第15話
マチアスから、先の本を部屋に持っていってもいいと言われたカナメは、それを持って用意されている部屋に入る。
借りている部屋は大きなベッドに簡単な事務作業や勉強出来る机なども設置されており、浴室やトイレなども扉で繋がっていた。
同じように従者用の部屋とも繋がっているので、アーネはここを利用している。
ベッドに借りてきた本を置くと、ページが勝手に捲れていく。
「精霊さん、いたずらしないで。挟んだ栞も飛ばしたし……もう、元に戻しておいて欲しいよ。そういうのはしてくれないんだよね。やりっぱなしはよくないって、おれでも知ってるよ?」
カナメはプスプスと文句を言って飛ばされた栞を手にして、本の半分を過ぎくらいだろうか、精霊のいたずらによってページが捲れて進んでしまったところから、栞を挟んでいたところを探す。
本の著者は幾代も前の王弟らしく、彼の手記のようなものだった。
昔の言い回しや今ではもうないものなどもたくさん出てくるので、読みながら当時の事が詳しく書いてある本も隣に並べ読んでいた。当然、そちらの本も借りている。
「あ、あったあった。ここだ」
カナメは栞を挟んで机の上に置き、夕食だと呼びにきたメイドに従い部屋を出る。
進むほどにふんわりを香ってくる、お腹を刺激するいい香りにカナメは顔が綻ぶ。
その幸せそうな顔は、ここ随分見る事が叶わなかったものだ。
本当に離宮にきてよかった。
アーネはそう思うたびに胸がいっぱいになった。
食事は静かに。マナーの範囲で会話を。
カナメだってそれくらいは完璧だ。
伊達に侯爵家の次男を十四年間もやっていない。
しかし今日はマチアスがマナーをどこかに投げてしまったらしい。
カナメが「部屋に持ってきた本がなかなか面白い」、と嬉しそうに話をしたので当然マチアスは内容を聞く。
マチアスもこんなふうに楽しいと笑う顔を見ると、旅行に誘って良かったと心の底から思う。
だからその顔をもっとみたくて「どんな本を読んでいるんだ?」と促したのだ。
それは丁度、デザードが運ばれようとするタイミング。
カナメが読み進めた部分を簡単に説明すると、マチアスは椅子が音を立てるほど勢いよく立ち上がったのだ。
これには給仕係だけではなく、誰もが驚いた。
立ち上がったマチアスにどう声をかけようかとアルノルトさえ迷っていると、マチアスが「部屋の本は?」と聞くものだから何が何だか分からないまま、カナメはアーネに本を持ってくるように言う。
頭を下げ足早に取りにいったアーネの足音が聞こえなくなって漸く、自分の行動にハッとしたのか、マチアスが椅子に座り直した。
しかしすぐにアルノルトに「デザートは私の部屋に頼む。アーネにもそう伝えて欲しい。カナメも悪いが、私の部屋で」と頼むとさっとカナメをエスコートして、カナメの意見を聞かないままマチアスはこの離宮で使っている部屋に急いだ。
よっぽど、頭が本の事だけになってしまったのだろう。
カナメをエスコートなんて──────、婚約者ではないとされている同性をエスコートするなんて、普段のマチアスではありえないのに。そのあり得ない事をしてしまうほど、マチアスにとってカナメの話がショックだったのだ。
部屋につくなりカナメを椅子に腰掛けさせ、アルノルトに紅茶を入れるようにと頼む。
カナメの部屋と違い、マチアスの部屋にはベッドルームだけではなく執務がきちんと出来るような書斎もついているようだ。
書斎には応接も可能なように家具が配置されており、カナメはそれに当たる場所で座らされていた。
しばらくするとアーネが本を持って到着し、そのすぐ後にデザートも届いた。
カナメにはまず先にデザートを渡し、ここでやっとそわそわと動いていたマチアスもカナメの対面に座る。
「アル様、デザート食べないの?」
さっきまで「何事?」と目を白黒させていたのにもう目の前のデザートに心奪われている婚約者に、マチアスはいい意味でお手上げだ。
「俺のも食べていいから、行儀が悪かろうが何だろうが、そのまま話をさせて欲しいし話をして欲しい」
真面目なマチアスが行儀が悪くていいと言い切るとは、と驚きつつマチアスのデザートも近くに寄せてカナメは頷いた。
ちゃんと確保するカナメらしさに、マチアスの肩の力もいい具合に抜けそうだ。
「さて、カナメはどうやってこの本を見つけたんだ?」
「おれ、何が読んでみようかと思ったんだけど、本が予想以上に多くって……しかもタイトルも著者も分からないし、精霊さんにこう、ちょっと『なにか面白そうとか、綺麗な表紙に見えるとか、そう言う本が上の方にないかな』ってお願いして取ってもらって」
