第8話

 黄昏時の大通りを俺達は歩く。

 横並びに一定の距離を保ったまま。会話も一切無いので気まずい。

 知らんぷりを決め込み、そのまま分かれて帰る事もできる。だが、俺は何となく離れる事が出来ないでいた。

 ふと、後ろに続いていた足音が止まる。


「私、鷹越(たかこし)から来てるんだよね。だから、バス通学」

 バスの停留所に立ち止まっている赤坂。時刻表を見ながら、俺の方には顔も向けない。


「山の方か。結構遠いとこから通ってるんだね」

「最初のHRで鷹越中出身だって自己紹介したでしょ? 聞いてなかったの?」

「初日の自己紹介は殆ど腹痛との戦いだったからな。そんな余裕なかったんだよ」

 初対面同士の人間が詰め込まれた入学直後の教室は、異様に殺気立っていた。

 その空気のせいか、授業初日の俺は、もやっとした腹痛にずっと耐え続けていたのだ。

 自己紹介なんて殆ど覚えてない。


「やっぱりさ。何とかしないといけないと思う訳よ、私は」

 赤坂は腕を組むと、何か一つ決心したように頷いた。


「だからさあ。あんたのウ〇コの話」

 俺が分からないでいると、赤坂はますます不機嫌そうに顔をしかめる。


「だって、そうでしょ? あんたが昼休みに抜け出したり、保健室でサボる原因を解決しないと、どうにもならないじゃん。いつまでもカップル扱いされて、噂なんて消えないし。もしかしたら、ある事無い事まで増やされてデマが大きくなるかも」

「まあ、確かにそうだけど……」

 赤坂って意外にちゃんと考えてるんだなあ。

 一瞬そう思うが、単に彼女は噂に困っているだけだ。親切心で俺を助けたいという訳ではないんだろう。

 現に、目の前の赤坂は俺を見ながら苦虫を潰したような顔。


「つーかさ、トイレなんていつでも行けばいいのに」

 ぽつりと呟きながら、俺の目をじっと見つめ続けてくる。思わず視線を背ける。


「そう言われてもな。駄目なんだよ――」

 一方の赤坂は俺から視線を逸らさないまま、怪訝な顔を浮かべる。


「女子は知らないかもしれないけどさ。男子トイレって個室に入る=ウ〇コなんだよ。中でウン〇してるのが分かると超からかわれるし。俺にはそういう経験がトラウマになってるんだ」

