10
「ち――違う!」
あたしはぱっと悪魔に背を向けると、逃げるようにベッドにもぐりこんだ。
とても自分の発した言葉だとは信じられなかった。どうしてこんなことを言ってしまったのか。羞恥のあまり、死んでしまいたいくらいだった。
悪魔が近くにいるせいで、あたしの理性も自尊心も薄っぺらになり、こんな恥知らずな行動をとってしまったのだ。
(媚びたんじゃない。あたしはただ、悪魔の優位に立ちたくて、そのために女であることを利用しただけだ)
だってあたしには、それしかないから。
(……同じことだ)
あたしは力なく枕に顔を伏した。
――やっぱりあの母親の子だよ。
――男好きする顔してるもんなあ。
(違う!!)
お母さんはあたしを生かすために仕事でやってるんだ。好きで男に媚びているんじゃない。
でも、今のあたしは――。
嫌悪感で消えてなくなってしまいたかった。魂を取られた方がよほどましだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、悪魔がいつのまにかベッドの傍らに立っていた。
悪魔は口の端に薄ら笑いを浮かべる。
「お前が誘ったのだ」
あたしは凍りついた。自分が、とんでもない言葉を口にしてしまったのだと気づいたのだ。
不意に毛布がすっと上げられ、ベッドのマットレスが沈んだ。
「い――嫌だ……」
あたしは枕をかたく抱えて身を竦めた。
不意に、頭上からくつくつと笑い声が聞こえた。
「冗談だ。心配せずとも俺は契約が終わるまでは契約主の身体にも魂にも手を出すことはしない。決まりだからな。そもそも俺が一時の衝動で契約を反故にするような阿呆だと思うのか? 欲望に負けて大きな見返りを逃すのは、馬鹿な人間かぬるま湯につかり切った能天気な天使くらいだ」
枕から顔を上げ、呆然とするあたしを、悪魔は冷ややかに見下ろした。
「覚悟もないのに浅はかなことをするのは金輪際よすんだな。今のお前が男に何を与えようと、見返りは何ももらえない。ただ搾取されるばかりだ」
あたしは枕を抱えたまま、唇を噛んでうつむいた。。
(いつまで奪われる立場でいなきゃならないの? 大人になったら解放されるの? それまで耐えなきゃならないの?)
喉の奥が熱くなり、涙が込み上げてくる。
「……泣くことないだろう」
悪魔は溜息交じりに「腕を見せてみろ」と言った。
あたしは枕を置いて身を起こすと、言われるがままにパジャマの袖をたくし上げた。
赤く爛れて、腫れあがった二の腕を目の前に、悪魔はどこか遠慮がちなしぐさで触れた。――そう言えば、この悪魔があたしに触ったのはこれが初めてだ。
痛みはたちどころに引いてゆき、あたしは心底驚いた。
中島に移された穢れが浄化されてゆく気がして、また涙が込み上げてきた。
「どうしてこんなことしてくれるの。あたし、あんたをひどい目に遭わせたのに……」
「これはいずれ俺のものになる身体だからな」
ふだん言葉も態度も冷たく意地悪なのに、弱っているときにだけ優しいのはずるい。こんなの、搾取しようとする人間の常套手段だ。
頭ではそう思いながらも、ひんやりとした悪魔の手は熱を持った肌に心地よく、その手をつっぱねることができなかった。
あたしは、すん、と鼻をすすり上げた。
「……あたしのこと嫌いなのに、どうしてあたしが欲しいの?」
悪魔は不思議そうに見返した。
「嫌いなわけがないだろう」
「嘘。じゃあどうしてひどいことばかり言うの? さっきだって、あたしの苦しむ顔を見たいって言った」
「おまえを気に入っているからだ。わからないのか」
「ぜんっぜんわからない」
あたしは語気強く吐き捨てた。
好きな人には大事にしたい。母にそうしてあげたいように。
「もういいから、離して」
悪魔は素直に手を離した。あたしは彼から取り返すように腕を引く。
気に入っている。――臆面もなく言われ、あたしは密かに動揺していた。この悪魔は嫌なことばかり言ってくるが、嘘だけはつかれたことない。母親以外で自分に好意を寄せてくれる人間がいるなんて。
「……あたしに触りたいとか、思うの?」
「ああ、勿論だ。お前も、好きな相手にはそうだろう?」
問い返され、その灰色の目を思わず見返した。
――そういえば、しばらく母に触れていない。それどころか、すれ違い生活でここ数年ろくに顔も見ていない。
悲しかった。あたしの好きな人間は、母しかいないのに。
たまらず、悪魔の手をつかむ。
「じゃあ、抱きしめるだけならいいよ。でもそれ以上はだめ」
悪魔はしばらくあたしを見つめていたが、無言で抱きしめてくれた。
あたしがそうして欲しいと思っているのを、わかってしてくれたのだ。
(……願いではないのだから、従うことないのに)
そしてあたしはようやく自分の気持ちに気づいた。
本当は優位に立ちたいとか、やり返してやりたいとか、そんなことではなく。
ただ、誰もかもに
あたしは悪魔にしがみついた。
(さびしい。さびしいよ。――お母さん)
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