当たり前のように言う、全く当たり前じゃない行動にマチアスは無意識で眉間を揉んだ。
「そうしたらあの本が落ちてきたんだけど」
「……落ちてきた」
「最初は……、うーん、契約してからどのくらいした時かな、冗談で『あの高いところのあれ、とってくれたら嬉しいなあ』って言ったら本当に取ってくれたんだ。精霊さんは痒い所に手が届く系?みたいで、それから時々お願いをしてるんだ。今回もそうやってお願いしたんだよ」
「痒い所に手が届く系ってなんだ」、と誰も突っ込まなかった。どうせどこかでまた聞き齧った何かだろうから。
こう言う事を阻止したいサシャがあれほど熱心に阻止しようとしているのに、実にどこからかカナメは聞き齧ってくる。
「それだけだよ?」
役目は終えたと言わんばかりに、カナメはデザートに手をつけた。
今日はよく冷やされたコンポートで、イチジクやリンゴなど様々な果物が美しく盛り付けられている。
イチジクのコンポートを口に含み甘さに目を閉じて「んんんー」と言う姿は、侯爵家次男とは思えない。
まあ、そんな姿を見せてもいい人の前だけの表情なのだけれども。
対してマチアスはカナメの近くにいるのだろう精霊を思いながら、アーネが持ってきてくれた本を読み始めた。
それはカナメがコンポートを二人分食べても続き、カナメがうつらうつらと船を漕ぎ始めても続き、一時的にでもとマチアスの寝室のベッドでカナメを寝かせても続いたがついに、主人を心配するアルノルトから声がかかり栞を挟んで中断した。
「それほどまでに何か、気にかかる本でしたか?」
マチアスの着替えを手伝いながらアルノルトは聞いた。
夢中になっていたマチアスも、睡眠時間はそれなりに大切にしている。
きちんと、ある程度でも寝なければ翌日に支障が出るかもしれない。眠くなって無駄になる時間を作るより、寝た方がいいとマチアスは考え、これでも睡眠は大切にしていた。
「多分。しかし今は聞かないような言い回しが多く、かと言って辞書のようなものは必要ないが、それでも時間がかかってしまった。もう少し読むとカナメが読んだところまで追いつけそうだから、明日、読み終えてから話したい」
「分かりました。明日は辞書の代わりになりそうなものをご用意しましょうか?」
「そうだな……いや、カナメが使っていたかもしれないから、アーネに聞いておいて欲しい」
それではおやすみなさいませ、と言って寝室の扉が閉まった。
ベッドにはカナメがスヤスヤと寝ている。
起こした方がいいかどうかの議論は三人──マチアス、アルノルト、そしてアーネだ──でした。
『魔祓い師に儀式を頼んだ件』を忘れて寝かけているカナメに強引に寝支度させ、それでも睡魔と別れず安心して寝ているのが今の状態。
ここから起こしたら初日のように怖がって半泣きでなかなか寝付けない可能性がある。それならば、このままにしておこう。
そう言う事になった。
少し眉間に皺が寄っているのは、あの『魔祓い師に儀式を頼んだ件』のせいだろうか。
こうして同じベッドに寝る事になるとは、まるで婚約する前のようだ。マチアスは思い出す。
あの時は怖がって、「帰れない、この部屋から出られないから帰れない」と泣いたカナメと同じベッドで一週間も寝たが、婚約した後はそんな事は一度もしない。
真面目なマチアスは婚約後も同じ状況になった時──二度ほど、怖くて城から帰れないと泣いた事があった──カナメが寝るのを待って隣の部屋に移動し、そこに設置させたベッドで寝て、カナメが起きる前にカナメの寝ているベッドに腰掛けると言う事をしている。
(ここで婚約者と同じベッドに入ったなどと言えば、父は、母は、何と言うだろう)
きっと事情を聞いて「カナメだものね……」と困った顔で笑うのだろう。カナメの怖がりは両親のよくよく知るところ。もしかしたら父は「悪い事をしたかもしれない…」と思うかもしれない。どちらにしても簡単に想像出来た。
もし
(サシャは……考えたくもない)
きっと、それはもう、不敬という言葉を頭の辞書から捨て切った説教と嫌味と抗議が続くのだろう。悲しいけれど一番簡単に想像が出来る。
カナメの事だから、きっと家に帰ればこの事を話すだろう。
「カナメが怖がるのだから仕方ないじゃないか。と言えば二度と旅行などさせてもらえなそうだな」
これは紳士的に、ただただ怖がりの婚約者が幸せに寝るための行為である。と誰に言い訳しているのか分からないマチアスは、カナメの横に寝そべると明日から忙しいなと独り言ちて目を閉じた。
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