毒使い

ep.1 出会い（２）

「縄張りを侵してすまなかった。すぐに立ち去る。退いてくれないか」

　男が三ツ目猪へ語りかける。

　妖獣は言葉が通じるのだろうか。腰を抜かしてへたり込んだ状態で、少年はどこか呑気にそう考えていた。

　猪は尚も眼光と牙を紅潮させたまま、地鳴りのような唸りを吐いている。

「俺とて森を焼きたくはない」

　男は炎をまとわせた左手を前方へ掲げる。男の脅しは効果が無く、妖獣は一声短く吼えると首を捻った。

「ふあっ！？」

　体が宙に浮く感覚がして少年は声を裏返らせた。男が少年の体を小脇に抱えてその場から飛び退る。

　しなった妖獣の鼻先が草むらを抉り陥没させ、振り上げると共に樹木を薙ぎ倒した。

　男は少年の体を抱えたまま背の高い樹木の枝へ飛び乗る。

「わ、わ！？」

　感じた事のない感覚に少年は慌てふためき手足をバタつかせる。

　ものともせず、男の片腕は少年の体を完全に固定してびくともしなかった。

　三ツ目猪は男の足元、大樹の根本へ突進しながら鼻を振り上げる。

「あぶ、危ない！」

　樹が倒される！

　慌てる少年の声を無視して男は空いた右手に何かを握り、少年の体を抱えたまま再び飛んだ。

　直後、猪の鼻が樹を薙ぎ払う。

　男は小丘のような妖獣の体を飛び越える途中、右手を一度振り下ろした。

　ブゴッ

　悲鳴とも嘶きともつかない短い鳴き声。

　男が着地した直後、妖獣の巨体はその場に沈んだ。

「え？いってっ！」

「お前は動くなよ」

　男は少年の体をその場に放り出すと、動かなくなった猪に近づいていく。

「な、え…？死んだの？」

　何が起きて、何故こうなったのか、少年は混乱した頭を振った。

　尻もちをついて足を投げ出した少年の視に映るのは、辺り一帯の草木が薙ぎ払われて円形に禿げ上がった森。

　ぽっかりと穿たれた空、そこからそそぐ月光に照らされて動かない妖獣の巨体。

　その前に立つ男。

　男の装いは、ほぼ全身が黒色で統一されている。

　左腕、腰、右腿に革帯が巻かれ、腕と腿には刃物差し、腰には道具入れが装着されていた。両手は黒い手甲で覆われ、膝下が脚絆で保護されている。旅の装いとも異なるようだった。

「元々この辺りを荒らしていた奴だった。ちょうど良い」

　妖獣が完全に動かなくなった事を確かめた男が、少年を振り返る。

　男の顔には、黒い面。

「ひっ！」

　鬼か、獣か。

　漆塗りの黒い面には蒔絵だろうか、金や銀の線で獣の顔が描かれていて、角のような鋭い突起物も象られていた。

　怖がる少年の様子を気にする様子もなく、男は再び妖獣の体に向き直ると、針毛に引っかかっていた薄い浅葱の布地を手にとった。

「これはお前の物か」

「それ！母さまの！」

　鬼の面に恐れをなした事も忘れ、少年は立ち上がって男のもとへ駆け寄り、衣を引ったくった。

「母さまは、こいつに喰われたのかな…」

「……」

　着物を抱きしめる少年の問いに、男は答えなかった。

　返したのは別の問い。

「お前、凪の子どもではないだろう」

「え？」

　質問の意味が分からずに少年が首を傾げていると、男は言葉を続けた。

「ここは五神通祖国の一つ、凪之国の領内だ。お前はどこから来た」

「ゴシンツウソ…ナギ？」

「難民の孤児って訳か」

　単語を何一つ理解できていない様子の少年に、男は仮面の下で小さくため息を吐いた。

「お前の母さまはどこへ行くと言っていたんだ？」

「森の向こうにお国があるって…」

　男は「そうか」とだけ応え、着物を抱きしめて俯く少年の全身を眺めた。

　視線が少年の足首に留まる。

「それ、自分で手当をしたのか。ヨモギか」

「ど、どうして分かるの」

「匂いでな」

　少年はただ、目を丸くした。さきほどから起きている事に思考の処理がまったく追いつかない。

　妖獣に襲われた事、

　母親はもう死んでいるであろう事、

　仮面の男が不思議な力で助けてくれた事、

　森の向こうに国がある事、

　そして自分は独りになってしまった事―

　起きた事が事実として頭の中に並ぶだけだった。

「ふむ」

　茫然とした少年をよそに妖獣の遺骸を検分していた男から、独り言が漏れてくる。

「よく分かったな」

　背を向けたまま、男は少年に声をかけた。

「え？」

「急所だ」

　男の甲当てを装着した手が、妖獣の体の一点を指し示す。

　地に沈んだ猪の顔面、見開かれたまま光を失っている三つの目の真ん中に、少年が投げた小刀が刺さっていた。

「キュウショ？」

　またもや首を傾げる少年に、男は「お前何も知らないんだな」と呆れを向けた。

「こいつにとって、弱い部分だ。なんでここに小刀を刺したんだ」

　幾分か易しくなった男の言葉をようやく理解した少年は、急かされるように口を開いた。

「石がそこに当たった時にものすごく怒ったから、痛いのかなと思って小刀を投げたんだ」

「……」

　少年の答えに男はしばし、動きを止めた。

「ねえ、おじさん」

　仮面の下で思案する様子の男に、今度は少年が問いを向ける。

「どうやってあの妖獣を倒したの。火の術じゃなかったよね」

「よく見ていたな」

　男はまた妖獣の遺骸に手を伸ばした。猪の後ろ首付近を探り、何かを引き抜いた。

「これだ」

　少年の前に差し出されたのは、銀色の細く長い針。

「これ、だけで？」

「触るな」

　伸ばしかけた少年の手から、男は針を遠ざける。指先で弄ぶようにくるりと回転させながら、左腕の革帯の刃物入れに差した。

「毒だ」

「毒」

　着物を握りしめていた少年の手が、脱力したように下がった。疲労と恐怖で濁りかけていた面構えが、今は興味津々といった様子で妖獣の遺骸を見つめている。

「おじさん、妖獣に効く毒って、」

「藍鬼（らんき）だ。おじさんはやめろ」

　少年の問いを遮り、男は自らの名を明かした。

　そして口をぽかんと開けたままの少年に、尋ね返す。

「お前、名前は」

「青（せい）。青って書くんだ」

　これが、青と師の出会いだった。