしれない。見たことも聞いたこともない異変が、自分の身に起こっているのに、冷静に観察している自分自身が不思議だった。


アニメや映画で、主人公が大声を出して驚くシーンがよくあるが、本当に自分の身に何か起こったときは、驚くよりも何とかして理解したいと思うのかもしれない。


もしかすると、虫に刺されて腫れているのかもしれない。いや、こんな真冬に虫は出ないし、こんな変わった形に腫れる虫を知らない。ストーブで火傷したのだろうか、いや、ストーブは寝る前に消した。病気か、それとも、呪われているのだろうか。


いくら考えてもわからないので、久志彦はそこで考えるのをやめた。時間が経てば、消えるのかもしれない。そうだ、明日になれば、何もなかったかのように、きれいに消えているかもしれない。いったん忘れよう、と自分自身にいい聞かせた。


台所に行くと、食卓におむすびとメモ用紙が置かれていた。

「役場に行ってくる」ばあちゃんのクセのある字だった。


食欲はまったくなかったが、出されたものを残すと叱られるので、おむすびを口に押し込んだ。お茶で口の中のものを流し込みながら、Tシャツの上から、みぞおち辺りをさわってみた。もしかすると、寝ぼけていて何かの勘違いだったかもしれない。


指がふれた途端、刺すような痛みが走った。やはり勘違いではないらしい。また、答えの出ない自問自答の沼に落ちそうになった。その日は、じいちゃんの遺品整理をしながら、何も考えないようにして一日をやり過ごした。


翌朝、目が覚めた久志彦は、実家にいることを思い出して安心した。また、恐ろしい夢を見ていたからだ。今朝も、昨日と同じように体が汗ばんでいた。もしかすると、昨日の体の異変も含めて、すべてが夢だったのかもしれない。どこまでが夢で、どこからが現実なのか、よくわからなくなっていた。


久志彦は着ていたTシャツを脱いで、鏡の前に立った。鏡に映った自分の姿を見て、膝から崩れ落ちそうになった。記号が増えていたからだ。昨日現れた、二重丸が袋に入ったような記号の上下に、渦巻きが一つずつ新たに現れて、記号は三つに増えていた。


久志彦は誰かに相談しようと、相談相手を考えてみた。幼なじみのタケルに相談しても笑われるだけだろうし、会社の人や大学の友だちにいえば、変な噂が広まるかもしれない。ばあちゃんには、できれば相談したくない。


次の日、また恐ろしい夢を見て、飛び起きるように目覚めた。まだ続くのか、と怖くなった。胸の辺りは熱を持っていたが、冷や汗のせいで寒気を感じた。汗で体にまとわりつくTシャツを慌てて脱いで、自分の体を確かめた。


昨日の渦巻きの上に、また一つ増えていた。今度は、アルファベットの「Y」と、四角形を組み合わせたようなものだ。たてに、四つの記号らしきものが並んでいる。


久志彦は鏡の前に立って、改めて自分の身に起こっている異変を確認した。四つで終わりなのか、明日以降も増え続けるのか、病院に行くべきなのか、お祓いをしてもらうべきなのか、何をすればいいのか、すぐには考えがまとまらず、鏡の前で呆然(ぼうぜん)としていた。


どれくらい時間が経ったのか、ばあちゃんに名前を呼ばれていることに気づいて振り返った。ばあちゃんは久志彦の胸にある奇妙なものを見て、目を見開いて言葉を失っていた。久志彦は慌てて隠そうとしたが、どうしようもなかった。しかし、ばあちゃんに驚いている様子はなく、近くで見ることも問いただすこともなかった。


「久志彦、大事な話があるから、服を着たら仏間に来ておくれ」

ばあちゃんは落ち着いていて、いつもの厳しい口調ではなかった。


「うん、わかった」

久志彦は、ばあちゃんがいつもの気迫あふれる感じとは違って、物静かな雰囲気であることに、何か重大なことを伝える意思を感じ取っていた。


仏間には小さな仏壇以外には、ほとんど物がない。がらんとした部屋に、ばあちゃんはいつものように姿勢を正して座っていた。じいちゃんが亡くなったせいか、一緒に暮らしていた頃よりも、一回り小さくなったような気がする。


ばあちゃんの前には、座布団が一枚置かれていた。ばあちゃんが座布団を用意するときは、話が長くなるということだ。久志彦は緊張しながら、ばあちゃんと同じように姿勢を正して座った。


