第8話

一年と二年が使う校舎および寮と、三年が使うそれらは同じ学園とは思えないほど離れた場所にある。

理由は三年次になる時に騎士科と魔法科が細分化され実践的な授業が本格的に──────つまり大掛かりになるために、より広い場所が必要になるためだ。

そしてお互いの場所で起きた事は、きっちりとした、それはもうなかなか届かない。

今はまさに王太子殿下の婚約者であるアンジェリカがそれをなし、情報を操作しているためになかなかノアやアーロンには彼女の置かれているに気が付けないでいた。

いや、アンジェリカが決してこれを二人に──────いや確実に伝えない様に、知られない様に、と統制しているのだ。

彼女は厳しい事も言うし、優しいだけでは決してない。

けれど彼女の優しさを知れば、彼女を慕う人間が増えていく。

アンジェリカを慕う生徒たちは彼女の意思を汲み、彼女のしようとするその統制を手助けした。

だからなおの事、ノアはのちに「どうして教えてくれなかったのか」とアンジェリカにむくれるのである。


しかし、アンジェリカの婚約者であるキース王太子殿下の弟であるアーロンは少しだけは知っていた。

ノアは『キースとアンジェリカの不仲』についてはいやになるほど知っているけれど、それ以上の事は知らない。

それにいくらアンジェリカが統制しようと、三年生の子供を持つ親は特にを知っていた。

しかし貴族の誰もが信じていたのだ。

──────これはキース王太子殿下の戯れだろう。

と。むしろ当然の様にそう

どこにこの優秀なアンジェリカを捨てようなんて思う王太子がいるだろうか。そう思うから尚更である。

そうやって当然の様に『ひとときの戯れ』だと思うから、下手に口を出さず騒ぎ立てないように静かにこれが去っていくのを待っている。

アンジェリカや彼の家に対して、この件を理由に牙を向けば倍以上になって帰ってくる。それを知るから尚の事、静観するに限ると考えているのも大きい。

だから余計に、アンジェリカの望む様な状況が生まれていた。




アンジェリカは自身の侍女であるシシリーを伴い、アーロンの執務室に入って行った。

アーロンが、アンジェリカが登城したら来てもらえる様にと頼んでいたからだ。

執務室とは言っても、現状第二王子であるアーロンが執務をする機会は本当に滅多にない。

キースは近寄らないという理由で、アーロンはここを選んだ。

入室したアンジェリカにソファを勧め、自分はその前に腰掛ける。

アンジェリカはアーロンの顔を見て小さく笑った。

「なんでアーロンがをしているのかしら?」

「むしろなんでアンジェリカお姉様がそんなをしていられるのかがわからないよ」

肩を落として言うアーロンに、アンジェリカはコロコロ笑う。

確かに表情は“ごく普通の少女”の笑顔だ。

「わたくしはをしているからよ。前にも言ったでしょう?わたくしには、私のしたい事があって、わたくしはわたくしの幸せを掴むのだと」

子供に言い聞かせる様な顔で言うアンジェリカに、アーロンの顔が曇る。

自分の義理の姉になるという意味でも、家族の様な存在だと思っていたアンジェリカを実の兄が蔑ろにしている。この状態にアーロンは苦しい気持ちを抱えていた。

二人がパートナーとしての関係を認め合っていた時ならまだよかった。しかし今のキースはそれすら終わりにしようとしている様な行動ばかり取る。

アーロンはひとときの遊びなんていうのは大嫌いな行動で、それを自身の兄がしていると思うだけで心が重い。

しかもキースはそれどころか、このところどうやらアンジェリカを蔑ろにしすぎている節が目立つ。

両親である国王と王妃にそれとなく言ってみても、彼らは何かを知っているのかなんなのか、あまり良い方向にキースを導こうとしていない気がしてならない。

それならば婚約をにすべきなのでは、と兄とアンジェリカを思い言ってみても彼らは首を横に振るだけ。

たかだか第二王子である自分が、国政にも関わる政略結婚に対して何かを言う立場ではないのは重々理解しているが、それでも口を出したくなる様な状況が続いているのだ。


「わたくしはね、アーロン。最後の最後まで諦めたくないの」

柔らかい顔で言うアンジェリカに、やはりアーロンはいい顔をしない。

「どうしてそこまで兄を?」

「それがわたくしがキース王太子殿下の婚約者となった時に、決めた事だからよ」

何を決めたのか、と聞きたいアーロンだけれどアンジェリカの顔を見るとそれを教えてくれそうにない事は百も承知。

「でも僕は、アンジェリカお姉様が蔑ろにされる今の状況は、だよ」

に伝えられない気持ちを全て詰め込んでいえば、アンジェリカはそれを読み取ってくれたようで困ったような笑顔だ。


二人の前にそれぞれクッキーと紅茶が置かれた。

トマスが配膳したものだ。

シシリーはアンジェリカの現状に思う事があるのだろう、努めて表情に出さない様に気をつけているがアーロンの言葉に少しだけ、本当に気がつくのが難しい程度だが、唇を噛んでいる。

そのシシリーを見かねて、トマスは座る様にと彼女に椅子をすすめた。

「最近、僕とノアがアンジェリカお姉様たちと社交が被らないのは、理由があるんだよね?」

「そうよ。わたくしと国王陛下と王妃殿下で決めた事よ。どうして?」

「ノアに知られたくない事があるから、僕にもいえない?」

王族らしかなぬ、眉を下げた情けない顔を晒すアーロンの顔なんて、アンジェリカは久しぶりに見た。

小さい頃、自身の護衛騎士であるマルティヌスにさんざんヤキモチを焼いて拗ねた事を反省し、けれどどうしてもノアが頼るから嫉妬すると言った時はよくをしていたのだ。

もうとっくにこんな顔を出さないと思っていたのに、アーロンはアンジェリカの前ではやはり今もだった。

「こんなこと言うから、僕には頼れないの?ノアに内緒にするなら、ちゃんとするよ。でも、僕だってアンジェリカお姉様の味方だし、助けたい。僕とノアを助けてくれていたじゃないか」

すがる様なアーロンにアンジェリカはやっぱり首を横に振る。

「これはね、アーロンやノアに頼れないとかそういう問題ではないの。わたくしにとっては、なの。もちろん、一人では難しい事もあるけれど、わたくしが諦めたくなくて、わたくしがやっている。わたくしの戦いであるの。最後まで、わたくしはわたくしとして、運命なんていうものを変えたいの」

「そうやってぼんやりとぼかすんだね。お姉様は」

「ごめんなさいね、アーロン」

2歳以上の歳の差を感じてしまう笑顔にアーロンは悔しそうに俯いて


「じゃあ、お願い。僕に出来る事があれば、どうかそれだけはさせてほしい」


アンジェリカはようやく、首を縦に振った。

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