028: 獣へ -- 『仇花の宿』にて
センリは突然、頭に鋭い痛みが走るのを感じた。あらゆる場所を重ね合わせた視界がだんだんとぼやけていき、センリは情報の奔流にあらがうように目を覆った。
「センリ?」
カナギが心配そうにのぞき込んできた。しかし彼は何かの気配を感じたように、はっと座敷の奥の方を見た。
獣の息遣いが聞こえた。
センリも振り向くとそこには、影からにじみ出たような黒い猫がいた。その体躯は大型犬ほどで、ぬらりとした光沢があった。
その佇まいは、まるでグランドピアノのようだった。
「猫のモンスター? 原生林に出現するって聞いたことはあるけど、なんでここに?」
カナギは困惑しながらも、刀を手に取って慎重に構えた。だが廊下からも爪音が聞こえてきて、カナギははっと息を呑んで振り返った。
障子戸の向こうにも黒猫はいた。庭の向こうから飛び込んでくるのもいた。彼らは座敷の中にひしめいて、その金色の瞳で二人を見つめた。
「カナギ」
センリが呼ぶと、カナギは揺れる瞳をこちらに向けた。肉眼の視線が交差した。
「ごめんな」
その言葉にカナギは目を見開いた。彼が怪訝そうに口を開いた瞬間、何者かがその襟元を掴み、座敷から引きずり出した。
「どけ。死にたくなきゃ逃げろ」
それはマガミだった。大振りの刀を携えた彼は、険しい顔でセンリと黒猫たちを見やった。
「ま、マガミさん。あれは一体……」
「能力の暴走だ」
「能力?」
一向に場を離れようとせず問い返すカナギに、マガミは舌打ちをした。しかし結局、彼はしぶしぶ口を開いて答えた。
「あいつはテイマーなんだ」
「テイマー!? そうか。だから刀の扱いが不慣れなのか……」
『SoL』の職業のうち、モンスターを操作できるのはたった二種類しかない。一つがネクロマンサー、そしてもう一つがテイマーだった。
ネクロマンサーの扱うモンスターはあくまで一時的な召喚だ。その上召喚には代償が伴い、呼び出すモンスターが強力であればあるほど、支払わなければならないコストは重くなる。
しかしテイマーは、一度飼い慣らしたモンスターを、それが死ぬまで使い続けることができる。
ネクロマンサーであるドクターは、その両者の違いについてこう言っていた。
ネクロマンサーの本質は他者愛と自己犠牲。テイマーの本質は、利己心と英雄願望なのだと。
「本来ならモンスターを使役して戦う職業だ。でもあいつは、自身の感覚器官の延長としてモンスターを使役した。自身の目となり耳となることを、モンスターたちに求めたんだ」
そしてマガミはため息を吐いた。
「おそらくそのせいだろう。あいつの使役するモンスターは、あいつの心も共有するようになった。それに気づいたあいつは、あらゆる感情をモンスターたちに押し付け、自身は合理性のみを求める機械に徹しようとしたんだ」
「でも、あいつはいつも笑顔で……」
カナギはそう言い募ったが、マガミが即座に切り捨てた。
「それは演技だ。円滑に人と会話をするためだけの」
マガミはそう吐き捨てた。その言葉にカナギは悲しそうな顔をして、障子戸の向こうから静かに尋ねた。
「そうなのか? センリ……」
「違う!」
口を開いた瞬間、言葉が溢れそうになった。抑圧された感情が、心の中にどっと流れ込んでくる感覚がした。
「今は違う……お前と出会ってからは!」
気づいたときには、座敷の中の黒猫は一匹残らず姿を消していた。いや、センリの影の中にいた。
「カナギ。お前と出会ってから、俺は自分の感情を無視できんくなった。お前の前では、どうしようもなく俺に戻ってしまう」
センリは赦しを請うように腕を掲げた。その手は獣のような影をまとい、鋭い刃のような爪が生えていた。
「お前の片目が無くなったんは、あの事件が起きたんは、俺のせいやねん。カナギ。俺が兄さんを追い詰めたから……俺が兄さんの孤独を分かってやれんかったから!」
自分が自分でなくなる。いや、自分は自分でなかった。今までの自分は、笑顔の仮面を被り、言葉で飾り立てた人形でしかなかった。
影の中に身をひそめ、光を睨み続けた黒い獣こそが、本当の自分だった。
センリがそのことを認めたとき、影は勢いよくその身体を飲み込んだ。
使役するモンスターとの心身を超えた同化。それがセンリの発現した、トラウマによるスキルだった。
「センリ!」
カナギは叫んだ。どこかへ行こうとする友人を、呼び戻そうとするように。
しかしその前に現れたのは、なめらかな毛並みの黒豹だった。孤独に駆けてただ獲物をむさぼるその獣は、センリの心そのものだった。
黒豹は音も立てず跳んだ。短刀のような爪を影から現し、マガミの顔を目掛けて。
「センリの拘束と隔離を実行しろ」
黒豹の爪を刀ではじき返し、マガミは冷たい声でそう言った。
その瞬間、畳の下から黒豹を貫く勢いで無数の骨の手が生え出でた。それらに掴まれた豹は暴れたが、骨の手は次から次に生えてきて、獰猛な獣を抑えにかかった。
マガミが近寄ると、骨の手の一つがUSBメモリを彼に差し出した。
「ちっ、仕方ねえな……。俺が後で渡しに行けばいいんでしょう。ドクター」
マガミはそう言ってUSBメモリを手に取った。
『運営からのお知らせです。重大な不具合が発見されたため、十分後にメンテナンスを開始いたします』
そのアナウンスを最後に、センリの視界は影に覆われていった。何もない真っ暗な空間に放り出されたような、そんな孤独な浮遊感がセンリの心を蝕んだ。
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