ばあちゃんは小さく咳払いをしてから、言葉を選ぶように話し始めた。

「久志彦には何もいうてなかったから、かなり不安やったと思うけど、その胸に現れた文字は、陶邑家の当主になった証(あかし)や」


「俺が当主?」


「そうや、久志彦を陶邑家の当主にすると、ご先祖様が決めたということや。陶邑家といっても、今や、このばあさんと久志彦しかおらんのやから、当然ともいえるけどな」


「そうか、陶邑の名を継ぐ者は俺だけしかおらんからな。それを知らせるために、胸に印しが現れたってことなん?」

ばあちゃんや昔の友達と話すときは、久志彦もくだけた関西弁になる。


「ただの印しやない。実は、陶邑家を継いで当主になる者は、ある試練を乗り越えなあかん。その胸に現れた文字は、試練が始まったことを示しとる。じいさんも先代が亡くなって当主になったとき、同じように文字が現れた。じいさんは試練を乗り越える旅に出て、帰ってきたときには胸の文字はきれいに消えとったよ」


「当主の試練って、何をするん?」


「試練があるというのは知ってるけど、その内容は当主だけに伝えるというのが決まりになっとる。せやから、家族にも聞かされてない。本来なら、じいさんが亡くなる前に、次に当主になる者に伝えるんやけど、じいさんはそれをせんかった。うちらには息子がおらんから、当主になる者がおらんと思い込んでたんや。まさか、孫が受け継ぐことになるとは思っとらんかった」


「そしたら、俺はどないしたらええの?」


「それが困ったことなんよ。陶邑家には、当主が代々受け継いできた『秘伝の書』があって、そこには胸に現れる文字や、試練のことが書いてあったらしい。久志彦は、まだ小さかったから憶えてないやろうけど、前に住んでた家が火事になったとき、その『秘伝の書』は、みんな燃えてしもたんよ。せやから、試練のことは何も分からん。じいさんが残したのは、この手帳一冊だけや」

そういって、ばあちゃんは一冊の手帳を久志彦の前に差し出した。


その手帳は新しく、使い込まれたものではなかった。パラパラとめくってみたが、日記のような文章ではなく、どのページも走り書きのメモ程度にしか書かれていなかった。


「じいさんは次に当主になる者はおらんし『秘伝の書』も燃えてしもたから、当主の試練のことは、すっかり忘れてたみたいやな。ところが、亡くなる一週間ほど前に再び文字が体に現れて、自分の死期が近いことを示しているのと、試練のことも思い出したみたいやな。本来なら、次に当主になる者に『秘伝の書』を渡して、試練について伝えるんやけど、伝える相手がいないから、とりあえず憶えてることを手帳に書いたみたいやな」


「じゃあ、ばあちゃんもこの手帳に書いてあること以外は何もわからんということか」


久志彦は、自分の身に起こった異変の理由がわかって一安心した。それと同時に、自分が乗り越えるべき試練が一体何なのかわからず、新たな不安を抱えることになった。


「もしかしたら、うちが最後の当主として試練をやるのかと心配したけど、まさか久志彦とはね」

ばあちゃんはホッとしたような申し訳ないような、複雑な表情で久志彦をやさしく見つめていた。


「心配せんでええよ。この手帳をよく読んで、当主の試練を乗り越えてみせるから」

久志彦は、ばあちゃんに気苦労をかけないように強がりをいった。ばあちゃんはその強がりを、当然見抜いていたと思う。でも、久志彦が気遣いのできる大人に成長したことを喜んでいるように見えた。


「いい忘れてたけど、印しは四つで終わりやないからな。じいさんの四十九日法要までは続くで」

ばあちゃんは同情しているようだったが、少し笑っているようでもあった。


「まじで?」久志彦は冗談っぽく返事した。「ほんで、これって文字なん?」


「ヲシテ文字っていうらしいよ、詳しくは知らんけど」

ばあちゃんはいつもの笑顔で、いたずらっ子のように答えた。


「知らんのかい!」久志彦もいつものようにツッコミで返した。


「それと秘伝の書は『三猿(さんざる)の書』とも呼ばれてた。『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿やな。これは陶邑家の秘密を守るとともに、知る必要のない人を守るためでもある。知らん方が幸せなこともあるんよ。せやから、手帳は信用できる人以外には見せたらあかんで」

ばあちゃんは真面目な顔をしていたので、これは冗談ではなさそうだった。


「わかった」久志彦は、ばあちゃんの言葉を真剣に受け止めた。

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