030: 望郷
三日月のようなヘッドセットを外し、千織は大きく息を吸った。そして上体を起こし、窓から注がれる昼の日差しに目を細めた。
まるで深い眠りから覚めたような気分だった。窓を開けると爽やかな空気が入り込んできて、部屋に満ちていたエナジードリンクの匂いはだんだんと薄れていった。
そうだ。しばらく留守にする前に、部屋を掃除をしなければ。千織は立ち上がり、とりあえず腹を満たそうと、机の上の栄養食品を手に取った。
千織はそろそろ帰国をしなければならなかった。春学期が終わったこの時期でないと千織に暇はなく、春から夏にかけての数日しかドクターたちと顔を合わせられないのだ。
別に会いたいわけではないが、研究もコミュニケーションが大切だ。それにカナギの件もあり、なるべくドクターたちの動向を探っておきたかった。
そこまで考えて、千織ははっとした。
慌てて千織はヘッドセットと接続されたパソコンを開いた。そしてカナギのデータの場所を探ったが、もう既にどこかへ転送されていた。
おそらく『SoL』を介してドクターの元へ送られたのだろう。元々渡すつもりだったとはいえ、引き換えに情報を引き出そうと思っていた千織は歯噛みした。
千織が知っているのは『SoL』の役割ぐらいだ。
剣道のように動作で伝えられる専門知を、『SoL』の中での戦闘や生産を通してデータ化すること。
トラウマを始めとする強い情動が、人の脳機能にどのように作用するか観測すること。
それらのデータがなんのために集められているのかは分からないが、緊迫する国際情勢を思えば、きっと碌なものではないだろう。
今や、反戦を掲げる国家でさえ、防衛のために武器を揃えなければならないのだ。
日本は月面に量子コンピュータのための施設を持っている。データセンターとしても機能するそこは、日本から遥か遠いにも関わらず、日本にとって最重要の防衛箇所だ。
そのため、自律型の兵器は重宝される。おそらくドクターはその開発のため、戦闘データを集めているのだろうと、千織は予測していた。
しかし『SoL』のもう一つの目的、人の情動と脳活動の関わりを研究する目的が、千織にはまだ分からなかった。
ドクターの研究仲間兼同居人は、たまに帰る千織を含めて五人だ。
元警官であり、政府との繋がりがある真上。
年若い芸術家であり、リベラルアーツに造詣が深い聖羅。
その妹の愛結。
そして謎多き脳科学者、雅己。千織は現実でも、彼のことをマッさんと呼んでいる。
『SoL』の二つ目の役割である、情動の研究を提案したのは雅己だった。ドクターと彼の間で、お互いの目的を果たせるような研究プランを作り上げたのが始まりだった。
そして彼が真上を引き入れ、ドクターが子供たちを集めた。だから千織は、雅己と真上の関係も深くは知らないのだった。
その二人について分かっているのは、同い年ということだけ。聖羅と愛結におじさんとして扱われる真上が、兄と呼ばれる雅己についてそうぼやいているのを聞いたことがあった。
ため息を吐いた千織の目に、メッセージツールの通知が留まった。見ると聖羅と愛結からの連絡だった。
『ちゃんと愛結の誕生日プレゼント買ってきてよね』
『別にいいよ! お兄ちゃんが帰ってくるだけでも嬉しいもん』
『愛結マジでダンス上手くなったんだよー。動画送ったげようか?』
『もう、お姉ちゃん! 恥ずかしいからやめて!』
二人は千織のことを実の兄のように扱ってくれている。千織はこうして仲の良い兄妹を演じる度に、孤独に耐えているであろう実兄のことを思い出すのだ。
痛む胸を誤魔化しながら、千織はメッセージを返した。
『適当なチョコとコーヒーでええか?』
『わー! 買ってきてくれるの? ありがとう!』
『あたしギラデリのキャラメル味ね』
『はいはい』
とはいえ、この二人も心に傷がある者同士だ。
特に愛結のほうは、恋人に狂わされた母親の影響か、男性を怖がる傾向にある。可愛い妹を演じるのもほとんど防衛本能のようなもので、実の母親から男性との喋り方を指導されていたらしいと聖羅は言っていた。
形の上では家族の体を成していた千織の家庭でさえ居心地が悪かったというのに、母しか頼るもののなかった彼女が、どれほど心細かったか。
それを思うと、ドクターたちが新しい家族という檻を作り出したのも、悪いことではないのかもしれない。
千織はパソコンを閉じ、部屋の隅からキャリーケースを引っ張り出した。日本で使いそうな物品を詰めながら、カナギは今頃寝ているのだろうかと、千織はふと気になった。
彼の本名はたしか、金木陸暮というはずだ。ネットで検索すれば、数年前の彼の活躍を報じる記事が見つかるだろう。
それによると、彼の出身校は関東だった。もし今も関東に住んでいるのなら、会いに行けるかもしれない。
そう思うと、千織は急に日本に帰るのが待ち遠しくなってきた。
関東の光景。高さを競い合うビル群がひしめく青空、飛行機と人工衛星の光のみが届く夜空を、彼もきっと見上げたことがあるだろう。
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