その尊い幸せを、はなさないで 【KAC20245】

udonlevel2

第1話 それは喜びの日のスタート地点

 ――愛しい妻が妊娠した。

 初めての妊娠で戸惑う妻の手を取り、俺はこの上なく愛しさの詰まった彼女の身体を抱きしめた。

 今、この体には自分と彼女の血の繋がった子がいる。

 嗚呼、無理はさせないようにしなくては……。



「朱里、もう一人の身体じゃないんだ。仕事は休めないのか?」

「そんな事を言っても無理よ。花屋のパートは直ぐ辞めれないわ」

「だが、もしもがあったら……」



 花屋は重労働だ。

 重たいバケツだって持つし何時も腰が痛いと言っている。

 その上、立ち仕事が長時間続くのに……やはり無理はさせられないと俺は妻を必死に説得し、電話で花屋の社長に妻が妊娠したことを伝えたが、『無理のない範囲で仕事をさせるし、悪阻が始まる前までは来て欲しい』と頼まれ、渋々了承する事になった。



「本当に無理のない範囲ですね?」

『無論だよ。妊婦さんに重たい物なんて持たせられないしね』

「では、くれぐれもよろしくお願いします」



 そう言うと俺は電話を切り、不安げだが安心させようと微笑む朱里の手を取り、花屋で荒れてしまった手を撫でて小さく溜息を吐いた。

 この手も昔はとても綺麗だった。


 前の仕事場でパワハラに遭った朱里は相当我慢したが耐え切れず辞めたのは半年前の事。

 それからは直ぐに花屋のパートを見つけて働き、家の事をしながら何時も頑張ってくれた。

 当時仕事が立て込んでいて彼女に気を回す事が出来なかった事を思うと自分が不甲斐ない……。悔いても仕方ない事だが、それでも朱里は頑張って日々仕事をし、そしてついに念願の子を授かった。



「余り無理をしてくれるなよ?」

「わかってるわ。パパは心配性ね?」

「それは心配だってするさ。君が何より大事だからな」

「ありがとう」



 そう言って俺に寄り添う朱里の肩を抱き、俺は幸せを噛みしめていた。

 それからも日々は余り代わり映えというものは無かったが、花屋で働いている朱里の事が心配で送迎をするようになるのに、そう時間は掛からなかった。

 社長は頼りない人で結構ワンマンな所がある為、夫の存在をしっかりと植え付ける事が大事だと思ったのだ。

 それが功を成して、重たい物を極力持たせない等、他のパートさん達からの手伝いもあって妊娠三か月になる頃には無事出産の為に一旦は花屋を辞めることになった。


 一旦辞める――と言うのは、社長の奥さんが決めてくれたのだ。

 次に就職したくても、今の時代では難しい。

 そこで、真面目に働いた朱里を評価して出産後、戻ってきて良いという事になったのだ。

 大変有難く感じたし、何度もお礼を言い、花束を貰って俺達は車に乗ってマンションへと戻った。



「今日から産休ね。明日、市役所で母子手帳貰ってくるわ」

「ああ、市役所に言って母子手帳を貰う日が明日だったな。だが悪阻は大丈夫か?」

「ええ、ちょっと吐き気が強くなってきたけど」

「吐き悪阻か……かなりきついって聞くぞ?」

「この子に会う為だもの……。耐えて見せるわ」



 そう言って優しく微笑む横顔はもう母親の顔をしていて、俺は少しだけ寂しさを感じたけれど、それは寂しいと思ってはいけない事だと自分を叱咤した。

 寂しく思う事もない。

 これから騒がしくなる位だ。

 もっと俺も父親として自覚を持たねば……。

 けれど、愛しい朱里を苦しめる悪阻と言うのがどうしても不安だった。


 朱里は元来身体が余り丈夫ではない。

 それも一つの不安の種でもあったが……宿った命は必死に生きている。

 朱里の両親はお祝いよりも先に、「ちゃんと産めるだろうか」と言うくらいだった。


 子供を待ちわびていた筈なのに、そんな言葉を言われた朱里は辛そうだったが、しっかりと涙を流してから前を向き、気丈に俺に微笑んでいたけれど――。



「覚悟は決まっているから大丈夫よ。大丈夫だけど……私は子供を望んではいけなかったのかしら……っ」



 そう言って泣き崩れた時は、俺も涙を流した。

 あんな悔しい気持ちは生まれて初めてだというくらい二人で泣いたのも、今では懐かしい。

 三か月――ちゃんとお腹で育っている。

 何より朱里が大事に守っている証拠で、俺も支えている証拠でもあったのだから。

 そんな前の事を心の中で振り返りながら家で二人軽くお祝いし、翌日会社に久々に一人で行くことになったが、朱里はタクシーを使って市役所に行くから大丈夫だと言っていた。



「何かあったら直ぐ連絡するように」

「わかってます。心配しなくても、母子手帳貰いに行くのにタクシーで行くのよ? 心配のし過ぎは頭皮にも胃にも悪いわ」

「頭皮のことは言わないでくれ。これでもケアしてるんだぞ」

「ええ、貴方からは一番好きな香りがするわ」

「そうか? 夫の香りが駄目になる妊婦さんもいるって聞いたから……」

「安心して? 私の好きな貴方の香りそのままよ。さ、仕事いってらっしゃい!」



 頬にキスをしてくれた朱里を優しく抱きしめてキスを軽くしてから仕事に出かける。

 玄関で手を振る妻が愛おしく、気合を入れて仕事場へと向かった。

 しかし、午後一時の事だった。

 俺のスマホが鳴り、妻の携帯から着信があったのだ。

 やはり何か起きたのだろうかと通話に出ると、妻ではない女性の声が聞こえた。



「もしもし……朱里?」

『あ! 朱里さんの旦那様ですか!? こちら野地村病院の者ですが』

「つ、妻に何か!?」

『それが――』



 その後続いた言葉に口を押え、俺は鞄を持って止めようとする声を無視して野地村病院へと車を走らせた。

 まさか――そんな事になるなんて誰が想像しただろうかっ!

 出来るだけ安全運転で駐車場に車を停め、鞄も持たず鍵だけは掛けて病院に駆け込むと、朱里は頭に包帯を巻いて座っていた。



「――朱里っ!!」

「武志さん!」



 痛々しい包帯姿の朱里に駆け寄り身体をくまなくチェックする。



「他に痛い所は!?」

「無いわ……でもビックリしてお腹も張っちゃって」

「っ!?」

「大丈夫よ、この後産婦人科に行く様に予約は入れてあるの」

「そうか……ちょっと待ってくれ。俺が連れて行く」

「でも貴方仕事は?」

「…………抜け出してきた」



 怒られるのを承知で口にした。

 仕事なんてしていられる筈が無い。

 社会人として失格かもしれないが、夫として、父親として正しいと思う道を選んだ。

 会社で叱責を受ける覚悟も出来ている!

 すると、そっと俺の手を取りお腹に手を持って行くと――。



「心配性なパパね? でも、とっても私もお腹の子も安心出来るわ……ありがとう」

「ああ……俺は父親として夫として、そっちの方が大事だと思ったんだ」

「ええ、貴方ならそうすると思ったわ」



 そうお互いに微笑んだ時名を呼ばれ、自分の財布を鞄に入れている事を思い出し取りに行こうとしたが、朱里が財布を手渡してくれた為、支払いを済ませてから俺が薬局で薬を貰い、朱里を病院に迎えに行ってから産婦人科へと向かった。

 そこで朱里の口から語られた内容とは――。


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