3.恋する乙女と後悔


「……えっ? 身請け?」


「うん。真井さんに」


 十二月中旬、忘年会シーズンなのに客の入りが今ひとつという日が続いていたある時、花が突拍子もないことを言い出した。


「真井さんって……」


「ん?」


 真井という男は、以前花の尻に赤く腫れたあとを残した人だ。何故、よりによってそんな人物と……と、私の心は少しずつ渦を巻き始める。


「花はもう借金はないんだよ。身請けなんていらないの」


「そうなの? でも、真井さんが……」


「真井さんに借金返し終わったって言った?」


「言ったよ」


 バージニアスリムの煙を吐き出しながらけろりと言う花を前に、胃のあたりが急速に冷たくなる。


「貯まったお金もあるって?」


「うん」


「なんでっ……、なんで言っちゃったの!? お金目当てに決まってるじゃない!」


 「なんで? お金目当て?」と鸚鵡返しに問う花に、二の句が継げない。彼女の髪の真っ赤なハイビスカスが、そんな私を嘲笑っているように見える。


「真井さんお金持ちだよ。電話番号と住所、教えてもらったの。すぐにでも結婚したいって」


「結婚? 花のこと傷付けた人だよ、そんな人と結婚したいの!?」


「傷付けた? いつ?」


「お尻に赤い痕がついてたじゃない! 痛かったはずよ! 何でそんな人とっ……!」


 私がいくらわめいても、花は小首を傾げて「想子ちゃん、怒ってるの?」と不思議そうに小声で言うだけだ。


「お……、女将には、もう言った?」


「うん、明後日ね、出発するって言ったの。真井さんが迎えに来てくれるから。ずっとね、いつも一緒にいてくれるんだって」


 うふふと恥ずかしそうに笑う、耳まで真っ赤な、恋する乙女。


「……許して、もらえた?」


「残念だけど仕方ないねって言ってたよ」


 女将は諦めてしまったのだろう。あの時歯切れの悪い返答をしたのは、「借金や貯金の有無を女の子たちに伝える義務はあるが、花には伝えない方がいい」と言いたかったのだろう。それを私は何も考えず、話してしまった。


「……わかった」


 私も、諦めた。心の渦の回転は急激に速度を落とす。借金がないのなら、彼女の好きにさせるしかないのだ。


「ね、今日ラーメン食べに行こ?」


 花の無邪気な笑顔は、私の心の一番弱い部分に届いてしまった。



 ◇◇



「へぇ、花ちゃん、結婚かぁ。何て人と?」


「真井さん、っていうの」


 タミヤ軒の重いドアを押して開けた時には数人の客がいたが、今は私と花だけが客として残っている。そこに、今日も暇そうな店主のおじさんが話しかけてきた。


「ふぅん。真井花……英語だと、はな・さない、だな」


「おじさん英語しゃべれるの? すごい」


「おう。花ちゃんも言ってみろよ、ワタシは、はな・さないです、って」


「あたしは、はな・さないです」


「よく言えたな。よーし、今日はチャーシュー大盛りにしてやるよ」


「ありがとう!」


 目の前に座る花は、おじさんとの会話で気を良くしている。いつもなら「調子に乗らせないで」と嗜めるところだが、もうその必要はない。苗字と名前を逆に言っても「アイアム」を付けないと英語として成り立たないということも、言わなくていいだろう。


「想子ちゃん、あたしが島出ても、ラーメン一緒に食べに行こうね」


「そうね」


「向こうには、いっぱいおいしいものあるんだって」


「うん」


「想子ちゃんもきっと真井さんと仲良くなれるよ」


「そう」


 花と一緒の時間は、あと二日で終わるのだ。それなのに私は、短い相槌しか発せないでいる。せめて貯金があることは花に言わなければよかったという後悔が押し寄せてきて、気が狂いそうだ。


『……天皇陛下の体調がすぐれないことから全国で自粛ムードが高まっており、個人旅行や社員旅行などのレジャーを取りやめる人々が……』


 自分があまりしゃべらないからか、普段は気にしていなかった、店の奥に置かれているテレビの音がやたらと耳に入る。


 タミヤ軒の重い扉の隙間から流れ込んで私と花のスカートの足を冷やす十二月の空気には、熱いラーメンを食べても勝てなかった。



 ◇◇



『天皇陛下が、一月七日午前六時三十三分、吹上御所で崩御されました。八十七歳でした。陛下は昨年九月十九日に吐血されて以来……』


 一九八九年一月七日、天皇陛下が亡くなった。昭和が終わったと言われてもピンと来ないが、景気が悪くなるだろうということはわかる。


「また自粛……お客さん来てくれないと、お金が……」


「でも想子、あんたもう年末で自分の借金払い終わったって知ってるよね?」


「あ、はい」


「あんたなら島の外でも生きていけるだろうけど、どうする?」


「……私、は……」


「ま、ゆっくり考えな。さて、本当ならそろそろ風呂に入れという時間だが……」


「……お風呂、入ります」


「そうかい? なら他の女の子たちにも言っといてよ。仕事はないけど風呂に入りたいならさっさと入れって。その方が早く掃除できるからさ」


 事務作業で忙しそうな女将に「わかりました」と返事をし、私は女の子たちの部屋を回って女将の言葉を伝えた。その中の数名が早く風呂に入ると決めたようで、同じタイミングで私を含めた四人が脱衣所に集まる。


「うう、寒い。……あのさ、花、元気かな?」


 すぐ隣で服を脱ぐ女の子に突然花の名前を出され、「ん?」と聞き返す。聞こえなかったわけではなく、何でこんな時にという疑問からだ。


「花、いつも早くお風呂入ってたでしょ。この時間にお風呂に来ると思い出しちゃって」


「ああ、なるほど。えっと……、元気に暮らしてる時は連絡しないものらしいよ」


「そうなの? じゃあ元気なんだね。全然電話来ないもん」


 「うん」と返答し、風呂場の扉を入る。確かに彼女が言うとおり、扉を開けると花が先に入っていることが多かった。きれいな白磁の肌、ほんのり薄赤色に染まった頬と肩、へにゃりと笑って「想子ちゃん」と私を呼ぶ細い声。


 滲んだ涙を他の女の子たちに見られないよう、私は浴槽の湯を汲むと思い切り頭からかぶった。

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