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 結局、図書館で時間をつぶすことにした。このまま所在なく公園になんかいたら、警察の職務質問の餌食になりかねない。

 平日の午前中だというのに、図書館には中学生や高校生くらいの子の姿がぽつぽつとあった。自宅浪人生か、もしかしたら不登校の子かもしれない。ただ、制服なのはあたしだけだったが。

 昼過ぎくらいまで図書館で過ごし、母が出勤した頃を見計らって家に帰った。

 制服からTシャツとスパッツに着替えると、リビングでお弁当を広げて食べ、また勉強をした。日が暮れたころに夕食をとり、お風呂を磨き、湯をためて湯船につかった。

 熱い湯に浸すと腕がじんとしみた。

中島の血走った目が脳裏によぎる。

(あいつ……どうゆうつもりだったんだ)

 あんなふうに女生徒に触れるなんて。越えてはいけない一線だとわかっていたはずだ。腕だけじゃない。悪魔の声がなければ、顔にまで――。

 あたしは叫び出したくなった。きたならしいものが皮膚から身の内にじわじわと染みこんでいく――。

(――嫌だ!!)

 あたしは弾かれたように湯船からあがると、スポンジにボディソープを山盛りに出した。それを力のかぎり腕にこすりつけた。

 皮膚が赤くなり、血がにじみ出して泡を薄紅に染めた。ひりひりとした痛みから耐え難い苦痛になっても、やめられなかった。

 シャワーの湯で泡を流すと、真っ赤に腫れあがった皮膚があらわれた。そこを鷲づかみ、渾身の力で捻りあげる。身体に染み込んだ穢れを絞り出すのだ。

 擦りむけた皮膚にポツポツと血の斑点が浮かび、粒になってぽたぽたと腕から滴り落ちた。湯と共に排水口に流れていく。

 腕が焼けるように痛かった。

(……大丈夫。あんなことはたいしたことじゃない。あたしは何も変わっちゃいない)

 ばかなことをしているとわかっていた。でも血を絞る行為をやめることができなかった。



 お風呂上り、のろのろとパジャマに着替えた。髪をドライヤーで乾かす気力もなく、バスタオルで水気を適当にとりながら自室に向かう。

 じっとりとした疲労感で、全身が重かった。

(眠い……。でも、英単語を暗記しなきゃ……)

 悪魔の苦悶にゆがんだ横顔が脳裏に浮かんだ。ひどくつらそうだった。

彼はもう、二度とあたしの前には現れないかもしれない。

 自室のドアを開け、あたしはびっくりして目を瞠った。悪魔がデスクチェアに足を組んで座っていたのだ。

「……もう、ここには来ないかと思った」

「なぜだ? 俺たちは契約を交わしただろう」

 悪魔は口調こそいつものとおり尊大であったが、その顔はこころなしか青ざめ、疲労が濃かった。

 きっとものすごく苦しかった中で、あたしを中島から逃がしてくれたのだ。――あんな目に遭わせたあたしを。

 なんて酷いことをしてしまったのだろうか。

「どうした。まさか俺が無事で安堵したのか? いたるところに魔を祓う呪が施された校舎にて、そばを離れるなと言ったのはおまえじゃないか」

 悪魔はあたしを見据えながら、畳みかけるように言葉を重ねた。

「おまえは中島にされたことと同じことを俺にしたのだ。中島が己の鬱屈や欲望を何の関係もないおまえで晴らしていたように、おまえも大人にやられた理不尽なしうちを俺にぶつけたのだ。人間の大人にやり返すことはできないからな。――おまえは中島と同じだ」

 言葉もなく、うつむく。違うと叫びたかったが、できなかった。

 悪魔の言うとおりだ。あたしはこの悪魔を、痛い目に遭わせてやろうと思ったのだ。中島と自分と、どう違うのか。

 羞恥と嫌悪感に、震えがとまらない。

「……気に病むことはない。人間とはそうゆう生き物なのだ」

 悪魔は面白そうな目であたしを見やりながら、口調だけは憐れみを込めて言った。

 そこで気づいた。この悪魔が、あたしを傷つけて楽しんでいるということに。

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