 小学生の通過儀礼とも言えるイベントを経験した俺。

 中学ならば、流石にそんな阿呆な事をする輩もいなくなるだろう。そう思っていたのだが、新たな問題が浮上した。中学デビューした不良だ。

 何とあいつら、事あるごとにトイレに集まるという、それは困った習性を持っているのだ。


 中学一年の頃の話だ。

 ある日、腹痛に襲われた俺は、敢えて人のいない離れた校舎のトイレに向かった。

 これで、沈黙の教室でひたすらに腹痛に耐え続けなくて済む。

 そう思っていたのだが……


『よう、一之瀬。お前も次の授業はサボリか?』

 トイレに入った俺を出迎えたのは、学年屈指の不良グループ。

 まさか、ウン〇をしに来たとも言えず、小だけ済ませて教室に戻ったのを覚えている。

 その後の授業は五十分間、死ぬ思いで耐え続けたのは言うまでもない。


「――だから、俺は誓ったんだ。学校でだけは絶対に〇ンコをしないってな!」

 それら一連の、人には絶対に言えず、心に留め置いていた記憶を打ち明ける。


「…………」

 しかし、俺が話し終えた後も、赤坂は何も言わないまま。

 軽くドン引きした眼でこちらを見ていた。


「一之瀬って普段大人しいのに、トイレの事になると異様に饒舌なんだね。きもい」

 ようやく口を開いた赤坂は、少年だった俺があの日心に固く誓った鉄の掟を、呆気なく、いとも容易く『きもい』の三文字で全否定する。

 マジでこの女子高生えげつない。


「あのさ。高校生にもなって『ウン〇できなくて授業サボったりして単位落とした』なんて事になったらどうすんの? アホでしょ」

 なおも畳みかける赤坂。俺の心はもう九回表に駄目押しを喰らい、スタミナゼロのピッチャー並みにボロボロだった。


「いや、それは分かるけど……どうしようもないだろ」

 今まで何度も自分なりに改善しようとはした。しかし、いざトイレに入ろうとすると足が竦んでしまうのだ。


「俺じゃ駄目なんだよ」

 単に、俺が気にし過ぎているだけなのかもしれない。

 それでも、どうにもならなかったという歴然とした事実だけが積み重ねられ続けて来たのだ。

 きっと、これまでと同じようにこれからも……こんなくだらない事で俺は悩まされ続ける。


「本当に嫌になる」

「はあ……」

 言っている内に、自然と拳が握られていく。無力感と敗北感で一杯だった。


「俺は……!」

「はあーーーっ!」

 それを黙って聞いていた赤坂は、頭(かぶり)を振ると、呆れたように溜息をつき、


「一之瀬さあ」

 そのまま一歩、ざっとこちらに踏み込んでくる。 

 そして、びしっと人差し指を向けてこう言い放った。


「――そういうとこ、直さねばまいね!(訳:直さないといけない!)」


 ブスリ。

 伸ばした綺麗な人差し指が俺の胸元、その正中線上をまっすぐに突いた。死ぬ痛み。


「いってええええ~ッ!」

 たまらずしゃがみ込む。学ランの分厚い生地なのに肋骨の奥まで灼かれた。


「情けない男。本当ムカつく」

 背を丸くして悶えるしかない俺。その頭上で赤坂が吐き捨てるように言った。


「つーか、さっき何て……」

 脳裏に再生されたのは、先ほどの俺を一喝した赤坂の台詞。


「本当に駄目な男だねって言ったの。そういう所を直さないと、どうにもならないよ?」

 赤坂は少しだけ態度を軟化させて言い聞かせるように答える。

 彼女が言い放った唐突な方言。その中でも、『まいね』は至極ポピュラーな言葉だ。

 意味はダメとか良くないとか、失敗したとか、とにかく強い否定を表す。

 幼い頃からこの地方で育った俺は、周囲の大人が咄嗟に『まいね!』と口にするのを良く聞いていた。

 だから、それなりに馴染みはあるし、意味だって分かる。

 つまり赤坂は俺の性格、更に何かにつけてお腹が痛くなる体質、生きる姿勢そのものまで、その全てを全力で否定したいらしい。酷いね。


「赤坂が、キレると方言ぶっ放すキャラだったなんて――」

「うっせな。いっつもこんな言葉使わねし。本当まいね男だなってさ。それじゃあ、駄目なのよ。分かる?」

 赤坂はまだ収まりがつかないのか、ネイティブ全開の方言でまくしたてるが、徐々に普段使いの言葉に戻していく。雪道でも綺麗に停車する、冬タイヤのコマーシャルみたいだ。


「うう……」

 返す言葉も無かった。

 点灯された車のヘッドライトが俺達を照らす中、赤坂は再び口を開く。


「ま。あんたをどうにかしないと、私の方もどうにもならないって事は分かったわ」

「どういう事だよ?」

 喧騒と夕陽に照らされた街並みを一瞥しながら、彼女はくいと小首を傾けた。


「だからさあ。そのくだらない悩みを何とかしない限り、私は昼休みに外にも出れないって話」

「くだらない悩み……」

 思い出すのは、先ほど美祈さんが発していた一言。

 大人になれば、若い頃の悩みなんてどうでもよくなるとか言っていた気休め混じりの話だ。

 もし、それが本当なら……いつか遠い未来、俺がこの腹痛で悩んだのを笑い飛ばせる日も来るんだろうか。


「ちょっと、聞いてる?」

 袖元をぐいと引かれ、我に返る。

 赤坂の猫みたいに丸い瞳は、じっと俺を凝視していた。


「このままじゃ私が困るから、協力してやるって言ってんだけど」

「協力だって? 赤坂が?」

 赤坂は自信たっぷりの顔で強く頷く。


「あんたの体質改善が私の学校生活の安寧に繋がるなら、やるしかないじゃない。ま、私に任せなさい」

 そう言いきって見せる。

 決意に満ちた彼女の身体は、夕陽を浴びて燃えるように輝いていた。


「あ、来たっ」

 丁度、その瞬間、通りの向こうからバスがやってくるのが見えた。

 赤坂は運転手に向けて小さく手を掲げ、もう一度こちらを振り返る。


「だから、感謝してよ? このウン〇マン!」

「う、うん〇まん!?」

 赤坂はそれだけ言うと、バスのステップを上がっていく。

 小気味よく鳴る靴音と、バスの車内放送が一緒くたになって耳に入って来るが、俺は呆然と立ち尽くすまま。

 暫くの間、開きっぱなしだったドアは閉まり、バスは急発進していく。


 ――赤坂が協力してくれるだって?


 内心、不安しかない。

 だって、この腹痛はこれまでずっと、どうにもできなかった人生最大級の悩みなのだから。


「それにしたって、ウン〇マンって呼び名は無いよな……」

 ふと、自嘲混じりの笑みが零れる。

 少なくとも、高一の女子の台詞じゃないと思う。

 期待半分、不安半分で見上げた夕空。そこには、既に気の早い星たちが瞬き始めていた。

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