5

 中島は唖然としていた。クラスメイトたちもそろってぽかんとした顔をこっちに向けている。それはそうである。今までのあたしなら、無表情を貫き、逆らうことなど決してしなかったのだから。

 あたしの身体は淡々と帰り支度を済ませると、くるりと踵を返して教室の出口に向かっていった。

「ど、どこに行く! 結城!」

 中島が我に返ったように怒鳴った。その声から逃げるように、あたしの足は突然駆け出した。

 教室を飛び出し、廊下を駆け抜けてゆく。あたしの意志から解き放たれた身体は、信じられないほど軽く、速く、まるで風のようだった。

(やめて!! お願い、とまって!!)

 四階から二階の踊り場まで一気に階段を駆け降りたところで、とつぜん足はぴたりと走るのをやめた。その途端、羽のように軽かった身体にずしっと重力がのしかかり、あたしはつんのめるように手すりにすがりついた。

 身体の主導権が戻ってきたのを感じた。次の瞬間、どっと汗が吹きだし、肺が燃え上がった。

 あまりの苦しさに必死で喘いだ。全身が酸素を求め、かっと頭が熱くなる。

 ようやく呼吸が落ち着いたところで、あたしはやっと手すりから掌を離した。手を開き、握ってみる。小刻みに震えてはいたが、たしかに自分の意志で動かすことができた。

 安堵のあまり、あたしはその場で崩れ落ちそうになった。

(身体を乗っ取られた……!)

 ショックにがくがくと震えがとまらない。怖ろしいものを相手にしていたと、今さらのように気づいた。

(悪魔なんて、あたしなんかが扱えるものじゃなかった)

 きっとこれは始まりだ。最終的には身も心も完全に乗っ取られてしまうのだろう。

 ――でも。

(……あたしが死ぬまで、この身体には手を出さない契約だったんじゃないの?)

 嘘をつかれたのだ。悪魔は人間なんて当たり前のように騙すのだ。

ひどい。許せない――。

「結城!!」

 あたしはぎょっとして背後を振り仰ぐ。

 三階の踊り場から、中島が息をきらしながら見下ろしていた。

「……どこに行く気だ。まだ授業中だぞ」

 それはこっちのセリフだ。教師のくせに授業を放り出して追ってきたのか――信じられない。

 中島は血走った目であたしを睨みすえ、「そこを動くなよ」と指を突きつけた。

 どたどたと階段を駆け降りてくるその姿は、興奮しきった鼠が、色んな黴菌ばいきんを振りまきながら突進してくるようにしか見えなかった。あまりの気持ちの悪さに全身に鳥肌が立ち、あたしは逃げるように階下に向かって駆けだした。

「待てと言ってるだろ! この時期に教師に逆らうのは賢明じゃないってわかるよな?」

 思わず足がとまった。

 あからさまな言葉に驚いたのだ。中島は計算高く周到な男だ。暗にほのめかすことはしても、こんなふうに直接脅すようなセリフは決して言わないはずなのに。

 中島は逃すかとばかりにほぼ飛び降りるように階段を駆け下り、あたしの真正面に立ちはだかった。荒げた息がかかるほどに近くて、あたしはとっさにうつむいた。怒られることより、気持ちの悪さに吐き気が込み上げてくる。

 中島は自分の威圧が効いているのだと勘違いしてか、口の端を上げていやらしい笑みを浮かべた。

「……あの、具合が悪くて……。早退します」

「具合が悪い? そうは見えない走りっぷりだったじゃないか」

 顔を覗きこまれ、あたしは反射的にぱっと顔をそらした。

「なんだ? 震えているな。本当に体調不良なのか?」

 顔色も真っ白だなと手が伸びてきて、あたしは弾かれたように腕を振り払った。

(黴菌が!)

 中島は驚いたように目を見開く。その顔は見る見るうちに怒気に染まっていった。

 しまったと思った瞬間、中島はあたしの腕をつかみ、ぐいっと引き寄せた。

 あたしは悲鳴を飲み込んだ。

 触った。ありえない。今どき、女性教師でもむやみに生徒の身体に触れることはないというのに。

 ショックのあまり、掴まれた腕から目が離せなかった。

 じわじわと皮膚から黴菌が染み込んでくる。――むしばまれる。

「俺に逆らうとはいい度胸だな。結城」

 我に返って顔を上げると、中島がぎらぎらと血走った目で見据えていた。妙にふっ切れた顔をしていて、ぞっとした。

「真面目な生徒とばかり思っていたのにな。やっぱりその髪は染めてるのか?」

 中島は粘るような笑みを浮かべ、もう一方の手を髪に伸ばしてきた。

(もうやめて‼︎ 触らないで!! 汚ない、汚い!!)

 その時、階上から――中島先生、と低い男の声がした。

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